抗がん剤による2回目の治療を終えて3週間ぶりに兵庫県の実家に戻ると、玄関に飾られた花のにおいに全身が包まれるのを感じた。台所で鍋の煮えるにおい、窓から聞こえる鳥の声……あらゆるものが五感に強く迫ってくる。副作用の味覚障害とも無縁で、ものの味がかえって鮮明に感じられた。全身が生きる力を取り戻そうとしていたのだろうか。
今年1月下旬、1人で暮らすマンションがある東京都新宿区から、要介護認定の書類が届いた。療養に備えて申請するよう、退院前、病院のスタッフに勧められていたのだ。結果は「要介護2」。訪問看護師に週2回、入浴の介護を頼むことにする。地元の医師による往診も含め、定期的な訪問者があることで、気持ちが大いに引き立てられた。
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退院後は抗がん剤治療のため3週間おきに通院した。診察のたびに主治医から「もっと動けるはず」と叱咤(しった)激励を受け、2月中旬にはコルセットを外し、下旬にはつえを離し……と、春に向かって体の機能も回復の一途をたどった。薬の副作用もほとんど感じず体調も良くなるばかりだったが、精神的な不安が簡単に解消するはずはない。パソコンの前に長時間座り、自分の病についての情報を集める日々が続いた。
ネット上にはがん全般の総合サイト、医師による無料相談室、治療に関する最新情報などさまざまなものがある。乳がん患者によるブログも多く、治療の経過をリアルにたどることができる。中にはブログの主が亡くなったという知らせで更新がとまっているものもある。当初は、自分にこれから起こりうることを直視するのが怖くて、パソコンを閉じてしまうこともしばしばだった。がん患者が第一に得たいのは、今後の自分に希望が持てるような情報なのだ。
そんな中、ようやく探していたブログに出合った。私と同様、乳がん診断の時点で骨転移があった患者で、抗がん剤治療を経て新たな転移はなく、15年を過ぎた今も元気だという。末期がんを宿しても、長く生きることはできるのだ。自分も大丈夫かもしれない、いやきっと大丈夫だ。
気持ちの浮き沈みはあるにせよ、この間、大きな落ち込みがなかったことには自分でも驚いている。流した涙も、悲しみよりも感謝によるほうが多かった。遠方から訪ねてくれる友人や職場の人たち。毎日誰かが送ってくれる励ましのメール。高齢の叔母は1人で千羽鶴を折って送ってくれた。環境にも恵まれていた。無邪気な幼少時代を過ごした土地。のんびりとした町の空気。どこにいても、見上げればこんもりとした山の緑が見える。
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3月に入ると「免疫力アップ」を自らに唱え、散歩に、買い物にと1人で出歩くようになった。桜が満開になると、母と弁当を持って近所の公園で花見をした。夕食後は父とのウオーキングが日課となった。友人たちが料理教室に、美術館に、野外ライブにと連れ出してくれた。こんなに楽しい時間が与えられたのだから、命が短くなっても悔いはない。そう思う瞬間がたびたびやって来た。
4月。腫瘍(しゅよう)マーカーは5個のうち一つを残して基準値内に下がった。しかし同じころ、驚いたことに身長が以前より7センチほど低くなっていることが分かる。主治医にとっても初めての症例で、薬で背骨のがん細胞が急速に消えたため健全な骨の形成が追いつかなかったのだという。ショックというより、人体の不思議に驚いた。抗がん剤で頭髪もほぼなくなったが、かつらは作らず、帽子で通すことに決めた。とにかく自然体でいたかったのだ。
6月。エコーの結果、大きかった胸の腫瘍が約1センチにまで小さくなっていた。しかし、薬の副作用から手先に軽いしびれを感じるようになり、ツメが浮き始め、足の1枚がはがれてしまった。9回目の治療を終えた時点で、薬の種類を変えることが決まる。次の薬(EC療法)は吐き気が出やすくつらいだろうとのことだったが、私の場合、初回からずっと、食欲減退も悪心もなかった。副作用の出方には個人差があり、効き具合とも関係ないというが、苦痛がないことはやはり何よりの自信につながる。
「もう南極でも北極でもどこへでも行ける」という主治医の言葉に気を良くして、思いがけない長い夏休みとばかりに小旅行に出かけ、東京の自宅や毎日新聞の職場にも足を運ぶようになった。
9月初め。CTの結果、胸やリンパ節の腫瘍はほぼ消失、新たな転移もないことがわかる。この時点で職場復帰の目標を、がん発覚からちょうど1年後の11月と決めた。
10月末。点滴による抗がん剤治療が最後の日を迎えた。治療は次の段階に進み、経口の抗がん剤を服用することになる。そして東京に戻った後も転院はせず、診察のため定期的に関西に帰ることに決めた。第二の人生を与えてくれたのはこの地だと思っているから。
11月。職場復帰の日を迎えた。【毎日新聞出版局・三輪晴美、45歳】=つづく
乳がんは他のがんに比べ抗がん剤が効きやすく、研究も進んでいる。手術ができない再発・転移患者だけでなく、初期の術前・術後治療にも用いられる。通常の生活を送りながら外来で治療を受ける場合が多く、副作用のコントロールが大きな課題となる。
薬の種類にもよるが、主な副作用は悪心や嘔吐(おうと)、食欲不振、脱毛、末梢(まっしょう)神経障害など。白血球の減少が感染症を引き起こすこともある。表れ方には個人差があり、最近は副作用を抑える薬も充実しているが、大きな苦痛を強いられることもある。医師と相談しながら治療を進めることが必要だ。
毎日新聞 2009年11月19日 東京朝刊