訴えた理由-日本が危ない!

父の名を誇る

ここで暮らして初めて聞いた。

酔っ払いのケンカではない。大人の本気のケンカの声だ。

今日の賃金に道具代が加算されていない。

日当が8千円のはずが7千円しかない、道具代も加算されるべきではないか。相手側がなだめている。大声は困ると。

子どもの為に大声になるんだよと。

お父さん同士の言い合いが、静かな住宅街に大声で響いて30分たった。

誰も苦情を言わない。しんと静まり返って、それが余計に泣きたくなるほど辛い。

沖縄は7割の子どもが貧困家庭にある、と前にも書いた。我が家も例外ではなく、息子は青年期に入っているが、来年、念願の大学受験に挑む。

今日は、「サラの日記」 の事件も厳しい話だが、沖縄で、子どもをダメにしている、今、起きている事件を聞いてきて、相当へこんでいたところに、このケンカの内容だ。

淋しい。

国の力が落ちている。

自分が幼少の頃の光景に似てきている。

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2004年、兄と母に出て行けと言われ、心がどん底に落ちたと書いた。

だが、自分は生まれて今日まで、一度も父や母を嫌ったことがない。兄弟、二人の姉がいるが、誰も嫌いになったことがない。

父と母を尊敬している。

両親が教育熱心だったので、それぞれがスパルタ教育の中で育った。父にはぶたれたこともある。厳しかった。母が、子どもたちを怒鳴ったり、叩いたりしたことは一度もない。

母は、手作りの味噌、醤油をつくり、黙々と働く姿は、いつも子どもより先に起きていてあとに寝床に就いた、そんな記憶がある。

父は人が溺れたと島中の鐘が鳴らされるたび、川平湾に飛び込んで何人もの人を助けた、正義感の強い愛情の深い人だった。

兄は教える才能を活かし、机ひとつの塾からスタートし、沖縄県の子供達の学力向上に現在まで貢献し続けている。

弟は、コネクションの匂いを嫌うまっすぐさで、四次試験まであった新聞社の面接で最後まで残り、「身内に著名人はいるか?」 と質問され、「父は無職、著名人はいない」 と答え、最後の二人として試験を通った。父は公務員を退職しており、著名人も身内にいないこともない。

自分の評価にそれが何の関係があろうか、と。

長姉は海外へ嫁ぎ、日本人の義兄と家庭を築いている。

次姉は舞踊家。次姉の踊りは父親に似て完成度を妥協しない厳しい凛とした美しさがある。

実家は、贅沢ではなかったが、暮らしに、日常生活に、大人になるための訓練が息づいていた。忍耐も強いられたが、両親の生き抜いていく後ろ姿は、そのまま人生の指標になった。

父から、点の教育として、ずるさではなく、強靭さを教えられた。

母からは、聡明であることを、線で教えられてきた。

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お父さん同士の言い争いを聞き、日本が今のように贅沢ではない時代を思い出した。

その時と同じ気配だ。子供心に不安を与える貧しさの、あの感覚だ。淋しくて辛い感覚。

だが、当時は、その分、子どもは、貧しさに応じて、どの家庭でも強靭な教育を受けていた。そのように覚えている。自然と鍛えられる環境だった。

日本の不況や、いや、それだけではない危機を感じるにつけ、豊かさの中で、私達、今時の親は、子どもに冬の時代を乗り越えさせる強靭さを伝授しただろうか。

両親が十分に果たし終えた役割を、今度は自分が問われる番となった。

私は、珍しい姓を一人息子だった父が誇りを持って守ってきたことを知っている。父は亡くなったが、その名を汚すことを許さない。また誇りを持って息子へ渡す義務がある。

今回、立ち上がった最大の理由である。

そうすると、強い愛国心が同時に覚醒した。父親は国の姿の現れである、と私は思う。

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抽象的な家族を自慢する変な稿のようですが、稀な父の姓に意味があり書いた。

「市長事件」 を隠蔽するために、市長夫人と、高里鈴代氏、島袋隆弁護士、左翼運動家たちが絡み、ひとつの事件が意図的に作られた。

新聞が数回、申し合わせたように記事にし、その経過がネットに置き土産という悪質な行為として残った。

父の姓が、ネットでさらしものになって6年。

関わった糸数慶子国会議員に削除依頼を出したが、スルー。

高嶺現県議長もうやむや。

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私は、父の名誉を回復させる。息子へそれを渡す。

次は、その作られた事件を、知った事実のみ書いていく。

沖縄を搾取するものたち、沖縄カルトの実態は深い闇のようかと思ったが、登場人物があまりにも少ないので、それはそうだと、その裏取り作業も大抵が終わった。

前にも書いたが、

2 6 2 の原則は、戦う上で大切だ。

彼らも所詮、数を膨れさせ民意と叫ぶが、2.。

こちらも 2.。

6の大衆的民意は、初め煽られようとも、最終的には、正しいところの、2 につくようになる。

誰でも落ち着く生活がいちばんだからだ。

搾取されっぱなしは、民意の一番嫌がるところ。

本当の味方は誰か、正義は何か。あなたは貧しく喘いではいませんか?

彼らはどうでしょうか。妙にリッチ過ぎていませんか。

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本を売るためではない

実名がでまわっている以上、サラの本をブログに貼れば治療代の足しになるのでは、というアドバイスを頂いた。

そうか、こういう誤解も生じるのか、とこのことについても書かせてください。

私は一冊、本を出している。誤植があり、絶不調の時の出版だった。

読者の皆様は、よく読みとっていただけるとありがたい。

サラにお金が入ったのは、出版直後、二度ほど。4万円程度が二回。

ですから、誰も買わないで頂きたい。

買ったよ、印税入った? と冗談で知人に言われますが、入りませんし、また要らない。

他にお金が流れますので、買えばそちらの支援になると思ったほうがいい。

何度も書いていますが、これは国民、県民への奉仕、石垣市民への公務員時代出来なかった責任を果たすために始めた私人ブログ。

書かないほうが家族のためだ。私の身体の為にも止めた方がいい。

また本を出したいのなら、実力で勝負しなければ意味がない。実力がなければ出ないだけのこと。

生き方だけは、ブレたくない。

損をしても耐える時は耐える。美味しいものだけに飛びついていく生き方は性に合わない。

日本の、「老舗」 の精神が好きだ。また納得のいく仕事を提供する、「匠文化」 の日本を誇りに思っている。

このブログの出発点は、いい歳して、レイプ事件の内容だ。

夫、子どもを犠牲にしている。文字で説明してもピンとこないだろうが、当事者を経験したことのある人はわかって頂けるかもしれない。

ただ書く義務もないので、いつでも削除できる。

公人による事件があったが、県内マスコミは、その公人に設定された報道をした。被害者の側の声は報道されていない。証拠は多い。

県民の、「民意」

の代弁者だと、紙面で記事を書き連ねる。TVが民意だと流す。

ブログを始める前、関東のメジャーな所へいくつか電話をした。

「沖縄? 記事になりませんよ」

伝わってきた感覚は、「ウザイ」 言葉は悪いが、そんな感じだった。内容を聞くにつれて様子は変わっていきましたが。

沖縄県民は、「民意」 を代弁され続けているうちに、日本から、ウザイ対象とみなされる。

私も正直、沖縄県民の、「民意」 、今の日本にはウザイ、と感じるこtがある。

中央の初期の反応は自分の感覚が間違っていないことを証明したようなもので、ブログがスタートした次第。

のん気な県民のために、家族を犠牲にするのをいつ止めようか、親としては毎日、それを考えている。

志が萎えるのは、真意が伝わらない時。

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励ましのようで、非難ー犯罪の抑止力

私は、加害者の人権ばかりを守る昨今の報道や映画に不快感を覚えている。被害者が曝されすぎる。

それも訴えた理由のひとつである。

「罪を犯した人の家族も苦しんでいる。サラさんも忘れて笑おうよ、子どもさんがいるんだから。子どもさんの将来にも影響が出る」

そういうコメントを送られると、心底怒りがわく。被害者の子どものことに触れる無神経。

犯罪の抑止力について書きたい。

犯罪は自分が罪を問われるだけではない。家族も周囲も結果的に巻き込むんだということ。自分の欲望のままの行為が、どれだけ周囲を破壊するのか。それを知っているから、社会人はみなバランスを取り、モラルを守り、他者へ配慮し生きている。

だが忘れようよ、という意味がわからない。すぐに言えばよかったのにと書いてすぐそのあとに。

私は7年の歳月の重みを書いたつもりだ。

被害者が立ち上がるまでに要した時間だ。

犯罪は当然、償うべき。その結果を社会が示すことが、次の犯罪を抑止する。

そう思う。

私を傷つけるつもりはなかった、云々の弁解はいらない。

これはモラル、生き方の問題。感覚の問題。良心の問題。常識の問題。

犯罪をうやむやにする性質の人は、自分の身に降りかかった時に、どうするのだろう。

こうすればこういう痛いことが待っている、だからやるな。

シンプルなことだ。

だが金で、それがうやむやにされたりしたら、子供達を私達はどのように教え育てればいい?

今日は多くの励ましを受けた。だがあまりにも許せない書き込みに怒りだけが残る。

ここは真剣な読者の真面目なやり取りの場所となった。

多くの方々の真摯な声に、私は、日本人であることを誇りに思っている。会ったことのない方々にいつか会いたいと思う。

これが何故、書かれているのか。どのような状況で書いているのか。文章だけで全てをわかって下さり、伴走くださっている方々を思いつつ今日は休みます。

心から御礼を申し上げます。

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沈黙の中の痛みー2009年5月

ここを封鎖しろという刑事告訴が始まれば、私は書けなくなる。

その前に、訴えた理由をできるだけ書きます。

私は最近まで現場の看護師だった。

勤務していた病院に自衛官の方の奥様が入院して来られた。数日で急遽、故郷、宮崎へ帰られることになった。ご夫婦ともピリピリされておられた。奥様は私よりお若い方だった。

病気の重さもさることながら、冷たいんですね、自衛官に。沖縄の空気が。

初めて体感した。強い憤りがわいたのを今でも覚えている。

厳しい現実に直面し、頼る人もない地でご夫婦で途方にくれている。

冷たいじゃないか、何が守礼の邦だ。みんな情なしか、仕事のモラルはプロ意識はないのか。

熱くなった私は空港までの救急車移動の同伴を申し出た。

一般職員が、という反感も周囲からあった。最後は師長がOKを出し、一緒に救急車に乗せてくれた。

私を同伴したいと希望された患者さまの意志を最優先した、男性師長のいざという時の決断力に感謝した。

出発の前、浮腫んだ足を洗わせて頂き、宮崎に必ず来てねという言葉をもらい、空港でお別れをした。

淋しい別れだった。

3年前。

もう奥様はこの世にはおられないと思われる。最後ですね、とご自身できっぱり話され、私のほうが震えていた。

そのあと、私は、緩和ケア病棟を最後の仕事場に選んだ。

数ではなく、一人、ひとり、別れは苦しく痛い、辛いものだ。

よく働けたなと思う。

今も現場で、一期一会の懇親のケアをしているスタッフを思うと頭が下がる。

市役所の同僚だった同級生もそこで見送った。若い彼女の最後を自分はどのように見送ったのか、思い出せない。

市役所にある二つの組合が一致して送った旗が彼女を支援するようにベット脇に貼られた。

それをケアのたびに見るのですから、胸が痛く、また見舞いに訪れる元同僚に会うのが何より辛い日々となった。皮肉な状況だった。

その後、私は急な心臓発作に見舞われ、CCUに入院となった。初めての発作だった。

自分自身にもやがて突きつけられるだろう死ぬ瞬間を思い知った。

緩和ケアに入院される患者さんが、旅立つ前に語る言葉はそう多くはない。

「十分生きただろうか」

「生まれてきた役割を果たせただろうか」

「やり残しは何か。持っていってはいけないものは何か」

「みんなありがとう」

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退院して、リハビリとしてウオーキングを始めた。

沖縄は緑が少ない。息苦しくなるので、緑を探す。

いつの間にか激戦区をまわり祈ることが日課となっていった。

若い頃、1フィート運動、アメリカから直接沖縄戦のフィルムを買う運動に参加したことがある。事実を知ることはいちばん大切なこと。

お金を出すことで、それができるならと加わった。子育て、仕事と並行していたので、途切れ途切れでしたが。

「健児の塔」 に夫と娘で休日によく行く。

「ひめゆりの塔」 は観光客が多いが、「健児の塔」 は、人の気配が殆どない。

夕刻、初老の女性に、健児の塔を降りていった所の海岸の出入り口で会った。

その人を見かけたのは三度目。人気がない所なので、お互い目を合わすのを自然と避ける。

ゴミが岩場に乗せられたりしていたので、私達夫婦は、初めホームレスか、精神疾患のある人かと思っていた。暗くなる海に今から行こうとするので、人を避けていると思った。

実際、戦争の後遺症で非常に患者さんも多い。

夕方で日も沈み、健児の塔のある森の道を戻るには今からでは足元が危ない。

私達は足元が暗くなる前に浜をあとにしようとしていたので、今から降りていくその人に不安を感じた。

その人に先に道を譲った。

軽く頭を下げられ、私の娘がハンディがあるのに気づいたその方が、ふと微笑まれ娘に頭を下げて行った。

その時、初めて顔を見た。あまりの気品に鳥肌が立った。

夫婦で帰り道、ペットボトルや空き缶が各所で丁寧に集められているのに気づいた。

たぶん夫婦同時だったと思う。

「ご兄弟を亡くされたのだろう」

誰の目も避けて、ひっそりとゴミを集めるその人は、優しく気品に満ちた静かな顔をしていた。

長いこと、何年も通い続けなければ、夕刻の暗闇をよむことはできない上での行動だと知った。

沈黙の中にある、痛み。

言いようもない痛みが一気に胸に溢れ、家に着いてもしばらく夫婦とも呆然としていた。

戦争は誰もが嫌うこと。誰も理不尽に殺されたことを納得できるものではない。

それを避ける国力が、平和を維持できる。

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母子家庭の方は誤解しないで読んで頂きたい。

自分が母子家庭だった頃の不安を今の日本に感じている。

強い父親のいる家庭は他者から失礼を受けにくい。

私の被害は、その典型的なものだ。

経済的な安心、地域での信頼、子どもの将来への安心した投資、家の中の保たれた秩序。そんなことを意識もせずに、今日までこれたのは誰のおかげか。お父さんのおかげではないか。

日本の国の父性が弱くなったと感じている私の個人的な不安を、思想的と言うのなら、自国の中で言論の自由を奪われたに等しい。

サラは、「自由の子の母」 という意味。私の本に感想を下さった人の名前をもらった。

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用意された報道は公的会見に使うものー個人的なことは両者平等に

2009年10月15日から、本格的始動をした私人ブログ。

何度も書いているが、市長へ戦うためのマナーを示した。猶予期間を提示した。

そのルールに乗っ取って書いている。

ところが、それを市長は簡単にスルーし、駆けつけたチャンネル桜の、当事者、両方から取材したい、という当然の申し出をまたもや簡単に無視し、TVカメラの前から二度逃げた。

TVは表情を生々しく捉える。素直な目で見れば嘘はすぐに見抜ける。

逃げた理由を、市長本人は準備期間が必要だった、と言っている。

その準備期間とは、

同級生の弁護士を準備し、全部打ち明けられる友人なのだろう、なにしろ恥ずかしい話だからだ。他人には打ち明けられない。

記者席からの質問受け付けずの方法を取り、記者会見の準備をした。

弁護士団を揃え、

一主婦の私人ブログに対して、TV局を準備し、翌日、記事にして載せてくれる新聞社へ渡りを付け、一方的に、この件を処理した。

一般の主婦に対して、《どこかの政治団体のバックがついていて、これは次期、市長選への悪質な名誉毀損に値いする行為だと、

平和の島、を右翼が、かつてのあの忌まわしい戦前のようなファシズムへ巻き込もうとしている。私は政治生命をかけてでも、皆さんの命、地球よりも重い命を、人権をお守りする。ですから、このような事態にはけしてひるまない。

皆さん、ぬちどぅたから、この島をかつての悲劇へと二度と巻き込んではならない。私はそのために出てきました。この島には基地も自衛隊もいらない。憲法9条、私は守り抜きます。この妙なブログはその挑戦だと思っています。皆さんも惑わされないよう、一緒にしっかりと平和の拠点、沖縄を守り抜いていきましょう》

《》 内は、サラならここまで言うというところです。残念ながら、ひたすら保身のみの市長会見で情けないかぎりです。

さて、

市長、逃げ隠れ準備期間に用意されただろう、TV局からサラへの事件性への信憑性はどうかという取材は一切なかった。

沖縄タイムス社からの事実無根の、無根と言うが証拠等はどうか、という確認取材も一切なかった。

琉球新報社は二時間の取材をした。数々の証拠も写真に撮った。

報道のルールに即している。

ただ発表する時期についての躊躇があった。それについて私見を書きます。

公人側につく報道、に昨今のニュース報道を感じてしまいますが、これは一般人が事件性を訴え出ても、法的根拠等の用意がすぐにできず、

権力者側はそれをすぐに用意できる。(弁護士を雇えるか、お金の問題です。また一般人はスキャンダルに慣れていない)

報道する側としては、法的根拠の裏づけをつけた側から報道するほうが社の身の為となる。

新しく聞くことが、「新聞」 ではなくなった。法的根拠があって、ここまで書いても大丈夫、という記事になっていく誘因かとも思う。

ニュース報道も新しいことを見たりするところではなくなった。打ち合わせて使われる場所となりつつある。

今回、このことを肌で感じている。

しかし、一般的な感覚で誰が考えてもわかることは、長期政権の島社会における弊害である。

それを初めの記事でリポートした。

市長はTV局を、新聞社を用意した。このことを市民、県民、国民はしっかり目に焼き付けて欲しい。

これが一国の状態だと仮に見てみよう。

TV局は、一国の長に用意され、新聞社はその報道を記事にする。

もう一度、書く。RBC、沖縄タイムス社から一度も取材の連絡を受けたことはない。

市長の大げさに騒ぐ、政治団体に動かされて書いた私人ブログなら、私は身の危険を感じてここからどこかへ保護されて、戦えるじゃないですか。

今も夕食の準備を休み、休み、しているところです。子どもの体育着を洗いながら。

琉球新報社とチャンネル桜さんは、今回取材申し込みが一番早かった。

そのあと、今までで一番大きな激痛に見舞われて救急車で搬送された。

そのあとは、申し訳ないが、体調が続かず、応対する力がない。

取材要請は大手がまだまだ控えている。だが身体が辛い。経過を皆さん心配して下さっているが、取材競争の仕事ペースに、一般人の身体がついていけない。

どれにも真面目に答えようとするのも、この疾患の特有な性質とも言われている。

必ず回復し、電話を下さった編集者の取材にもいずれ答えたい。気持ちはあります。

そうでなければ、「報道の良心」 で動いてくださった方々さえも、私は無にし、作為側と、良心側とをはっきり分ける機会を失ってしまう。

レイプ事件=示談期限切れ=約束不履行=約束どおりブログ開始=反響大=一番早い取材申し込み、琉球新報、チャンネル桜=市長取材から二度逃げる=サラ発作=事件告訴調書中断=市長準備整い、記者会見、ブログ消去求める刑事告訴(沖縄ではみっともないので、東京でする)、RBC、QAB、沖縄タイムス社=サラ八重山毎日新聞社取材へ答える。

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初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

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黒真珠のできるまで

「サラの日記」 を読んでくださる皆様へ

多くの励まし感謝致します。

本日は短く書かせて頂きます。体調が戻り次第、詳細記事は続けます。

     *  *  *  *  *

私の故郷には黒真珠の養殖で有名な川平湾があります。

黒蝶貝を開き、肉片にメスを入れます。丸い核を入れるともう一度、貝を海底に戻します。

肉を切られた黒蝶貝は、傷を元に戻そうと懸命に細胞分裂を繰り返し、核を巻いていきます。

傷が治ると、黒蝶貝の仕事も終わり、生まれ出るのは、高貴な宝石、黒真珠です。

石垣島に住む全ての人に豊かさがゆきわたりますように。

南の合衆国ならではの特徴を活かし、優秀な人材が伸び伸びとその才を発揮できますように。

子供達が豊かな自然と、豊かな人材に守られ、これからも健全に育ちますように。

私の入れたメスの切り口が、本物の真珠を生み出すきっかけとなりますように。

切られた痛みがなくては、核を巻く、治ろうとする爆発的生命力は出てきにくい、そう思います。

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田母神氏論文

何故、訴えるか。

日本が危ない! 

過激な言葉だが、この言葉以外、見つからない。

目からウロコが落ち、沖縄全体に覆う闇から私は、今、脱カルトを果たした心境だ。それが、

2002年9月15,16日という7年前の事件を、私的解決ではなく、公的な解決へと視点を変えさせた。

現職の石垣市長に性的暴行を受けた。事件直後、本人から示談の申し出があった。本人提示額、2000万円。私の年収を体調回復年数にかけた額。

2004年、7月に50万円の振込みがあった。

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加害者に全て決めさせるのも不本意だったが、公開は困るという本人の意向に7年の歳月が経った。当然、忘れていたわけではない。詳細は、別で書いているので、ここでは割愛する。

2009年、8月。

日付は覚えていない。友人へ送るポストカードを買うために本屋へ夫婦で出かけた。

市長にとっては不幸、私にとっては、天命を聞いたとも思える日。

事件後、夫がニュース断食として、私からTV、新聞、雑誌等を遠ざけていた。

本屋の中央に平積みのコーナーがあり、山積みの間が一部窪んでいる。

「WiLL」

自衛官の制服姿の男性がまっすぐこちらを見ている表紙だった。売れているのだろう。残り3冊。他は山積みだ。

まっすぐな目を見るのは、とても久しぶりな気がした。温かく懐かしい感じがした。

手を伸ばして読んでみた。久しぶりに活字に触れた。

「田母神論文」

さっと読んだ。コミンテルン、ふと何かがわかった。

夫を探した。活字は断食中だ。だが見当たらない。本を置いて夫を探す。

途中、ふと妙な視線を感じて一冊の写真集に目がいく。沖縄コーナーだ。

避けたい場所。だが女性の目が重なるように表紙になった写真集に手が伸びた。

気味悪かったが、著者を知っていた。めくって、著者のYさん一家が家族で芸術を語り、反戦を語っているのを読んだ。

続いて、亀甲墓を背景に、女性のヌーディな足が大胆なV字で逆さに撮られている。

あまりにも気分が悪くなり、写真集を置いた。

まだ反戦を武器に商売する輩が存在していたのか。卑怯だなと不快感が増す。

沖縄で反戦を語れば金になる。日本が危機にあるというのに、どこからまだ金をむしり取ろうとするのか、いつまで自虐ネタで、新聞社とつるんで商売する気か。

いっきにそんな思いが涌いた。自分でも驚いた。

私も新聞社から文学賞をもらったことがある。その時の審査員の先生に呼ばれた。

私が特別押した。あなたはここでは芽が出ない。中央に来なさい。

当時は意味がわからない。1990年のこと。

そのあと、私は軍用地主の資産家の息子と結婚した。反戦運動に関する県民大会へは必ず参加すること。そして山積みのお金の配分。軍用地代金が山分けされた。運動は、この金とセットだと気づいた。すぐにその家を追い出された。

反戦運動をすれば金や地位が手に入る仕組み。私には肌に合わないことだった。反戦小説も肌に合わなかったのだろう。一度も書いていない。

私は、自己憐憫が好きではない。

自分で撒いた種は自分で刈る、自己責任。生き方だけははっきりしている。

たぶん生理的に「沖縄カルト」 に嫌われ、追い出され続けてきたのだと、だんだん思い当たる。

田母神元空幕長の写真にまた足が止まった。

軍人は人を殺す、それが沖縄の教えだ。

写真集のYさんご一家は温厚ないい人たちで通っている。

戦争など見たこともないはずの娘さんが、反戦を武器にした写真集。写真家は変われど、何度か目にしてきた写真集のパターン。

二つの対比で、夢から覚めた。完全に「沖縄カルト」 から醒めた。

誠実と温かさを田母神氏から、偽善と残忍さをY家から、感覚がそう捉えた。

「反戦商人」 日本人を潰すのは、「沖縄カルト」 彼らのほうだ。

全身総毛立つ経験だ。逆転した。

「買っていい?」

夫が、いいよと答えたので、7年ぶりに雑誌を買った。

いっきに読んだ。目からウロコが落ちたので、はっきり読める。何度も読んだ。

その夜は、夫も息子も読んだ。一週間、奪い合うように3人で読んだ。

私達は完全に目が醒めた。

仕事をまっすぐ誠実に続けて極めていくと、どんな分野でも人は大切な何かを知る。私欲を超えた公的な貢献、仕事の匠は、それを捉える。

戦争は嫌です。ですが実践のスピリッツを問われて、ある、ときっぱり答える。田母神氏は仕事人だ。どんな仕事に就いておられても一流になられる方、それが伺える。

誰が読んでいるか、聞いているかもわからない、「時の人」 の発言。それも元幕僚長。

あの答え方の聡明さは類をみない。微妙な質問だった。

そのあと、私は、石垣市長が犯した事件と、私の兄が新聞社に叩かれ続けた事件の繋がりに気づく。そして、沖縄の政治家の実態、弁護士の関わり、左翼運動家の存在、蔓延する全体主義を知った。

本屋からわずか2週間。

「沖縄カルト」 の中で、あわや私は現職の石垣市長の性的暴行事件をなしにする、という愚かな事をしてしまうところだった。

そのまま体験したことを忠実に書く。届ける。これが私の受けた天命。

戦う前に、武士の習いとして、一度は示談を受けたので、再度確認を取った。

日付を決めた。そのあと全てを公開しますという条件をつけた。

市長は、私がまだ、「沖縄カルト」 の信者で、脅せば黙ると思ったようで、市長本人しかかけられない、いわば、ホットラインから脅迫の電話をかけてきた。

2004年3月31日まで私は公務員であった。

当時市民に報告する義務があったにも関わらず、私の弱さゆえに7年が過ぎた。

石垣市民に深くお詫び致します。私も本来、まっすぐに仕事を愛する家族を愛する者です。

そこに立ち返り、自分のすべきことを果たす、日本に住む社会人として忠実な者でありたいと思います。

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