事件

ネットの置き土産、兄の事件と当件との関係性

夫が、事件に関しては一切を忘れようと言ったことがある。

理不尽だとしても、今は封印するときだと。

関係書類をまとめ、箱に入れて棚上げした。

2008年9月20日、心臓発作で入院。二日前に娘の結納を終えたあと。

ほっとしたんでしょう、と。

2009年8月、娘の嫁ぎ先への配慮もあり、「父の名前」 の名誉回復のため、具体的にネットの置き土産の削除を求めて動き出す。

療養でゆっくり過ごす時間が初めて出来た。

改めて内容を全部、コピーに取り、丁寧に何度も読んだ。

高里鈴代元市議、糸数慶子国会議員、島袋隆弁護士、

そして事件中心人物、T・A

時系列、関係図を事実だけを追って仕上げていく。

あまりにも簡単な図式、関係図が仕上がった。

これを当時、私が知っていれば、

怒りを通り越して、唖然。

なんというお粗末なレベルで沖縄社会は構成されているのか。

呆れ果ててしまった。

T・Aが、「生徒の母親に抱きついたら逃げられた」 と電話をわざわざかけてきたことをすぐ思い出した。

1990年、沖縄タイムスで開かれた私の授賞式に来ていたT・Aと初めて会った。

娘さんを抱えて経済的に苦しいというのを聞いて、兄の経営する職場を紹介した。

夜間の時間帯の仕事だ。

小学校4年生の娘さんが一人きりだというのも危険だから、車を提供し、娘さんの授業料をただにし、お父さんと一緒に来れるように兄は取り計らった。

その娘さんが有名校に進学した。親子の写真が送られてきた。

おかげさまでという、晴れ姿の写真だった。

優秀なお嬢さんで、医学部に進学した。

T・Aから電話があった。

「娘が東京行ったらもうお父さんと縁を切りたいと言う。淋しい」と。

再婚は? との会話で例の話が出た。

犯罪ですよ、と話すと、N高校の同級生で、相手もまんざらじゃないと思ったら拒否されたと。

その頃、兄夫婦の不和があった。その話も出てきた。

当時、事件に関与した職員の裏を取った。

兄が土下座を、何故、市長夫妻にしたのか、疑問だった。母の変わり様も納得できなかった。

だが、すり替えの構図で全てが簡単にわかる。

これは市長は知らないのは当然だ。ブログ全てが正しいわけではない、と本人が言うのも頷ける。

兄の土下座を市長は、戸惑っただろう。

だが市長妻の方は、勝った! これで、こっちのことは表に出ない。サラを島から出すというサラの兄の申し出は願ったりだ。

ビハーラのKはもういらない。あれもいらない。その切り方が、その後のそれぞれの姿として今現れている。

母は長兄を特別大事にしている。沖縄によく見られる長男第一の典型的な形だ。

その長男が、朝も夜も、ビラ播きをされたり、有名高校の前でビラを生徒に渡されたり、近隣へ、ポスティングされたり、街宣されたり、そして二人とも、サラが市長を兄が追い込まれているような状況と同じことをする、敵のように、市長の妻に思いこまされた。

秩序を乱すもの、として母は娘を許せなかったのだろう。

授業はできない。子供達は萎縮する。父兄は不安になる。

民事で詰められ、早期解決で平安を取り戻し、授業を通常に戻すことを優先にしたのだろう。

結果、していない! にも関わらず、沖縄タイム社が連投で、「ハレンチ塾長」 と大手の塾なので、場所を匂わせ叩く記事を載せた。

島袋隆弁護士は、T・A側。

私が養育費のために頼んだ弁護士だ。

30万円支払ったが、私の前夫は、マックで一回会ったけど、笑って話して終わったよ、お金払ってないからじゃない? と誰か他人の話のように教えてきた。

電話は2回かかってきたが、母子家庭に30万円の出費は痛かった。

紹介者が、M・Hという女性。N高校の同級生で弁護士になりたての島袋氏を紹介された。

T・A 、彼が抱きついたN・N。その友人のM・H、この三人をよく知っている。実家で二人は泊まり、祭りを満喫し、Tに至っては、海外の姉宅にも滞在している。

Tは兄夫婦の不和を知り、女性二人は市長の私への異常な近づきを知っている。よく電話もかかってきた。根掘り葉掘り、当時は意味がわからない。

市長夫人は、刑事告訴より夫が選んだ示談のお金を支払うのが嫌だったのだろう。

市長夫婦と仲のよい、高里鈴代氏が、T・Aの支援団体の中心人物となり、兄のほうへ、すり替えが始まっていく。ポスティング、ビラ配り、慣れたものだ。

糸数慶子氏は、タイムスホールで、「このようなセクハラを断じて許さない、T・A氏を支援する」 

と、公人が事件にもなっていない件を、公の場で、根拠姓も確かめず、コブシをあげた。

*****

セクハラを働いたのは、誰か。

性犯罪者は誰か。

臭いものに蓋をしても、今の生活を乱さないでくれないか、と土下座をした兄と、それを鵜呑みにした母も弱い。

だが、時を経て、

私は信仰者だ。

前にも書いたが、人を恐れない、神を畏れるものとして、この世に生を受けている。

証拠があろうが潰そうと思えば潰せる。これが悪党の発想。

神は摂理である。法則性があり、無秩序ではない。

****

質問と見せかけてあちら側からのコメント、メールがくる。

私は、何かを無理やり生み出そうとしているわけではない。

秩序を貫く、それは事実でしかまっとうできない。

****

母の退官式の日が違うという質問がきた。

「神いとま」と、「退官の祝い」 は違う。

だから日付が違うのは当然。

****

沖縄よ、我々、県民の代弁者を調べてみよう。

****

公人の名を書くことになんら問題はない。

ただ、書かれた人は、市長の事件を知っていたうえで、サラの兄の事件、T・A支援に関わったのか。

またT・A自身がセクハラを働き、これが作り上げられた事件であることを承知で、支援したのか。

セクハラを許さない、その正義感と公言の整合性を貫くためにしたことで、調査が甘かったということなのか、今後は事件性の裏づけを確認後、政治活動をするという反省の姿勢を示すのか、

****

問われるのは、そのことである。

****

名誉毀損は、そのことの返答の上で始められなければならない。

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事件後始まった告訴への警戒、ストーカー行動

2002年の事件後、市長のストーカー行為は、半分どこかでまだ自分の思いどうりになるという動き方だった。
空港での件など他でも書いているので、ここでは割愛する。
味方の上司や遠方の友人達が考えたことは、誰とでもいいから結婚したほうがいい、と。
相当追い詰められていたんだねと、当時のことを友人が後日談。
来島した研究者の友人に、生活費半分出すから、形だけ入籍させて、と頼み込むほどだった。
この件で、石垣島から届く励ましメールは、殆どが匿名。それでも有難い。
村八分が、どれだけ怖いか、住んだものにしかわからない。
誰も巻き込んではいけない。島を出るまで乗り切るしかない。
ストレスは頂点に達していた。
家でも職場でも電話でも追い詰められる。
服従させないと、いつ、告訴されるかと、相手も必死。
すぐ逃げ出そうにも私の仕事は代替がいない。その為に退職希望が一年延びている。課を預かる上司との約束でもあるが、公務員の義務としても当然。
優秀なスタッフが入ってきた。代われる、と思った。
だが残念、それも邪魔される。
病院と指圧の女性の先生の所に、逃げ込むように通い続けた。
その方が亡くなったことを最近知った。
書く動機の一つとなった。
与那国のルーツがあると教えてくれたが、命の恩人だ。
知ったのはブログスタートの直前。
悔しい。
人の痛みを取るだけ取る、優しい聡明な彼女のあまりにも若い死。
理不尽なことに対する怒りがわいた。彼女へ何の恩返しもしていない。
指圧の最中に市長の電話が何度もかかってきた。
彼女は何度もそれを見ては、よりいっそう丁寧に緊張をほぐしてくれようとした。
有難かった。
*********
2003年2月25日、実家へ寄った。
なんとなく実家は知られているので、足が遠のいていた。
中から賑やかな雰囲気。ばあちゃん達が集まって楽しそうだ。
けっこう、母のことばかり心配していたけど、大丈夫なようだ。
私は、伴侶となる夫、Mと初めて出会った。
母が、Mのマッサージを受けている。他は並んで待っている。
電話が来ないなと思ったら
と私が言ったら、「来た人だけの特権」 とばあちゃん達に返されたが、賑やかな実家を久しぶりに見た。
整体院を開業する予定で来島したと、Mを紹介された。
二日後、N氏が他界。
全身が立てないほど疲れていた。
************
Mの祖父が認知症の症状があるというので、訪問するよう母から職場に何度も電話があり、訪問したのが、同年4月。
縁側に座って頑として動かない。私は会議の時間が迫っていて焦っていた。だがそういう気配はすぐに悟られてしまう。言葉では動かない。
その場で失禁しても着替えず動かない、ステテコ姿の祖父を、そのまま、じゃばじゃばとお風呂に入れるようにお湯と石鹸とシャンプーで洗った。
何するかあ、と叫ぶ中、洗い終え、服を脱がせ、仕上げ温かいお湯をかけ、タオルで拭き、
着替えさせ、Mに抱き上げてもらい、濡れた場所から移動させた。
残り湯で床も廊下も尿のにおいを消すために流しきった。
それからケアマネジャーを呼び、病院受診に同行するよう夫、Mに言い帰ろうとした。
祖父が柔らかい顔で私を見て、孫の嫁になってくれと言った。何も返せんからうちのことはやらんでいいよ。孫と結婚してくれなと。
帰りの車で、涙が止まらなかった。気が弱くなっていた。
入院の手伝いをサポートした帰り、
モスバーガーでMと食事をしていたら市長から電話。
「市長から直接指示がある仕事しているんですか?」
とシンプルにMが聞いた。返事ができなかった。
私と会う前に、幼い私の娘を知っていて、その時に、市長のストーカーの噂も聞いていたと、結婚後、夫は話してくれた。
2003年6月9日、
介護保険説明会のため、公民館をまわる地域説明会の真っ只中。
台風接近で、北部地域を急いで終わらせ現地からセンターまでスタッフ一同戻った。
荷を降ろし、解散。
ところが自分のバックと車の鍵がない。
みんな帰ってしまった。
センターの中の電話は鍵がないと入れない。
歩いてスーパーの公衆電話からスタッフにかけようとするが、携帯、手帳もないのでアウト。
小銭は上司にコーヒーを買いに頼まれて、作動しなかったので、ポケットに残っていたから助かった。スーツの中に名刺があった。出張の帰り、マッサージを受けてそのままだった。
恐る恐るMに電話。迎えをお願いしてみた。了解してくれた。
その翌日はタクシーで出勤した。
その夜、Kから、是非、ビハーラに来てと電話があった。台風の余波で、大雨の中、説明会終了後、寄った。入り口で、市長が来ると聞いて、すぐ逃げた。
夫を亡くしたあとのKのメンタルを心配して立ち寄った自分の甘さを思い知った。
Mに電話をかけた。二度目で少しかけやすい。事情をかいつまんで話した。
「帰ってきたらいいですよ」 と。
「そんなのバカらしいですよ。クビになったらその時はその時、帰ってきて下さい」 と。
石垣に住んでいて、初めて胸がスカッとした瞬間だった。
重い恐怖が晴れた。
土砂降りの中、車を飛ばして帰った。
娘と息子が島を出て仕送りが大変なので、4月から母と同居を始めていた。市街地からおおよそ30分の距離。
着いてすぐ初めて自分以外の人に、全ての事情を時系列にそって説明した。
2003年、8月17日、
私は出張先で倒れ、飛行機で戻り、そのまま入院。ストーカー行為は相変わらず続いている。
息子が飛行機に同乗したが、身元引受人を、母に頼まれて空港に迎えに来たMが名乗り出てくれた。
表情が厳しく、初めの頃に感じた穏やかな印象が消えていた。
「よう女ひとりで今まで頑張ってきたな。もう頑張らんでいい」
2003年8月20日、入院中に入籍した。
私の結婚で、事件はいつでも表に出る状態となった。
それからの戦いは随所に書いたつもりだが、次回にまとめたい。
すぐKと、母の様子が変わった。
上司の一部が変わった。
友人からの電話で、母が、「あれは兄弟誰からも相手にされないようになった。私達は市長選も、高嶺さんも応援する。お祝いも行く」 と、半分認知症が入ったようで繰り返し言っていたと聞いた。
兄と母に、まるで犯罪者を見るように見下され、出て行けと言われた。
実の親の拒絶は、どん底を味わうには十分すぎるほど痛かった。
2004年3月31日、退職した。島も出た。
後日、新聞に市長と母が載っていたと知らせてくれる人がいた。
トラブルはなかったという両者歩み寄りのアピール。
親子の縁は切れたと思った。
2004年、7月、裏では、50万円の振込みを市長自らがしている。

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事件後~ブログの経緯

動機は今さら法廷で探らなくても市長自身がよく承知しているはず、書き送りましたから。ここでも書いています。

何も法律の専門家の手を借りなくても、読めば一般人でもわかる。

2002年9月16日、事件が起こった。そのあと市長の尋常を逸した庁舎内、センターでのストーカー行為、実家への訪問。犯罪がらみの人事配置による、私が周囲から受けた攻撃。口外するなと、示談の電話を何度も酔ってかけてきたこと。

上司を使い、夜の飲み場所に呼び出そうとしたこと。

N氏が亡くなったので、告訴できないと読んでからの行動は一転して傲慢に転じたこと。

私が再婚して、弁護士に相談。示談額を提示、条件として、告訴しないこと、島を出ること、と明確に打って出たら、

八重山病院へ、カルテを提示するよう怒鳴り込んでいったこと。市長の妻もカルテ提示を県職員へ求め、誰が主治医か、名前を出せ、うちの人はここの院長だったんだ。できなかったらあんたたち、みんなクビにすると、騒いでなかなか帰らず、

私は外来で、メンタル相談中だった。先生が、カルテは鍵付きのところに入れた。鍵は僕が持ち歩いていると教えてくださった。

またもう一人の先生が、市長はドクターだった人とも思えない。医者の倫理をなめたらいかんよ。患者優先、それが崩されたら医者は医者でなくなる。絶対、渡さないから、ここはどこの国だと思ってるのか。自分の国のつもりかな。

数人で苛立って会話したのを覚えている。

市長の妻は、カルテ開示を拒否されて、怒りをそのまま介護長寿課に持ち込んだ。

私がセンター勤務というのがわからなかったのだろう。所属は介護長寿課だから、そこに向かったと思う。

上司を並び立たせて、今すぐ、サラを辞めさせろと詰め寄り、説教を初め、ここでもなかなか帰らない。

上司から電話をもらった。

あのクソばばあ、仕事場をなんと思っているのか。自分のだんなが起こした会社のつもりか? ここは市民の税金で動いている公的な場所だ。奥さんがあれで、だんながおまえ追い回して、役所が汚れていくな。

長年、働いてきて、これだけ嫌な気持ちになったのは初めてだ。おまえ、引継ぎもいいよ。いるほうが市の損失かもしれん。情けない。自分責めるなよ。誰でもあんなバカ騒ぎされたら死にたくもなるよ。こいつらのために死んだらバカらしいぞ。

怒りで声が震えている。並び立たされ説教されたのが不快だったのだと、部下も見ていたからよけいにプライドが耐えられなかったと思う。

市長妻の怒りは止まらず、サラの実家、老母のもとに。

二時間以上、母を怒鳴りつけて帰ったと。

母は寝込んでいた。

市長にお金を要求したの?

あることがあって示談書を出したと話すが、母には意味がわからない。

本当は警察に行くことなんだけど、市長が公開されると困るから示談金払うから誰にも相談するなと言っていた、と説明するが、愛人になれってね? と聞いてくる。

いいよ、お母さんは何もわからなくても、ごめんと謝った。

ここには住めんの? 家も造ったのに。お母さんはまた一人か?

と聞く。

私は子どもの育て方をどこの偉い方の奥さんかわからんけど、あんだけ怒鳴って、文句言われて、祭司してきたから神信仰に仕える仕事してきたから、聞くこともできたんだよ。ひとことも返さなかったよ。子育ての結果は自分が評価するものじゃない。

あの人の子育ても私が言うもんじゃない。だけど年上の人に向かってあれでは市長さんは、どんなにいい仕事をしても尻から破れて結果が逃げていくね。

二度と、応援はしないよ。あんたは実力で役所に入った。入れてやった恩を仇で返してと怒鳴られて、もう疲れた。あんたは市長の奥さんに役所入れてもらったのか?

新聞で募集していた調査員から入ったの、忘れたの?

そうね。

そのあと、病休に入った。

しばらくして、これで話をつけようとビハーラに呼ばれた。すぐに夫に電話をかけたが仕事中で取らない。留守電に場所と時間を入れる。

これですべて終わって退職できると、ビハーラに出向く。

Kと市長が地下の薄暗いところにテーブルを用意して待っている。

暗いので躊躇したが、すぐに夫が駆けつけてきた。

「大浜さん、妻は病気で休養中です。業務のことでしたら上司に出勤してから伝えてください。私の妻ですから、私用でしたら私を通してからしてください。失礼します」

夫が頭を下げて連れ帰った。

そのあと電話があり、告訴は困る。示談でと言う。途中で夫が取り、「直接の電話は困ります。これで体調が崩れるんです。あとは弁護士さんにお任せします」

弁護士まで持っていけば、口外と同じだから示談でとしきりにそれを申し出る。

復職してすぐに、センター窓口に市長妻が現れた。市議を伴っている。

「おまえは私が誰かわかるか。言ってみろ」

「市長夫人です」

「頭はまともなようだね。何故私がここに来たかわかるか」

外来者が横から割り込む。

センターの祭りだった。血圧を測ってくれないかと言うので、それをする。そのあとにすぐ非常勤務のスタッフに電話をする。それから夫へ電話をかける。

非常勤務のスタッフがカウンター傍の椅子で座り、私をガードする。

「おい、おまえはあっち行け」

スタッフは聞こえないふりをして書類に手を伸ばしている。

「おまえがmと手をつないで歩いているところを何度も見られてんだよ。わかるか、バカ」

mは私の夫である。体重が激やせして、筋力が落ち、仕事復帰まで私は夫の手を借りなければ歩けなかった。というより、夫婦が手をつないで歩いて何が悪い。

「島出て行け、ここはおまえなんかが住むとこじゃない。今すぐ出て行け。えらそうに、誰のおかげでそこに立っておられると思ってるのか」

そこに夫が駆けつけた。ぎょっとしてカウンターから下がり、市議と二人、帽子をかぶったままソファに座り睨みつけている。市議はだんだん下を向いて顔をあげきれない。

夫とスタッフ二人がそれに対応するためにしばらくそこにいる。

そのあと、私の兄が市長宅へ行き、土下座をし、母を連れて出、私に引越しを求めた。退職までもう少しで出費もかかると、娘、息子へ仕送り中、頼んだが、出て行け! で、母も私の顔を見ず、私達は一旦市街地に越し、退職して島を出た。

2004年7月、オオハマナガテル名で口座に50万円が振り込まれた。

示談、本人提示額、私の当時の収入に療養に必要とする年数をかけて、2000万円。

2009年8月、兄の土下座の意味がわかった。

その内容を市長に書き送り、

2009年10月15日、示談金、500万円で本件終了すると書き送った。

兄がでっちあげ事件で相当額を支払い、なおネットでダブルジョバティ、二度裁かれ続けていたからだ。

娘の嫁ぎ先への配慮もある。珍しい姓を担う息子への配慮もある。

名誉毀損はこのようなことに使えるのではないかと思う。

私は物書きなので、言葉でこれまでのことを書くと市長に示談書の内容と共に書き送った。

争って暮らしてきたわけでもない。

許可を得て書き始めた。示談を申し出、それを時効まで知らん顔し、書き始めたら真っ先に市長本人が脅してきた。ホットラインから。

さて、「名誉毀損」

私の名誉も散々毀損してくださった市長夫妻、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、たくさん裁く言葉はあります。

ただ自分はクリスチャンですので、聖書の言う、裁くを説明します。

原語で、意味は、「神が導く」 です。

私はもちろん人を裁けません。

政治団体、宗教団体、思想団体の背後関係をいくら調べても何も出ません。

考えてもみてください。子どもが多く忙しい看護師の仕事をして、ご飯つくりと患者さんのケアで毎日、クタクタです。

今、何かがわかったら、今度は心臓発作です。これも神様の御こころです。

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八重山毎日新聞社の取材には答えた。他はまだ体調が不十分なので、控えた。

受けたのは、やはり地元への責任からだ。

いろいろ準備するのに時間が必要だった、とは言いたくないのですぐに応じた。

そのあと発作がきてもあなたのせいじゃないからと、途中から懐かしい島の言葉で冗談が出るくらい話ができた。

故郷への感謝と愛情が真摯に語ることに繋がった。

やはり、あの時の同僚にまず伝えたかった。女性数人に呼ばれて問われたことがあった。だが、当時は何も伝えられず、彼女達にも失礼をした。

心当たりのある方々へ、心からお詫びします。

皆さんが感じた不快感は間違ってはおらず、正義感ゆえのものです。当時、自分が生活のゆえに弱さゆえに全てを説明できず、申し訳なかったとずうと思ってきました。

仕事を通してせっかくいい関係が作れたはずの貴重な時を、もったいないと思います。私はケンカが苦手で、当時はよくへらへら笑っていたように映ったと思います。

男性のように職場ではいましたので、ぶつかればアウトという心境でした。

母子家庭の働く母親は、外では心意気はすでに男性同様、これは他の女性をそうではないと言う類のものではありません。

セクハラ、パワハラは、生活と直結するので、簡単なことではないと思います。

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割烹オーナー夫妻からの電話(2003年1月4日)

2003年1月4日、

役所は仕事初め。職員は自分の担当業務があるので、他の担当者をフォローサポートするゆとりがない。非常勤職員が休みなので、業務は滞る。

介護長寿課の窓口は朝から来庁した市民で殺到している。電話も鳴りっぱなし。

介護認定の申請や、正月で久しぶりの家族が揃ったがゆえに、潜在していた介護問題が表面化されることにもなり、

いっきにニーズがパンク状態。

どれが鳴っているかわからない電話の一本を耳に当てた。

「助けて、今すぐ来て、病院に来て」

交通事故か、高齢者の虐待か、プラスアルファは無理だと思ったが、優先順位は、今、対処しなければならないもの、判断して、電話に対応する。

「どちらの病院ですか。お名前をいただけますか」

「お願い、すぐ来て」

聞いた声だと思ったが、なにしろ周囲は電話の音と、来庁舎のイライラした声で考える間を与えない。

認定調査員が調査表を届けに入ってきた。

15分で戻りますから、電話の応対をお願いしますと頼んだ。全部メモするように、追って対応していくからと、手を合わせてお願いした。

主治医意見書を八重山病院に取りに行く予定があるというので、それ代わりに私が取ってきますと、鍵を持って、指定された病院に車を走らせた。

虐待のケースで病院に駆けつけることはこれまでにも何度かある。

だが病院で私を待っていたのは、車椅子に座ったオーナーとその後ろに立つ奥さん。

「うちの人、末期って、どうすればいい。息が吸えない」

主治医にもう一度話を聞いてくれと頼むので、同伴して話を聞いた。

昨日まで、店を開けて仕事をしていた。胃部不快感は、あの事件のあとからあったと言う。

二人は何度も私の実家の母を訪ねている。役所のカウンターにも話したそうな顔で来た。二人の息子のM君は気の優しい青年で、私も苦しかった。

だが会話をすれば、私が介入した不当人事だと誰もが噂している時だ。私も体調を崩していた。事件も消えたわけではない。縁は切ったと話してルールを守らない、そちらが悪い、そう思い、応じなかった。

「あと二ヶ月」

主治医がはっきりと癌を告知した。呆然とする二人に、仕事帰りにまた来ると言い、私も混乱して病院を出た。

琉球大学病院に移りたいという二人の意向を手伝い、救急車を翌朝、空港から病院まで手配し、オーナーに痛み止めの座薬を入れるのを手伝い、会話は避け、その夜は帰った。

出張で県庁に出向いたあと、見舞った。

もう立てない状態だった。おでんを買って奥さんのKと二人で食べた。

二人で並んで食べ、二人で泣いた。オーナーのお母さんが早世したこと。幼い下の兄弟二人を小学生の低学年だった彼が家事をやり育ててきたこと。

うつらうつら、お母さんと呼んだこと。天国ってあると聞くので、うちの人はお母さんに会える?と聞くので、私は胸が潰れそうでうな垂れた。

2003年2月27日、42歳でN氏は他界された。

通夜、葬式を手伝い、2003年3月1日、彼らの娘さんと、私の長女が高校を卒業した。

市長を罪に問わないではなく、夫を喪失したKを責めることは自分には到底できないこと、そう思ったのを記憶している。

1月4日、電話のあった同日に、私はセンター異動の内辞を上司から受けたので、庁舎から出てセンターへ出勤していた。

そこに痩せてしまったKがふらふらと何度か現れた。市長を告訴しようとする気がだんだんと萎えていった。私も痩せていった。

2002年、10月、

M君が配属されたあと、私は学校勤務に戻ろうと沖縄本島での生活に向かって動き出していた。

高校卒業後、娘は私の姉の住むカナダへ留学が決まっていた。長男は高校2年へあがる。転校先の試験を受けさせた。

発展クラスの枠が一つしかなく、理系から文系へ変更ということになったが、しかたがない。

息子が面接から戻った飛行機と、N氏のご遺体を乗せた便が同じだった。私の子供達は多くを見たが、そのことについて今まで一度も話をしたことはない。

2003年4月、息子も娘も島を離れた。だが私は代理へ渡すまでの業務責任があり、センター勤務を続ける。

その間、何度も市長から公私共に電話があるが応じていない。

公開するなということを言っている。私が島を出ようとしていることに勘付いたら大騒動になる、と上司は、異動を呑めとアドバイスをくれた。退職届を上が見る頃には、体調不良で休みに入り、島を出て、そのまま辞職という状態がベスト、そうアドバイスをもらった。

その頃から、示談の件を何度か電話で示唆された。

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母の退官祝い(2002年10月)

母の祭司職の退官祝いが、公民館主催で母の自宅(サラ実家)にて行われた。

兄と私が家族として参加した。長姉夫婦は海外在住なので祝電が届いた。

祈り場所全てに出向き、任務を離す祈りを捧げる。研究者や取材人も限定して混じっている。

途中、小島を残すところで母がふらついた。

無理だろう、後日という声が公民館幹部からあがる。

母に私が同行するから続けるかと聞いた。看護師なので、いざという時に動ける。

やるというので、離れ小島は兄と一緒に母に同行した。それまでは私は女なので家でお膳の用意などに追われていた。すぐにスーツに着替えた。

同行する。小島の最後の祈り場所で、祭司職を離す瞬間、「お前が祈れ。疲れた」 と母が言うので、そのまま母が言うように代理をした。

それから家は宴会となった。

現県議長に声をかけた。兄は座の真ん中に母といる。

「相談がある」

事件当日のことを話した。

「そうか」

しばらく無言で苦しかった。

「お母さんは54年務め上げた、今日はそのお祝いの日だ。サラは石垣市何年か?」

今日はお母さんを祝ってやろう。この話はあとでまた相談に乗ると。

現市長に勝てる人は、ここにはいないかも知れない。

体調が崩れ始める。その間にも市長から部長を通して業務でと応じるように電話がある。

部長は心臓疾患があり、「身体がきつい」 とこぼす。誰彼にも申し訳ない思いだけがわいた。

みんな生活があり、家族がいる。市長の電話は公私の両方から執拗に続いた。

現議長から連絡はなく、2009年の今日まで会っていない。

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2002年9月終わりごろ

日付の裏づけを後日、追加アップする。

石垣市川平の結願祭の日。

母が54年、祭司を努めてきた。例年、サポートする。息子が奉納棒術を舞うので、そのサポートも必要で、本来なら年休を出す。

だが市長が公式行事として毎年出席しているので、今回、サポートを研究で来ていたゼミの学生に頼み、自分は出勤した。

昼食前、

女性トイレから出てくると課長が腕組をして立っている。

「外勤に行け」

鍵とカバンを取りに行こうとすると止められた。緊急の処遇困難ケースの訪問だと思った。

「バカ、早く逃げれ。変態野郎がお前を探し回ってギラついて増進課に行ったり、介護長寿課に来たりしているんだよ。部長もついて歩くから大事になって、みんな仕事にならないんだよ。そのまま帰って来なくていい。午後は外勤扱いにする。カバンと鍵は預かっておく。早く行け」

「お金ないですよ」

課長の厳しい顔を初めて見たので、そのまま福祉事務所の所から表に出た。

認定調査員の誰かが来たら家までお願いしようかとも思ったが、誰も来ないし、お腹もすく。

勤務終了までうろうろと周囲を歩いていた。退勤者の姿が一応に落ち着いた頃、課に戻った。

課長、補佐が立っている。二人とも厳しい表情をしている。補佐は帰っていった。

「サラはどこに行った。外勤から戻せ。祭りに行ったのか」

と、ギラギラ目を光らせて行ったり来たりし、そのたびに付き添う人たちも動き、課の窓口の職員は起立し、騒然としていたと課長が事情を説明した。

課長が、「おまえ、誰でもいいから見合いでもして結婚やれな。仕事仲間としてお前を失いたくない。あんなマスターベーション男は、周囲も何も見えていないからやっかいだよ。僕らはみんな生活のために働いているのにさ。おまえもキツイな。辞めるなよ」 と、言った。

泣きそうになった。だが課長に16日のことを話すことはできなかった。

みな守るべき家族がいる。

携帯が鳴る。

頼んでいた人からだ。

市長車が3時間以上、ばあちゃん家に止まっていて、家に入れないで困っていると。

隣の家、数件にかけてみる。そうだと言う。息子を呼び出してもらう。

「ばあちゃんも僕もお腹がすいた。市長がキッチンの椅子に座って動かないから、食べれない。ばあちゃん、着物も脱いで、カンプーも外したけど、髪が洗えないときつそうだよ。でもお母さんは来ないほうがいいと思う。なんかが気持ち悪いよ」

息子はタクシーで着払いするから帰宅するようにさせた。市街地まで3000円以上かかる。

もったいないから待つという息子を説得し、サポートしてくれる方に車が出たら、すぐに家に入ってばあちゃんの髪の洗い手伝いを頼む。祭司のための琉球カンプーは油で頭を固めるので、落とすのに一時間以上かかる。母は高齢で腰まである髪を処理するのに、手伝う必要があった。

その数日後、女性数名から呼び出しを受けた。仕事仲間からの四面楚歌はきつい。

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始まったパワハラ(2002年9月18日)

2002年9月16日、午前6時ごろ、県立八重山病院の帰り、割烹オーナー夫妻が経営する、海岸線沿いの、「ビハーラ」 傍を車で通る。

明かりが点いている。

階段を昇り、厨房にいた二人と会う。

椅子に三人で腰掛けて話す。私はザンバラ頭でそのままの姿にジャケットを着ていた。

オーナーは始終下を向いていた。

「私は、もうあなたがたとは何の縁もない。息子さんが介護長寿課に来ても、自分は退職の準備にかかる。自分も完璧な人間ではないし、愚かだからこんな目に遭っているんだと思う。自分はあなたたちにバチを与えたいとは思わない。だけど神様はおられるから、あとのことはわからない」

「市長が死ぬのか?」

オーナーが初めて顔をあげて私を見た。

もう一度、病院へ行ったかどうかがはっきり記憶に戻らない。カルテで確認することにする。

2002年、9月17日、公休日、翌18日、出勤する。

書類棚の所でいる時に部長が探しに来る。

9時過ぎ。

「市長室に行くぞ」

周囲の空気が変わる。

「体調悪いです」

「おまえも連れて来いと市長命令だ」

課長、課長補佐を見たが、タバコを吸いに外に出て行った。

部課長以外の職員が市長室に入ることはない。急ぎの決裁をもらいに入るので、秘書係長がそのスケジュールを元に、外来者との調整を図り、その間に急ぎの決裁の時など入れてもらう。

それほど、敷居は一般職員にとっては高い。またそこを易々と行き来されたら、秘書係長の仕事の支障どころか、市の行政じたいの秩序が成り立たない。

私は何度か部長に同行し入っているので、初めの頃は、実直な秘書係長は厳しい顔で見る。当然のことだ。

介護保険が立ち上げスタートという段で、行政と医療福祉、マネージメントの合体という未知のジャンル。行政の部のトップが医療福祉の説明補助として専門職の私を同行する、という意味合いで、秘書係長は、走っている事業の急ぎの決済との見解で理解を次第に示してはいた。

市長室に入った。

スーツ姿のN君が座っている。オーナー夫妻の息子だ。

応接室は、非常勤職員を紹介する場所ではない。

陳情者や表敬訪問など、市の公の応接室だ。

16日が蘇る。憤りというより、終わったと感じた。これで私の仕事場はなくなったと思った。

サラの下に置くと市長が言うが、部長は16日、誰よりも先に上手に逃げたので、一人市長の話を熱心に聞いている。

N君が認定担当の情報処理を担当するようになり、今までいた担当が外された。

部課長、補佐に、退職の意志を伝えた。

「俺らは知らない。自分のことは自分で解決してくれ。すぐに退職は無理。次を育てるまで責任を取るべきだ」

「おまえも息子さん、大学行かせたいだろう。俺らもみんな子どものためにできん我慢をする時もある。親は頑張らないと」

その日の会話はそれで流れる。

周囲から、いやがらせが少しづつ始まっていく。女性職員、組合の職員等から面と向かって罵倒されたり、一人だけ外されたり、同時期入職した看護師が組合に入会できたが、私は無視された。

サラが声をかければ市の職員になれると、勤務中、急に大声でわざと言い出す者もいた。愛人だからなんでもありって凄いね、と。

非常勤務の職員に、苦しくなって外勤の途中、16日のことを話した。

彼女は運転をしていたが落ち着かなくなり、しばらくして仕事を辞めた。

親友にも話せないと感じた。みなを巻き込む前に辞めようと決めた。

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事件発生(2002年9月16日)

「はなき」 で、

部長、課長、課長補佐、男性職員、サラが市長と同席する。

軽いつまみ程度とお酒が出され、店が客に出すには、少な過ぎて変な感じがする。

五分ほどして、オーナー夫妻が前掛けを外して座につく。

みな、あれっという感じになる。

続いてオーナー夫妻の息子さんが紹介される。息子さんは名前を名乗り、頭を下げ退座する。

夫婦はしばらく座る。

一人、一人、トイレに行くふりをして席を立つ。

上司を追う。

「俺らは関係ない。おまえの問題だ」 と突き放される。

「私も知りません。私も帰して下さい」

かばんを取りに戻ると、シャッターが下ろされた。

何度か帰ろうとするが、「待て」 と市長が帰さないので、上司もイベントで早朝から立ちっぱなしでだいぶ疲れているが、根気強く残って相手をしている。

またトイレの横の勝手口しか出口はなく、オーナーが鍵を開けなければ帰れない。やりとりですぐ市長が、「帰るな」 と言うので、時間は午前4時ごろになる。

トイレに立つようにして鍵を何度かまわすが開けられない。また夫婦も見つからない。座敷にかばんを取るふりをしてオーナー夫婦を探す。

市長、男性職員一人が残っている。異動してきたばかりの職員で、女性職員を一人残しては帰れないと、何度も市長に、お送りいたしますと話しかけていた。

そしてサラに目で、「帰れ」 と合図を送る。

オーナー夫婦がいないんです、と答えると、自分が探す、トイレに立つふりして、すぐおまえも帰れと。

2分ほどたった。会話が聞こえる。

いたんだなとわかり、サラもすぐに立ち上がる。

市長が酔ってふらふらと立ち上がった。

しまった、トイレかなと思った。でもそのすきに帰れると、かばんに手を伸ばしたとたん、両肩をいきなり捕まえられる。

サラは体制を崩し、木材床に、頭をごんと打ち、倒される。スカートを取られた。

そこから格闘が始まった。30分から40分、声もあげた。市長に、「私はクリスチャンなので、許してください」 と転んでいる時に声をかけた。

だが髪の毛をひっぱられ、また格闘。ドアが観音開きで押せば出れる。

押したが開かない。

足が二人分見える。オーナー夫婦は、作務衣を二人とも着ていたが、その作務衣のズボンがはっきり見える。

「開けて」「助けて」

と叫ぶが、オーナー夫婦二人もサラが出れないように、必死でドアを押している。また市長と格闘する。膝で顔を押さえつけられる。髪を引っ張られる。ストッキングは破れた。

突き飛ばした。角でごろんと市長が静かになった。その勢いで扉を開けた。二人がいない。

トイレ近くでスカートを着、パンプスは手に持って駐車場まで行く。

膝がガクガク動いて、駐車場まで走れない。

車に乗った。鍵がうまくかけられない。膝はガクガク笑った感じで、なかなかアクセルが踏めない。

車のロックをかけて、なんとか家まで運転する。

高校三年生の長女を起こす。

泣き出す娘を連れて、県立八重山病院へ向かう。運転はサラがする。受診をした。

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現石垣市長の犯罪ー事件当日(2002年9月15日~16日)

2002年9月15日、石垣市主催の敬老の日の祝賀イベントが石垣市民会館ホールで行われた。

当時、サラは石垣市介護長寿課職員。

イベントが終了、近くの美崎町にある居酒屋で、介護長寿課の慰労会が午後6時頃から始まった。

会場片付け等で、サラが慰労会の場所に到着したのは、午後7時30分過ぎ。

慰労会場所に上司の間に市長が座っていた。

着席したサラに、上司より市長へ乾杯しに来いと声がかかる。

しばらく傍に座る形になり、食事が摂れない。見かねて女性職員が、声をかけにきた。

離れた所に皿に寿司などが取られて置かれており、そこに移るようにと、そして代わりにその職員が傍に座った。だが、すぐに上司から、「おまえじゃない、サラ、来い」 と声があがる。

一課の慰労会に市長が出席するのは異例のことであり、初めは緊張していた職員もイベント終了の開放感から、次第に酒席は声も大きくなっていった。

そこでもほとんど傍に座らされた。

二次会に移動するという上司命令。

女性職員や非常勤職員はトイレに行くようにして、それぞれ帰るが、サラは傍に置かれているので動けず、また係長以上は市長命令ということで連れていかれる。

ビヤガーデン、市長の呼び出した若手のミュージシャンやその友人等も同席。

そこで、サラの書いた本を読んだかと市長が一人、一人の職員へ詰問する。だいぶ酔っている。

市長の強い口調に一時、空気が不穏になり、サラに直接、「おまえは何様か」という酔った職員の怒声もあがる。一職員を、首長が話題にするのは当然だがタブー。

酒席は、他で飲んでいた人も交じり、初めの数より倍ほどに人数が増えている。そこで長々とサラの話を酔って話す市長の独壇場となる。

同時に、市長の傍に座れ、というヤジ声あがる。

女性係長がトイレに立つ。サラもついていこうとするが、「サラは帰すな。まだ話は終わっていない」 と市長の声に、帰れず。午前零時をまわる。下の子どもを寝かしつけている長女から何度も、電話が入る。お母さん探して落ち着かないから、タクシーで近くまで来ていいかという電話。もう帰るから大丈夫、なんとか逃げるからと電話を返す。

三次会があるという。失礼しますというと、おまえの人事の件だ。俺らは帰ってもおまえは残れと上司が言う。

午前一時過ぎ、日付は、10月16日。

場所は、割烹、「はなき」

Nさん夫婦が経営する。奥さんはサラの小中学校の同級生。介護長寿課でも何度か来店したことがある。いつもなら閉店している時間。

「はなき」 の近くに契約駐車場があり、サラはついていくふりをして踵を返して駐車場まで歩いたところで、上司が気づいてついてくる。

「市長がおまえを連れて来いと言っている。自分達も疲れて帰りたい、さっさと市長が言うことを聞けば帰れるよ、こっちこそ迷惑だ」 と。

すみませんと謝り、ついて行く。

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