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2009年11月

Xディから一ヶ月、御礼

2009年10月15日、Xディから今日でちょうど一ヶ月。

18万のアクセスを頂き、海外、日本各地からのコメント、メールも多数頂きましたことを、心より深く御礼申し上げます。

現石垣市長の7年前の蛮行を、私人ブログの中で書いてきました。同時に八重山署に被害届けを提出し、今後も取り下げることなく、続行していく所存でおります。

市長側が名誉毀損と強気な発言をされている理由も、把握しております。

市長に今回、Xディの戦いを挑む前に出した文書に、右の論点で書かせて頂きます、と明確にしました。

残念ながら、それだけで強気になり、思想団体、宗教団体、政治団体のバックがついており、このような大胆な戦いを、選挙戦前の妨害として始めた、

そう単純に思われるのでしたら、もう一度、初めから自身の目でブログの内容をお読み頂きたい。

犯した事の転嫁をそこに求めること自体が、愚かであります。

目からウロコが落ちて、やがてもみ消されようとした事件を、「待った!」 と、手を挙げさせたのは、これこそ奇跡だと思っております。

「チャンネル桜」 さんと、「琉球新報」 さんが、最初の取材申し込みをした。それに応じた。

どちらのインタビュアも初対面であり、どなたからの紹介でもなく、ブログの記事の内容にニュース性を感じて、取材を申し込んできた。

また、当方としばらく伴走下さったブロガーは、まったくの個人であり、お一人は、我が家の名前のネット上での晒しを対応するため、連絡を取り、二度ほど、その削除法を教えて頂いた。

TV、新聞、雑誌などの作り手が意図して発信する情報だけから卒業し、チョイスして情報社会を生きている知的最先端の方々が多く存在していることを、私は今頃、知った。

継ぎはぎの情報をただ受け取らない。

「真実を知る」

殆どの方が、ご自分の仕事をされながら家族を守りながら、常に先端を睨み走っている。

病院勤務経験が長いので、患者さんに知的階層が増えた、医療過誤、訴訟に留意せよと、時代がナーバスに変わったのを覚えている。いきなり、患者さま、などの呼び名まで出てきた。

あの感覚に似ている。

発信者が油断できないほど受け手のインテリ度がアップし、情報を鵜呑みにしなくなった。

またいくらでも自分達で取り寄せ、分析できるほど、インターネットの世界は進んでいる。

今日初めて、「チャンネル桜」 さんの内容を観た。

石垣市のお父さんが、今回のことでネットが嫌いになったと話しておられた。申し訳なく思った。

子供達のために、一方的な情報だけでは家族を守れない時代に入ったことを、本当は知って欲しかった。

このことも随所で書かせて頂いた。

皆さんは、どれだけご自分が情報を正確に得ていると思いますか。

私が、目からウロコの体験をしたのは、2009年、8月。

普通の看護師、普通の母親、普通の妻。

多忙といえば多忙。だが病気療養で、その多忙がストップした。時間を得た。

バックを市長が探す行為というのは、転嫁に過ぎない。

残念だがバックはいない。これから身体さえ元気なら思い切りやりたいこともある。

そして何より、このブログを辞めないで続けるように支援下さったのは、市長が頼りになると信じ込んでいる裁くほうの方々からである。

事件がもっと公開される方法として、ブログより、「名誉毀損」 の裁判の方が、より多くの方々の目や耳に届きやすくなる。

インターネットは、扱える世代という制限があった。その枠を超えて事件を表に出す方法を選んだ市長。

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本日を持って、本件関連記事は終了致します。

当方も、ネット画面から、紙へと場所を移したいと思います。

市長が、もっと広いところへ、現実感を帯びる戦いを望んでおられるようなので、当然、こちらも文章を紙に載せる方法を取る、流れになります。

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出してくださる出版社があれば、よろしくお願い致します。

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これまでにご連絡下さった方々に対しましては、恐縮ですが、同じように今日からの対応にさせて頂きます。

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主旨は、先にきた方から、です。そうしなければ、サラが思想的にチョイスしたという偏見で、犯罪の根っこにあるもの自体を隠そうとする、彼らの詭弁に使われてしまいます。

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知る権利のある読者に、意図のない真実のみの情報提供をしたいと思います。

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石垣市から多くの匿名メールを頂きました。

それがすでにどれほどの勇気を必要としたのか、感謝に変えて、心から島の繁栄を祈ります。

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市長事件記事に関して、もう一度、書きます。

2009年、8月、目からウロコが落ちるまで、私は、報道されていることが、全て正しいと思う暮らしをしていました。

そして、今は催眠術から醒めたような不思議な感覚で物事を見ています。

周囲は家族だけ。

市長が怯える私側の大物のバックと言えば、人が見ていないところでも見ている、「神様」 の存在を知った強さ、それだけだと言えます。

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記事の削除に伴い、コメントも同時に消えますが、心を込めて書いてくださった方々へ心からお詫び申し上げます。また今後の戦いにおいて、支えとさせて頂きたく、印刷させて頂きます。

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誠にありがとうございました。

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ネットの置き土産、兄の事件と当件との関係性

夫が、事件に関しては一切を忘れようと言ったことがある。

理不尽だとしても、今は封印するときだと。

関係書類をまとめ、箱に入れて棚上げした。

2008年9月20日、心臓発作で入院。二日前に娘の結納を終えたあと。

ほっとしたんでしょう、と。

2009年8月、娘の嫁ぎ先への配慮もあり、「父の名前」 の名誉回復のため、具体的にネットの置き土産の削除を求めて動き出す。

療養でゆっくり過ごす時間が初めて出来た。

改めて内容を全部、コピーに取り、丁寧に何度も読んだ。

高里鈴代元市議、糸数慶子国会議員、島袋隆弁護士、

そして事件中心人物、T・A

時系列、関係図を事実だけを追って仕上げていく。

あまりにも簡単な図式、関係図が仕上がった。

これを当時、私が知っていれば、

怒りを通り越して、唖然。

なんというお粗末なレベルで沖縄社会は構成されているのか。

呆れ果ててしまった。

T・Aが、「生徒の母親に抱きついたら逃げられた」 と電話をわざわざかけてきたことをすぐ思い出した。

1990年、沖縄タイムスで開かれた私の授賞式に来ていたT・Aと初めて会った。

娘さんを抱えて経済的に苦しいというのを聞いて、兄の経営する職場を紹介した。

夜間の時間帯の仕事だ。

小学校4年生の娘さんが一人きりだというのも危険だから、車を提供し、娘さんの授業料をただにし、お父さんと一緒に来れるように兄は取り計らった。

その娘さんが有名校に進学した。親子の写真が送られてきた。

おかげさまでという、晴れ姿の写真だった。

優秀なお嬢さんで、医学部に進学した。

T・Aから電話があった。

「娘が東京行ったらもうお父さんと縁を切りたいと言う。淋しい」と。

再婚は? との会話で例の話が出た。

犯罪ですよ、と話すと、N高校の同級生で、相手もまんざらじゃないと思ったら拒否されたと。

その頃、兄夫婦の不和があった。その話も出てきた。

当時、事件に関与した職員の裏を取った。

兄が土下座を、何故、市長夫妻にしたのか、疑問だった。母の変わり様も納得できなかった。

だが、すり替えの構図で全てが簡単にわかる。

これは市長は知らないのは当然だ。ブログ全てが正しいわけではない、と本人が言うのも頷ける。

兄の土下座を市長は、戸惑っただろう。

だが市長妻の方は、勝った! これで、こっちのことは表に出ない。サラを島から出すというサラの兄の申し出は願ったりだ。

ビハーラのKはもういらない。あれもいらない。その切り方が、その後のそれぞれの姿として今現れている。

母は長兄を特別大事にしている。沖縄によく見られる長男第一の典型的な形だ。

その長男が、朝も夜も、ビラ播きをされたり、有名高校の前でビラを生徒に渡されたり、近隣へ、ポスティングされたり、街宣されたり、そして二人とも、サラが市長を兄が追い込まれているような状況と同じことをする、敵のように、市長の妻に思いこまされた。

秩序を乱すもの、として母は娘を許せなかったのだろう。

授業はできない。子供達は萎縮する。父兄は不安になる。

民事で詰められ、早期解決で平安を取り戻し、授業を通常に戻すことを優先にしたのだろう。

結果、していない! にも関わらず、沖縄タイム社が連投で、「ハレンチ塾長」 と大手の塾なので、場所を匂わせ叩く記事を載せた。

島袋隆弁護士は、T・A側。

私が養育費のために頼んだ弁護士だ。

30万円支払ったが、私の前夫は、マックで一回会ったけど、笑って話して終わったよ、お金払ってないからじゃない? と誰か他人の話のように教えてきた。

電話は2回かかってきたが、母子家庭に30万円の出費は痛かった。

紹介者が、M・Hという女性。N高校の同級生で弁護士になりたての島袋氏を紹介された。

T・A 、彼が抱きついたN・N。その友人のM・H、この三人をよく知っている。実家で二人は泊まり、祭りを満喫し、Tに至っては、海外の姉宅にも滞在している。

Tは兄夫婦の不和を知り、女性二人は市長の私への異常な近づきを知っている。よく電話もかかってきた。根掘り葉掘り、当時は意味がわからない。

市長夫人は、刑事告訴より夫が選んだ示談のお金を支払うのが嫌だったのだろう。

市長夫婦と仲のよい、高里鈴代氏が、T・Aの支援団体の中心人物となり、兄のほうへ、すり替えが始まっていく。ポスティング、ビラ配り、慣れたものだ。

糸数慶子氏は、タイムスホールで、「このようなセクハラを断じて許さない、T・A氏を支援する」 

と、公人が事件にもなっていない件を、公の場で、根拠姓も確かめず、コブシをあげた。

*****

セクハラを働いたのは、誰か。

性犯罪者は誰か。

臭いものに蓋をしても、今の生活を乱さないでくれないか、と土下座をした兄と、それを鵜呑みにした母も弱い。

だが、時を経て、

私は信仰者だ。

前にも書いたが、人を恐れない、神を畏れるものとして、この世に生を受けている。

証拠があろうが潰そうと思えば潰せる。これが悪党の発想。

神は摂理である。法則性があり、無秩序ではない。

****

質問と見せかけてあちら側からのコメント、メールがくる。

私は、何かを無理やり生み出そうとしているわけではない。

秩序を貫く、それは事実でしかまっとうできない。

****

母の退官式の日が違うという質問がきた。

「神いとま」と、「退官の祝い」 は違う。

だから日付が違うのは当然。

****

沖縄よ、我々、県民の代弁者を調べてみよう。

****

公人の名を書くことになんら問題はない。

ただ、書かれた人は、市長の事件を知っていたうえで、サラの兄の事件、T・A支援に関わったのか。

またT・A自身がセクハラを働き、これが作り上げられた事件であることを承知で、支援したのか。

セクハラを許さない、その正義感と公言の整合性を貫くためにしたことで、調査が甘かったということなのか、今後は事件性の裏づけを確認後、政治活動をするという反省の姿勢を示すのか、

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問われるのは、そのことである。

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名誉毀損は、そのことの返答の上で始められなければならない。

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父の名を誇る

ここで暮らして初めて聞いた。

酔っ払いのケンカではない。大人の本気のケンカの声だ。

今日の賃金に道具代が加算されていない。

日当が8千円のはずが7千円しかない、道具代も加算されるべきではないか。相手側がなだめている。大声は困ると。

子どもの為に大声になるんだよと。

お父さん同士の言い合いが、静かな住宅街に大声で響いて30分たった。

誰も苦情を言わない。しんと静まり返って、それが余計に泣きたくなるほど辛い。

沖縄は7割の子どもが貧困家庭にある、と前にも書いた。我が家も例外ではなく、息子は青年期に入っているが、来年、念願の大学受験に挑む。

今日は、「サラの日記」 の事件も厳しい話だが、沖縄で、子どもをダメにしている、今、起きている事件を聞いてきて、相当へこんでいたところに、このケンカの内容だ。

淋しい。

国の力が落ちている。

自分が幼少の頃の光景に似てきている。

******

2004年、兄と母に出て行けと言われ、心がどん底に落ちたと書いた。

だが、自分は生まれて今日まで、一度も父や母を嫌ったことがない。兄弟、二人の姉がいるが、誰も嫌いになったことがない。

父と母を尊敬している。

両親が教育熱心だったので、それぞれがスパルタ教育の中で育った。父にはぶたれたこともある。厳しかった。母が、子どもたちを怒鳴ったり、叩いたりしたことは一度もない。

母は、手作りの味噌、醤油をつくり、黙々と働く姿は、いつも子どもより先に起きていてあとに寝床に就いた、そんな記憶がある。

父は人が溺れたと島中の鐘が鳴らされるたび、川平湾に飛び込んで何人もの人を助けた、正義感の強い愛情の深い人だった。

兄は教える才能を活かし、机ひとつの塾からスタートし、沖縄県の子供達の学力向上に現在まで貢献し続けている。

弟は、コネクションの匂いを嫌うまっすぐさで、四次試験まであった新聞社の面接で最後まで残り、「身内に著名人はいるか?」 と質問され、「父は無職、著名人はいない」 と答え、最後の二人として試験を通った。父は公務員を退職しており、著名人も身内にいないこともない。

自分の評価にそれが何の関係があろうか、と。

長姉は海外へ嫁ぎ、日本人の義兄と家庭を築いている。

次姉は舞踊家。次姉の踊りは父親に似て完成度を妥協しない厳しい凛とした美しさがある。

実家は、贅沢ではなかったが、暮らしに、日常生活に、大人になるための訓練が息づいていた。忍耐も強いられたが、両親の生き抜いていく後ろ姿は、そのまま人生の指標になった。

父から、点の教育として、ずるさではなく、強靭さを教えられた。

母からは、聡明であることを、線で教えられてきた。

*******

お父さん同士の言い争いを聞き、日本が今のように贅沢ではない時代を思い出した。

その時と同じ気配だ。子供心に不安を与える貧しさの、あの感覚だ。淋しくて辛い感覚。

だが、当時は、その分、子どもは、貧しさに応じて、どの家庭でも強靭な教育を受けていた。そのように覚えている。自然と鍛えられる環境だった。

日本の不況や、いや、それだけではない危機を感じるにつけ、豊かさの中で、私達、今時の親は、子どもに冬の時代を乗り越えさせる強靭さを伝授しただろうか。

両親が十分に果たし終えた役割を、今度は自分が問われる番となった。

私は、珍しい姓を一人息子だった父が誇りを持って守ってきたことを知っている。父は亡くなったが、その名を汚すことを許さない。また誇りを持って息子へ渡す義務がある。

今回、立ち上がった最大の理由である。

そうすると、強い愛国心が同時に覚醒した。父親は国の姿の現れである、と私は思う。

*******

抽象的な家族を自慢する変な稿のようですが、稀な父の姓に意味があり書いた。

「市長事件」 を隠蔽するために、市長夫人と、高里鈴代氏、島袋隆弁護士、左翼運動家たちが絡み、ひとつの事件が意図的に作られた。

新聞が数回、申し合わせたように記事にし、その経過がネットに置き土産という悪質な行為として残った。

父の姓が、ネットでさらしものになって6年。

関わった糸数慶子国会議員に削除依頼を出したが、スルー。

高嶺現県議長もうやむや。

******

私は、父の名誉を回復させる。息子へそれを渡す。

次は、その作られた事件を、知った事実のみ書いていく。

沖縄を搾取するものたち、沖縄カルトの実態は深い闇のようかと思ったが、登場人物があまりにも少ないので、それはそうだと、その裏取り作業も大抵が終わった。

前にも書いたが、

2 6 2 の原則は、戦う上で大切だ。

彼らも所詮、数を膨れさせ民意と叫ぶが、2.。

こちらも 2.。

6の大衆的民意は、初め煽られようとも、最終的には、正しいところの、2 につくようになる。

誰でも落ち着く生活がいちばんだからだ。

搾取されっぱなしは、民意の一番嫌がるところ。

本当の味方は誰か、正義は何か。あなたは貧しく喘いではいませんか?

彼らはどうでしょうか。妙にリッチ過ぎていませんか。

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事件後始まった告訴への警戒、ストーカー行動

2002年の事件後、市長のストーカー行為は、半分どこかでまだ自分の思いどうりになるという動き方だった。
空港での件など他でも書いているので、ここでは割愛する。
味方の上司や遠方の友人達が考えたことは、誰とでもいいから結婚したほうがいい、と。
相当追い詰められていたんだねと、当時のことを友人が後日談。
来島した研究者の友人に、生活費半分出すから、形だけ入籍させて、と頼み込むほどだった。
この件で、石垣島から届く励ましメールは、殆どが匿名。それでも有難い。
村八分が、どれだけ怖いか、住んだものにしかわからない。
誰も巻き込んではいけない。島を出るまで乗り切るしかない。
ストレスは頂点に達していた。
家でも職場でも電話でも追い詰められる。
服従させないと、いつ、告訴されるかと、相手も必死。
すぐ逃げ出そうにも私の仕事は代替がいない。その為に退職希望が一年延びている。課を預かる上司との約束でもあるが、公務員の義務としても当然。
優秀なスタッフが入ってきた。代われる、と思った。
だが残念、それも邪魔される。
病院と指圧の女性の先生の所に、逃げ込むように通い続けた。
その方が亡くなったことを最近知った。
書く動機の一つとなった。
与那国のルーツがあると教えてくれたが、命の恩人だ。
知ったのはブログスタートの直前。
悔しい。
人の痛みを取るだけ取る、優しい聡明な彼女のあまりにも若い死。
理不尽なことに対する怒りがわいた。彼女へ何の恩返しもしていない。
指圧の最中に市長の電話が何度もかかってきた。
彼女は何度もそれを見ては、よりいっそう丁寧に緊張をほぐしてくれようとした。
有難かった。
*********
2003年2月25日、実家へ寄った。
なんとなく実家は知られているので、足が遠のいていた。
中から賑やかな雰囲気。ばあちゃん達が集まって楽しそうだ。
けっこう、母のことばかり心配していたけど、大丈夫なようだ。
私は、伴侶となる夫、Mと初めて出会った。
母が、Mのマッサージを受けている。他は並んで待っている。
電話が来ないなと思ったら
と私が言ったら、「来た人だけの特権」 とばあちゃん達に返されたが、賑やかな実家を久しぶりに見た。
整体院を開業する予定で来島したと、Mを紹介された。
二日後、N氏が他界。
全身が立てないほど疲れていた。
************
Mの祖父が認知症の症状があるというので、訪問するよう母から職場に何度も電話があり、訪問したのが、同年4月。
縁側に座って頑として動かない。私は会議の時間が迫っていて焦っていた。だがそういう気配はすぐに悟られてしまう。言葉では動かない。
その場で失禁しても着替えず動かない、ステテコ姿の祖父を、そのまま、じゃばじゃばとお風呂に入れるようにお湯と石鹸とシャンプーで洗った。
何するかあ、と叫ぶ中、洗い終え、服を脱がせ、仕上げ温かいお湯をかけ、タオルで拭き、
着替えさせ、Mに抱き上げてもらい、濡れた場所から移動させた。
残り湯で床も廊下も尿のにおいを消すために流しきった。
それからケアマネジャーを呼び、病院受診に同行するよう夫、Mに言い帰ろうとした。
祖父が柔らかい顔で私を見て、孫の嫁になってくれと言った。何も返せんからうちのことはやらんでいいよ。孫と結婚してくれなと。
帰りの車で、涙が止まらなかった。気が弱くなっていた。
入院の手伝いをサポートした帰り、
モスバーガーでMと食事をしていたら市長から電話。
「市長から直接指示がある仕事しているんですか?」
とシンプルにMが聞いた。返事ができなかった。
私と会う前に、幼い私の娘を知っていて、その時に、市長のストーカーの噂も聞いていたと、結婚後、夫は話してくれた。
2003年6月9日、
介護保険説明会のため、公民館をまわる地域説明会の真っ只中。
台風接近で、北部地域を急いで終わらせ現地からセンターまでスタッフ一同戻った。
荷を降ろし、解散。
ところが自分のバックと車の鍵がない。
みんな帰ってしまった。
センターの中の電話は鍵がないと入れない。
歩いてスーパーの公衆電話からスタッフにかけようとするが、携帯、手帳もないのでアウト。
小銭は上司にコーヒーを買いに頼まれて、作動しなかったので、ポケットに残っていたから助かった。スーツの中に名刺があった。出張の帰り、マッサージを受けてそのままだった。
恐る恐るMに電話。迎えをお願いしてみた。了解してくれた。
その翌日はタクシーで出勤した。
その夜、Kから、是非、ビハーラに来てと電話があった。台風の余波で、大雨の中、説明会終了後、寄った。入り口で、市長が来ると聞いて、すぐ逃げた。
夫を亡くしたあとのKのメンタルを心配して立ち寄った自分の甘さを思い知った。
Mに電話をかけた。二度目で少しかけやすい。事情をかいつまんで話した。
「帰ってきたらいいですよ」 と。
「そんなのバカらしいですよ。クビになったらその時はその時、帰ってきて下さい」 と。
石垣に住んでいて、初めて胸がスカッとした瞬間だった。
重い恐怖が晴れた。
土砂降りの中、車を飛ばして帰った。
娘と息子が島を出て仕送りが大変なので、4月から母と同居を始めていた。市街地からおおよそ30分の距離。
着いてすぐ初めて自分以外の人に、全ての事情を時系列にそって説明した。
2003年、8月17日、
私は出張先で倒れ、飛行機で戻り、そのまま入院。ストーカー行為は相変わらず続いている。
息子が飛行機に同乗したが、身元引受人を、母に頼まれて空港に迎えに来たMが名乗り出てくれた。
表情が厳しく、初めの頃に感じた穏やかな印象が消えていた。
「よう女ひとりで今まで頑張ってきたな。もう頑張らんでいい」
2003年8月20日、入院中に入籍した。
私の結婚で、事件はいつでも表に出る状態となった。
それからの戦いは随所に書いたつもりだが、次回にまとめたい。
すぐKと、母の様子が変わった。
上司の一部が変わった。
友人からの電話で、母が、「あれは兄弟誰からも相手にされないようになった。私達は市長選も、高嶺さんも応援する。お祝いも行く」 と、半分認知症が入ったようで繰り返し言っていたと聞いた。
兄と母に、まるで犯罪者を見るように見下され、出て行けと言われた。
実の親の拒絶は、どん底を味わうには十分すぎるほど痛かった。
2004年3月31日、退職した。島も出た。
後日、新聞に市長と母が載っていたと知らせてくれる人がいた。
トラブルはなかったという両者歩み寄りのアピール。
親子の縁は切れたと思った。
2004年、7月、裏では、50万円の振込みを市長自らがしている。

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本を売るためではない

実名がでまわっている以上、サラの本をブログに貼れば治療代の足しになるのでは、というアドバイスを頂いた。

そうか、こういう誤解も生じるのか、とこのことについても書かせてください。

私は一冊、本を出している。誤植があり、絶不調の時の出版だった。

読者の皆様は、よく読みとっていただけるとありがたい。

サラにお金が入ったのは、出版直後、二度ほど。4万円程度が二回。

ですから、誰も買わないで頂きたい。

買ったよ、印税入った? と冗談で知人に言われますが、入りませんし、また要らない。

他にお金が流れますので、買えばそちらの支援になると思ったほうがいい。

何度も書いていますが、これは国民、県民への奉仕、石垣市民への公務員時代出来なかった責任を果たすために始めた私人ブログ。

書かないほうが家族のためだ。私の身体の為にも止めた方がいい。

また本を出したいのなら、実力で勝負しなければ意味がない。実力がなければ出ないだけのこと。

生き方だけは、ブレたくない。

損をしても耐える時は耐える。美味しいものだけに飛びついていく生き方は性に合わない。

日本の、「老舗」 の精神が好きだ。また納得のいく仕事を提供する、「匠文化」 の日本を誇りに思っている。

このブログの出発点は、いい歳して、レイプ事件の内容だ。

夫、子どもを犠牲にしている。文字で説明してもピンとこないだろうが、当事者を経験したことのある人はわかって頂けるかもしれない。

ただ書く義務もないので、いつでも削除できる。

公人による事件があったが、県内マスコミは、その公人に設定された報道をした。被害者の側の声は報道されていない。証拠は多い。

県民の、「民意」

の代弁者だと、紙面で記事を書き連ねる。TVが民意だと流す。

ブログを始める前、関東のメジャーな所へいくつか電話をした。

「沖縄? 記事になりませんよ」

伝わってきた感覚は、「ウザイ」 言葉は悪いが、そんな感じだった。内容を聞くにつれて様子は変わっていきましたが。

沖縄県民は、「民意」 を代弁され続けているうちに、日本から、ウザイ対象とみなされる。

私も正直、沖縄県民の、「民意」 、今の日本にはウザイ、と感じるこtがある。

中央の初期の反応は自分の感覚が間違っていないことを証明したようなもので、ブログがスタートした次第。

のん気な県民のために、家族を犠牲にするのをいつ止めようか、親としては毎日、それを考えている。

志が萎えるのは、真意が伝わらない時。

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励ましのようで、非難ー犯罪の抑止力

私は、加害者の人権ばかりを守る昨今の報道や映画に不快感を覚えている。被害者が曝されすぎる。

それも訴えた理由のひとつである。

「罪を犯した人の家族も苦しんでいる。サラさんも忘れて笑おうよ、子どもさんがいるんだから。子どもさんの将来にも影響が出る」

そういうコメントを送られると、心底怒りがわく。被害者の子どものことに触れる無神経。

犯罪の抑止力について書きたい。

犯罪は自分が罪を問われるだけではない。家族も周囲も結果的に巻き込むんだということ。自分の欲望のままの行為が、どれだけ周囲を破壊するのか。それを知っているから、社会人はみなバランスを取り、モラルを守り、他者へ配慮し生きている。

だが忘れようよ、という意味がわからない。すぐに言えばよかったのにと書いてすぐそのあとに。

私は7年の歳月の重みを書いたつもりだ。

被害者が立ち上がるまでに要した時間だ。

犯罪は当然、償うべき。その結果を社会が示すことが、次の犯罪を抑止する。

そう思う。

私を傷つけるつもりはなかった、云々の弁解はいらない。

これはモラル、生き方の問題。感覚の問題。良心の問題。常識の問題。

犯罪をうやむやにする性質の人は、自分の身に降りかかった時に、どうするのだろう。

こうすればこういう痛いことが待っている、だからやるな。

シンプルなことだ。

だが金で、それがうやむやにされたりしたら、子供達を私達はどのように教え育てればいい?

今日は多くの励ましを受けた。だがあまりにも許せない書き込みに怒りだけが残る。

ここは真剣な読者の真面目なやり取りの場所となった。

多くの方々の真摯な声に、私は、日本人であることを誇りに思っている。会ったことのない方々にいつか会いたいと思う。

これが何故、書かれているのか。どのような状況で書いているのか。文章だけで全てをわかって下さり、伴走くださっている方々を思いつつ今日は休みます。

心から御礼を申し上げます。

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沈黙の中の痛みー2009年5月

ここを封鎖しろという刑事告訴が始まれば、私は書けなくなる。

その前に、訴えた理由をできるだけ書きます。

私は最近まで現場の看護師だった。

勤務していた病院に自衛官の方の奥様が入院して来られた。数日で急遽、故郷、宮崎へ帰られることになった。ご夫婦ともピリピリされておられた。奥様は私よりお若い方だった。

病気の重さもさることながら、冷たいんですね、自衛官に。沖縄の空気が。

初めて体感した。強い憤りがわいたのを今でも覚えている。

厳しい現実に直面し、頼る人もない地でご夫婦で途方にくれている。

冷たいじゃないか、何が守礼の邦だ。みんな情なしか、仕事のモラルはプロ意識はないのか。

熱くなった私は空港までの救急車移動の同伴を申し出た。

一般職員が、という反感も周囲からあった。最後は師長がOKを出し、一緒に救急車に乗せてくれた。

私を同伴したいと希望された患者さまの意志を最優先した、男性師長のいざという時の決断力に感謝した。

出発の前、浮腫んだ足を洗わせて頂き、宮崎に必ず来てねという言葉をもらい、空港でお別れをした。

淋しい別れだった。

3年前。

もう奥様はこの世にはおられないと思われる。最後ですね、とご自身できっぱり話され、私のほうが震えていた。

そのあと、私は、緩和ケア病棟を最後の仕事場に選んだ。

数ではなく、一人、ひとり、別れは苦しく痛い、辛いものだ。

よく働けたなと思う。

今も現場で、一期一会の懇親のケアをしているスタッフを思うと頭が下がる。

市役所の同僚だった同級生もそこで見送った。若い彼女の最後を自分はどのように見送ったのか、思い出せない。

市役所にある二つの組合が一致して送った旗が彼女を支援するようにベット脇に貼られた。

それをケアのたびに見るのですから、胸が痛く、また見舞いに訪れる元同僚に会うのが何より辛い日々となった。皮肉な状況だった。

その後、私は急な心臓発作に見舞われ、CCUに入院となった。初めての発作だった。

自分自身にもやがて突きつけられるだろう死ぬ瞬間を思い知った。

緩和ケアに入院される患者さんが、旅立つ前に語る言葉はそう多くはない。

「十分生きただろうか」

「生まれてきた役割を果たせただろうか」

「やり残しは何か。持っていってはいけないものは何か」

「みんなありがとう」

***************

退院して、リハビリとしてウオーキングを始めた。

沖縄は緑が少ない。息苦しくなるので、緑を探す。

いつの間にか激戦区をまわり祈ることが日課となっていった。

若い頃、1フィート運動、アメリカから直接沖縄戦のフィルムを買う運動に参加したことがある。事実を知ることはいちばん大切なこと。

お金を出すことで、それができるならと加わった。子育て、仕事と並行していたので、途切れ途切れでしたが。

「健児の塔」 に夫と娘で休日によく行く。

「ひめゆりの塔」 は観光客が多いが、「健児の塔」 は、人の気配が殆どない。

夕刻、初老の女性に、健児の塔を降りていった所の海岸の出入り口で会った。

その人を見かけたのは三度目。人気がない所なので、お互い目を合わすのを自然と避ける。

ゴミが岩場に乗せられたりしていたので、私達夫婦は、初めホームレスか、精神疾患のある人かと思っていた。暗くなる海に今から行こうとするので、人を避けていると思った。

実際、戦争の後遺症で非常に患者さんも多い。

夕方で日も沈み、健児の塔のある森の道を戻るには今からでは足元が危ない。

私達は足元が暗くなる前に浜をあとにしようとしていたので、今から降りていくその人に不安を感じた。

その人に先に道を譲った。

軽く頭を下げられ、私の娘がハンディがあるのに気づいたその方が、ふと微笑まれ娘に頭を下げて行った。

その時、初めて顔を見た。あまりの気品に鳥肌が立った。

夫婦で帰り道、ペットボトルや空き缶が各所で丁寧に集められているのに気づいた。

たぶん夫婦同時だったと思う。

「ご兄弟を亡くされたのだろう」

誰の目も避けて、ひっそりとゴミを集めるその人は、優しく気品に満ちた静かな顔をしていた。

長いこと、何年も通い続けなければ、夕刻の暗闇をよむことはできない上での行動だと知った。

沈黙の中にある、痛み。

言いようもない痛みが一気に胸に溢れ、家に着いてもしばらく夫婦とも呆然としていた。

戦争は誰もが嫌うこと。誰も理不尽に殺されたことを納得できるものではない。

それを避ける国力が、平和を維持できる。

***********

母子家庭の方は誤解しないで読んで頂きたい。

自分が母子家庭だった頃の不安を今の日本に感じている。

強い父親のいる家庭は他者から失礼を受けにくい。

私の被害は、その典型的なものだ。

経済的な安心、地域での信頼、子どもの将来への安心した投資、家の中の保たれた秩序。そんなことを意識もせずに、今日までこれたのは誰のおかげか。お父さんのおかげではないか。

日本の国の父性が弱くなったと感じている私の個人的な不安を、思想的と言うのなら、自国の中で言論の自由を奪われたに等しい。

サラは、「自由の子の母」 という意味。私の本に感想を下さった人の名前をもらった。

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用意された報道は公的会見に使うものー個人的なことは両者平等に

2009年10月15日から、本格的始動をした私人ブログ。

何度も書いているが、市長へ戦うためのマナーを示した。猶予期間を提示した。

そのルールに乗っ取って書いている。

ところが、それを市長は簡単にスルーし、駆けつけたチャンネル桜の、当事者、両方から取材したい、という当然の申し出をまたもや簡単に無視し、TVカメラの前から二度逃げた。

TVは表情を生々しく捉える。素直な目で見れば嘘はすぐに見抜ける。

逃げた理由を、市長本人は準備期間が必要だった、と言っている。

その準備期間とは、

同級生の弁護士を準備し、全部打ち明けられる友人なのだろう、なにしろ恥ずかしい話だからだ。他人には打ち明けられない。

記者席からの質問受け付けずの方法を取り、記者会見の準備をした。

弁護士団を揃え、

一主婦の私人ブログに対して、TV局を準備し、翌日、記事にして載せてくれる新聞社へ渡りを付け、一方的に、この件を処理した。

一般の主婦に対して、《どこかの政治団体のバックがついていて、これは次期、市長選への悪質な名誉毀損に値いする行為だと、

平和の島、を右翼が、かつてのあの忌まわしい戦前のようなファシズムへ巻き込もうとしている。私は政治生命をかけてでも、皆さんの命、地球よりも重い命を、人権をお守りする。ですから、このような事態にはけしてひるまない。

皆さん、ぬちどぅたから、この島をかつての悲劇へと二度と巻き込んではならない。私はそのために出てきました。この島には基地も自衛隊もいらない。憲法9条、私は守り抜きます。この妙なブログはその挑戦だと思っています。皆さんも惑わされないよう、一緒にしっかりと平和の拠点、沖縄を守り抜いていきましょう》

《》 内は、サラならここまで言うというところです。残念ながら、ひたすら保身のみの市長会見で情けないかぎりです。

さて、

市長、逃げ隠れ準備期間に用意されただろう、TV局からサラへの事件性への信憑性はどうかという取材は一切なかった。

沖縄タイムス社からの事実無根の、無根と言うが証拠等はどうか、という確認取材も一切なかった。

琉球新報社は二時間の取材をした。数々の証拠も写真に撮った。

報道のルールに即している。

ただ発表する時期についての躊躇があった。それについて私見を書きます。

公人側につく報道、に昨今のニュース報道を感じてしまいますが、これは一般人が事件性を訴え出ても、法的根拠等の用意がすぐにできず、

権力者側はそれをすぐに用意できる。(弁護士を雇えるか、お金の問題です。また一般人はスキャンダルに慣れていない)

報道する側としては、法的根拠の裏づけをつけた側から報道するほうが社の身の為となる。

新しく聞くことが、「新聞」 ではなくなった。法的根拠があって、ここまで書いても大丈夫、という記事になっていく誘因かとも思う。

ニュース報道も新しいことを見たりするところではなくなった。打ち合わせて使われる場所となりつつある。

今回、このことを肌で感じている。

しかし、一般的な感覚で誰が考えてもわかることは、長期政権の島社会における弊害である。

それを初めの記事でリポートした。

市長はTV局を、新聞社を用意した。このことを市民、県民、国民はしっかり目に焼き付けて欲しい。

これが一国の状態だと仮に見てみよう。

TV局は、一国の長に用意され、新聞社はその報道を記事にする。

もう一度、書く。RBC、沖縄タイムス社から一度も取材の連絡を受けたことはない。

市長の大げさに騒ぐ、政治団体に動かされて書いた私人ブログなら、私は身の危険を感じてここからどこかへ保護されて、戦えるじゃないですか。

今も夕食の準備を休み、休み、しているところです。子どもの体育着を洗いながら。

琉球新報社とチャンネル桜さんは、今回取材申し込みが一番早かった。

そのあと、今までで一番大きな激痛に見舞われて救急車で搬送された。

そのあとは、申し訳ないが、体調が続かず、応対する力がない。

取材要請は大手がまだまだ控えている。だが身体が辛い。経過を皆さん心配して下さっているが、取材競争の仕事ペースに、一般人の身体がついていけない。

どれにも真面目に答えようとするのも、この疾患の特有な性質とも言われている。

必ず回復し、電話を下さった編集者の取材にもいずれ答えたい。気持ちはあります。

そうでなければ、「報道の良心」 で動いてくださった方々さえも、私は無にし、作為側と、良心側とをはっきり分ける機会を失ってしまう。

レイプ事件=示談期限切れ=約束不履行=約束どおりブログ開始=反響大=一番早い取材申し込み、琉球新報、チャンネル桜=市長取材から二度逃げる=サラ発作=事件告訴調書中断=市長準備整い、記者会見、ブログ消去求める刑事告訴(沖縄ではみっともないので、東京でする)、RBC、QAB、沖縄タイムス社=サラ八重山毎日新聞社取材へ答える。

*******

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

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事件後~ブログの経緯

動機は今さら法廷で探らなくても市長自身がよく承知しているはず、書き送りましたから。ここでも書いています。

何も法律の専門家の手を借りなくても、読めば一般人でもわかる。

2002年9月16日、事件が起こった。そのあと市長の尋常を逸した庁舎内、センターでのストーカー行為、実家への訪問。犯罪がらみの人事配置による、私が周囲から受けた攻撃。口外するなと、示談の電話を何度も酔ってかけてきたこと。

上司を使い、夜の飲み場所に呼び出そうとしたこと。

N氏が亡くなったので、告訴できないと読んでからの行動は一転して傲慢に転じたこと。

私が再婚して、弁護士に相談。示談額を提示、条件として、告訴しないこと、島を出ること、と明確に打って出たら、

八重山病院へ、カルテを提示するよう怒鳴り込んでいったこと。市長の妻もカルテ提示を県職員へ求め、誰が主治医か、名前を出せ、うちの人はここの院長だったんだ。できなかったらあんたたち、みんなクビにすると、騒いでなかなか帰らず、

私は外来で、メンタル相談中だった。先生が、カルテは鍵付きのところに入れた。鍵は僕が持ち歩いていると教えてくださった。

またもう一人の先生が、市長はドクターだった人とも思えない。医者の倫理をなめたらいかんよ。患者優先、それが崩されたら医者は医者でなくなる。絶対、渡さないから、ここはどこの国だと思ってるのか。自分の国のつもりかな。

数人で苛立って会話したのを覚えている。

市長の妻は、カルテ開示を拒否されて、怒りをそのまま介護長寿課に持ち込んだ。

私がセンター勤務というのがわからなかったのだろう。所属は介護長寿課だから、そこに向かったと思う。

上司を並び立たせて、今すぐ、サラを辞めさせろと詰め寄り、説教を初め、ここでもなかなか帰らない。

上司から電話をもらった。

あのクソばばあ、仕事場をなんと思っているのか。自分のだんなが起こした会社のつもりか? ここは市民の税金で動いている公的な場所だ。奥さんがあれで、だんながおまえ追い回して、役所が汚れていくな。

長年、働いてきて、これだけ嫌な気持ちになったのは初めてだ。おまえ、引継ぎもいいよ。いるほうが市の損失かもしれん。情けない。自分責めるなよ。誰でもあんなバカ騒ぎされたら死にたくもなるよ。こいつらのために死んだらバカらしいぞ。

怒りで声が震えている。並び立たされ説教されたのが不快だったのだと、部下も見ていたからよけいにプライドが耐えられなかったと思う。

市長妻の怒りは止まらず、サラの実家、老母のもとに。

二時間以上、母を怒鳴りつけて帰ったと。

母は寝込んでいた。

市長にお金を要求したの?

あることがあって示談書を出したと話すが、母には意味がわからない。

本当は警察に行くことなんだけど、市長が公開されると困るから示談金払うから誰にも相談するなと言っていた、と説明するが、愛人になれってね? と聞いてくる。

いいよ、お母さんは何もわからなくても、ごめんと謝った。

ここには住めんの? 家も造ったのに。お母さんはまた一人か?

と聞く。

私は子どもの育て方をどこの偉い方の奥さんかわからんけど、あんだけ怒鳴って、文句言われて、祭司してきたから神信仰に仕える仕事してきたから、聞くこともできたんだよ。ひとことも返さなかったよ。子育ての結果は自分が評価するものじゃない。

あの人の子育ても私が言うもんじゃない。だけど年上の人に向かってあれでは市長さんは、どんなにいい仕事をしても尻から破れて結果が逃げていくね。

二度と、応援はしないよ。あんたは実力で役所に入った。入れてやった恩を仇で返してと怒鳴られて、もう疲れた。あんたは市長の奥さんに役所入れてもらったのか?

新聞で募集していた調査員から入ったの、忘れたの?

そうね。

そのあと、病休に入った。

しばらくして、これで話をつけようとビハーラに呼ばれた。すぐに夫に電話をかけたが仕事中で取らない。留守電に場所と時間を入れる。

これですべて終わって退職できると、ビハーラに出向く。

Kと市長が地下の薄暗いところにテーブルを用意して待っている。

暗いので躊躇したが、すぐに夫が駆けつけてきた。

「大浜さん、妻は病気で休養中です。業務のことでしたら上司に出勤してから伝えてください。私の妻ですから、私用でしたら私を通してからしてください。失礼します」

夫が頭を下げて連れ帰った。

そのあと電話があり、告訴は困る。示談でと言う。途中で夫が取り、「直接の電話は困ります。これで体調が崩れるんです。あとは弁護士さんにお任せします」

弁護士まで持っていけば、口外と同じだから示談でとしきりにそれを申し出る。

復職してすぐに、センター窓口に市長妻が現れた。市議を伴っている。

「おまえは私が誰かわかるか。言ってみろ」

「市長夫人です」

「頭はまともなようだね。何故私がここに来たかわかるか」

外来者が横から割り込む。

センターの祭りだった。血圧を測ってくれないかと言うので、それをする。そのあとにすぐ非常勤務のスタッフに電話をする。それから夫へ電話をかける。

非常勤務のスタッフがカウンター傍の椅子で座り、私をガードする。

「おい、おまえはあっち行け」

スタッフは聞こえないふりをして書類に手を伸ばしている。

「おまえがmと手をつないで歩いているところを何度も見られてんだよ。わかるか、バカ」

mは私の夫である。体重が激やせして、筋力が落ち、仕事復帰まで私は夫の手を借りなければ歩けなかった。というより、夫婦が手をつないで歩いて何が悪い。

「島出て行け、ここはおまえなんかが住むとこじゃない。今すぐ出て行け。えらそうに、誰のおかげでそこに立っておられると思ってるのか」

そこに夫が駆けつけた。ぎょっとしてカウンターから下がり、市議と二人、帽子をかぶったままソファに座り睨みつけている。市議はだんだん下を向いて顔をあげきれない。

夫とスタッフ二人がそれに対応するためにしばらくそこにいる。

そのあと、私の兄が市長宅へ行き、土下座をし、母を連れて出、私に引越しを求めた。退職までもう少しで出費もかかると、娘、息子へ仕送り中、頼んだが、出て行け! で、母も私の顔を見ず、私達は一旦市街地に越し、退職して島を出た。

2004年7月、オオハマナガテル名で口座に50万円が振り込まれた。

示談、本人提示額、私の当時の収入に療養に必要とする年数をかけて、2000万円。

2009年8月、兄の土下座の意味がわかった。

その内容を市長に書き送り、

2009年10月15日、示談金、500万円で本件終了すると書き送った。

兄がでっちあげ事件で相当額を支払い、なおネットでダブルジョバティ、二度裁かれ続けていたからだ。

娘の嫁ぎ先への配慮もある。珍しい姓を担う息子への配慮もある。

名誉毀損はこのようなことに使えるのではないかと思う。

私は物書きなので、言葉でこれまでのことを書くと市長に示談書の内容と共に書き送った。

争って暮らしてきたわけでもない。

許可を得て書き始めた。示談を申し出、それを時効まで知らん顔し、書き始めたら真っ先に市長本人が脅してきた。ホットラインから。

さて、「名誉毀損」

私の名誉も散々毀損してくださった市長夫妻、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、たくさん裁く言葉はあります。

ただ自分はクリスチャンですので、聖書の言う、裁くを説明します。

原語で、意味は、「神が導く」 です。

私はもちろん人を裁けません。

政治団体、宗教団体、思想団体の背後関係をいくら調べても何も出ません。

考えてもみてください。子どもが多く忙しい看護師の仕事をして、ご飯つくりと患者さんのケアで毎日、クタクタです。

今、何かがわかったら、今度は心臓発作です。これも神様の御こころです。

*****************

八重山毎日新聞社の取材には答えた。他はまだ体調が不十分なので、控えた。

受けたのは、やはり地元への責任からだ。

いろいろ準備するのに時間が必要だった、とは言いたくないのですぐに応じた。

そのあと発作がきてもあなたのせいじゃないからと、途中から懐かしい島の言葉で冗談が出るくらい話ができた。

故郷への感謝と愛情が真摯に語ることに繋がった。

やはり、あの時の同僚にまず伝えたかった。女性数人に呼ばれて問われたことがあった。だが、当時は何も伝えられず、彼女達にも失礼をした。

心当たりのある方々へ、心からお詫びします。

皆さんが感じた不快感は間違ってはおらず、正義感ゆえのものです。当時、自分が生活のゆえに弱さゆえに全てを説明できず、申し訳なかったとずうと思ってきました。

仕事を通してせっかくいい関係が作れたはずの貴重な時を、もったいないと思います。私はケンカが苦手で、当時はよくへらへら笑っていたように映ったと思います。

男性のように職場ではいましたので、ぶつかればアウトという心境でした。

母子家庭の働く母親は、外では心意気はすでに男性同様、これは他の女性をそうではないと言う類のものではありません。

セクハラ、パワハラは、生活と直結するので、簡単なことではないと思います。

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割烹オーナー夫妻からの電話(2003年1月4日)

2003年1月4日、

役所は仕事初め。職員は自分の担当業務があるので、他の担当者をフォローサポートするゆとりがない。非常勤職員が休みなので、業務は滞る。

介護長寿課の窓口は朝から来庁した市民で殺到している。電話も鳴りっぱなし。

介護認定の申請や、正月で久しぶりの家族が揃ったがゆえに、潜在していた介護問題が表面化されることにもなり、

いっきにニーズがパンク状態。

どれが鳴っているかわからない電話の一本を耳に当てた。

「助けて、今すぐ来て、病院に来て」

交通事故か、高齢者の虐待か、プラスアルファは無理だと思ったが、優先順位は、今、対処しなければならないもの、判断して、電話に対応する。

「どちらの病院ですか。お名前をいただけますか」

「お願い、すぐ来て」

聞いた声だと思ったが、なにしろ周囲は電話の音と、来庁舎のイライラした声で考える間を与えない。

認定調査員が調査表を届けに入ってきた。

15分で戻りますから、電話の応対をお願いしますと頼んだ。全部メモするように、追って対応していくからと、手を合わせてお願いした。

主治医意見書を八重山病院に取りに行く予定があるというので、それ代わりに私が取ってきますと、鍵を持って、指定された病院に車を走らせた。

虐待のケースで病院に駆けつけることはこれまでにも何度かある。

だが病院で私を待っていたのは、車椅子に座ったオーナーとその後ろに立つ奥さん。

「うちの人、末期って、どうすればいい。息が吸えない」

主治医にもう一度話を聞いてくれと頼むので、同伴して話を聞いた。

昨日まで、店を開けて仕事をしていた。胃部不快感は、あの事件のあとからあったと言う。

二人は何度も私の実家の母を訪ねている。役所のカウンターにも話したそうな顔で来た。二人の息子のM君は気の優しい青年で、私も苦しかった。

だが会話をすれば、私が介入した不当人事だと誰もが噂している時だ。私も体調を崩していた。事件も消えたわけではない。縁は切ったと話してルールを守らない、そちらが悪い、そう思い、応じなかった。

「あと二ヶ月」

主治医がはっきりと癌を告知した。呆然とする二人に、仕事帰りにまた来ると言い、私も混乱して病院を出た。

琉球大学病院に移りたいという二人の意向を手伝い、救急車を翌朝、空港から病院まで手配し、オーナーに痛み止めの座薬を入れるのを手伝い、会話は避け、その夜は帰った。

出張で県庁に出向いたあと、見舞った。

もう立てない状態だった。おでんを買って奥さんのKと二人で食べた。

二人で並んで食べ、二人で泣いた。オーナーのお母さんが早世したこと。幼い下の兄弟二人を小学生の低学年だった彼が家事をやり育ててきたこと。

うつらうつら、お母さんと呼んだこと。天国ってあると聞くので、うちの人はお母さんに会える?と聞くので、私は胸が潰れそうでうな垂れた。

2003年2月27日、42歳でN氏は他界された。

通夜、葬式を手伝い、2003年3月1日、彼らの娘さんと、私の長女が高校を卒業した。

市長を罪に問わないではなく、夫を喪失したKを責めることは自分には到底できないこと、そう思ったのを記憶している。

1月4日、電話のあった同日に、私はセンター異動の内辞を上司から受けたので、庁舎から出てセンターへ出勤していた。

そこに痩せてしまったKがふらふらと何度か現れた。市長を告訴しようとする気がだんだんと萎えていった。私も痩せていった。

2002年、10月、

M君が配属されたあと、私は学校勤務に戻ろうと沖縄本島での生活に向かって動き出していた。

高校卒業後、娘は私の姉の住むカナダへ留学が決まっていた。長男は高校2年へあがる。転校先の試験を受けさせた。

発展クラスの枠が一つしかなく、理系から文系へ変更ということになったが、しかたがない。

息子が面接から戻った飛行機と、N氏のご遺体を乗せた便が同じだった。私の子供達は多くを見たが、そのことについて今まで一度も話をしたことはない。

2003年4月、息子も娘も島を離れた。だが私は代理へ渡すまでの業務責任があり、センター勤務を続ける。

その間、何度も市長から公私共に電話があるが応じていない。

公開するなということを言っている。私が島を出ようとしていることに勘付いたら大騒動になる、と上司は、異動を呑めとアドバイスをくれた。退職届を上が見る頃には、体調不良で休みに入り、島を出て、そのまま辞職という状態がベスト、そうアドバイスをもらった。

その頃から、示談の件を何度か電話で示唆された。

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11月4日、水曜日ー本日の沖縄タイムス記事は保存

沖縄タイムス社には市長の子弟がおられる。

私に裏を取る事もせず、報道した。

犯罪者側に、同じ思想だからというだけで付いた。

よくよく、このおかさしさを、今、体感する必要がある。

沖縄タイムスが私の兄の民事、それも強引に示談された件を、執拗に記事にした。

これはもう、そのことが事件ではないか。

その記事の経過がネットに置き土産となっていて、私は今回、警察へ行った。

市長事件のことを知っている人間が多く、兄の件に関わっている。

ビラ配り、ポスティング、街宣。

普通の人ができない行為だ。

左翼運動家という名前を初めて知った。

今年の8月のこと。そこから調べていくうちに、闇の図式がはっきりと書きあがった。

私は、時効があるのを知っていた悪質な市長に反撃をしているだけではない。

この全体の闇の図式をここで言葉にして表していくだけだ。

新聞が表現の自由なら、私も表現の自由だ。

読んだか? 事件の日の詳細を。何故、事実無根の人間なら他人の口座にお金を振り込むか。ホットラインから脅すのか。

県外取材に二度も逃げ、待ち合わせたように、お仲間が守り。お仲間TV、お仲間新聞とつるまないとやれないのか。

隠すものが多いのだろう。それに手を貸している報道。

私は一人で立つ。

これをよく見るがいい。

この男のこの数日の動きと、私の対比を。

それでも読み取れないなら、それは仕方がない。沖縄だけが閉塞空間になればいい。

創価学会が関係していれば司法も敵とどなたかアドバイス下さいましたが、市長の妻がエホバの証人、その姉妹が創価学会。票は創価学会で得てきたようなもの。

これは本人が飲んで豪語していた。また妻の長い電話で、これもダラダラと聞かされたことがある。

だが何かを信じたいという原点は、誰もが苦しみから始まったはずだ。

創価学会もエホバの証人も何も自分達のことしか考えない特定の個人を助けるために、それぞれの信じているものに背を向ける必要はない。

彼ら夫婦は欲張りだ。あなたがたの益を守ろうという心意気などない。

それぞれが苦しい時代となった。

目覚めよう、家族のために。そう思います。どこからでもいい。立ち位置はそれぞれだ。

私は思想団体、宗教団体を否定するものではない。

ただ今のこの有りように、警告を発する必要を感じている。

私は金も健康も十分ではない。

だが良心のある証言者も名乗りを上げてきた。みな普通の生活者だ。

事件関連の詳細な記述は、私への法的制裁が下るまで続く。

何故なら、これしか方法がないからだ。

沖縄タイムス社の動きは読めていた、何より単純な市長行動は、私も周囲もこれまでで嫌というほどわかっている。

弁護士、三名。

さて子ども二人は公務員にしたし、あと一期努めれば、20年、これで県立の時と同じだ。さて何がもらえるのだろう。

しっかりちゃっかり足元固めて、欲張って、

自分の命だけ地球より重くして、

沖縄県民が、のんびり生きようが私にはもうどうでもいい。

創価学会が司法に関係していようがどうでもいい。何も不安を感じない。

要は、市長が、引き伸ばし、コトが自然に消えていくのを待ち、またしっかり20年目指して欲が疼いて出てくるだけの話だ。

他の方々は関係ない。私は見たこと、経験したことだけを書く。私の知らないところで頑張っておられる優秀な方々を、自分の程でどうこうしようなどとは思わない。

聞かれたら素直に全部話す。記録の習性だけは20代から少々達人の域だと思う。仕事でケースを書いたり、相手の言い分をそのまま書いたり、スピードも速い。

公開されると。全部吐き出せるから、正直嬉しい。

みんなが意味がよくわかる、全部話せばそういうことになる。

二極化、沖縄県の7割の児童生徒が貧困家庭にあるという。聞くだけで胸が苦しくなる。

ここは共産国家ではない。

上だけが潤いを巡回させる性質は、日本の国民性には合わない。

また正義を見ぬふりの報道も本来、日本国らしくない。

これを体感する。貴重な時間だ。自分たちを取り巻く得たいの知れないもの、それが将来の子供達を苦しめる。

目的のためなら手段は選ばない。沖縄タイムスの今回の報道姿勢にそれを見た。もう日本の報道機関ではない。

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11月3日、火曜日ー市長会見、「名誉毀損」 待っていました。ありがとうございます。

残念ながら、TVも新聞も我が家にはない。

この状況が、まさに日本の危機なのです。

サラはブレません。

一人でも立てます。

自分の仲間内に囲まれてしか堂々とできない相手と、これから対峙していきます。

何故、二回逃げてRBCで放映されるのか。

沖縄タイムス、琉球新報が明日、市長の一見、堂々と正義に向かうような見出し記事が出たら、皆さんは、歴史の証人です。

私は、本日、ハンディのある娘と二人きりでした。

友人の祈りがあり、電話で夫の祈りがありました。

「名誉毀損」

「人権」

さて、どちらが先か。

私は、命が優先だと思います。

ストレスと切り離せない心臓発作を持つ、子どものいる女性を相手に、「人の命は地球より重い」

と、二度と語らないで欲しい。

仲間のためなら、正義をも潰す。

報道機関は、政治家のために存在するのか。

沖縄は終わった。

全体主義という言葉を。コミンテルンという言葉を、自虐史観という言葉をこれを機に皆さん知って欲しい。

これが情報戦争です。

日本は、こうして日本を嫌うものによって、内部から、国力を落とされているのです。

気づいてください。

私は誰のために、身を曝していますか。

市長は誰のために仲間を使って、「名誉毀損」 をわざわざ言いますか。

16年君臨し続けて、まだ欲があるのです。

私は、無私欲です。

私は、政治家ですか。右翼ですか。何をそう呼ぶのですか。

あなたがたは、本日、私が仲間に大勢囲まれて戦ったと思いますか。

もう一度、言います。ミオコールスプレーを手元に持ちながら、娘と二人きりです。

弁護士も用意できませんでした。市長は二度逃げ弁護士を伴い、RBCでわざわざ放映です。

日本は滅びます。一人の国民さえ守れず、レイプをした男が堂々と仲間内のTVを使って仲間に励まされてかっこうつけて、出た。

だが、震えて眠るがいい。

一人きりになったら怖いはずだ。

私は人を恐れない。こんなものは風景だ。子孫に良い状況を残す、このことだけを真剣にいつも考えている。

顎を引き、私は見据えます。

沖縄の権力に対して、神の御前にひれ伏し、正々堂々戦いを引き受けます。

リンクブログは消させて頂きます。

証拠が山ほどあっても、これはなんでもないことだという。

一国の総理を、漢字、読み違えでいつまでも叩く。

日本の国のメリットが何か、皆さん、考えましょう。子供達はどうすれば健全に育つか、考えましょう。

自国を否定し続ける国は滅びる。

市長に手を貸した方々、仕事に誇りはないのか。犯罪の根を調べたか。

神を恐れない者は、彼に加担すればいい。

神はけして侮れない方だからだ。

私はどこにも属しないクリスチャン。逃げも隠れもしない。

一つ、申し上げて、怒りを収めたい。

私は、市のある事を調査した。これはその所に報告した。ここでは書けない。

聡明な方が言った。

権力者が女性に手を出す場合、三通りのタイプがある。

1 相手をただ好きになってしまった。

2 知られたくないことを隠蔽するために、性的に支配し主従関係を強引にでもつくる。秘書に手を出すのは、このパターン。仕事がやりやすくなるそうだ。

3 ただのスケベ。これは余罪がある。

  私は踏んではいけないものを踏んだ。

 皆さんは知る権利がある。報道がこの状態だから、ネットが存在する。

 目からウロコの経験を皆さんに、これからも送る。中断すれば、闇の存在をますます知ってください。国民、県民の益は守られていない。

 一部のお仲間だけで上を牛耳っている。これは自由な国の形だろうか。

 

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母の退官祝い(2002年10月)

母の祭司職の退官祝いが、公民館主催で母の自宅(サラ実家)にて行われた。

兄と私が家族として参加した。長姉夫婦は海外在住なので祝電が届いた。

祈り場所全てに出向き、任務を離す祈りを捧げる。研究者や取材人も限定して混じっている。

途中、小島を残すところで母がふらついた。

無理だろう、後日という声が公民館幹部からあがる。

母に私が同行するから続けるかと聞いた。看護師なので、いざという時に動ける。

やるというので、離れ小島は兄と一緒に母に同行した。それまでは私は女なので家でお膳の用意などに追われていた。すぐにスーツに着替えた。

同行する。小島の最後の祈り場所で、祭司職を離す瞬間、「お前が祈れ。疲れた」 と母が言うので、そのまま母が言うように代理をした。

それから家は宴会となった。

現県議長に声をかけた。兄は座の真ん中に母といる。

「相談がある」

事件当日のことを話した。

「そうか」

しばらく無言で苦しかった。

「お母さんは54年務め上げた、今日はそのお祝いの日だ。サラは石垣市何年か?」

今日はお母さんを祝ってやろう。この話はあとでまた相談に乗ると。

現市長に勝てる人は、ここにはいないかも知れない。

体調が崩れ始める。その間にも市長から部長を通して業務でと応じるように電話がある。

部長は心臓疾患があり、「身体がきつい」 とこぼす。誰彼にも申し訳ない思いだけがわいた。

みんな生活があり、家族がいる。市長の電話は公私の両方から執拗に続いた。

現議長から連絡はなく、2009年の今日まで会っていない。

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2002年9月終わりごろ

日付の裏づけを後日、追加アップする。

石垣市川平の結願祭の日。

母が54年、祭司を努めてきた。例年、サポートする。息子が奉納棒術を舞うので、そのサポートも必要で、本来なら年休を出す。

だが市長が公式行事として毎年出席しているので、今回、サポートを研究で来ていたゼミの学生に頼み、自分は出勤した。

昼食前、

女性トイレから出てくると課長が腕組をして立っている。

「外勤に行け」

鍵とカバンを取りに行こうとすると止められた。緊急の処遇困難ケースの訪問だと思った。

「バカ、早く逃げれ。変態野郎がお前を探し回ってギラついて増進課に行ったり、介護長寿課に来たりしているんだよ。部長もついて歩くから大事になって、みんな仕事にならないんだよ。そのまま帰って来なくていい。午後は外勤扱いにする。カバンと鍵は預かっておく。早く行け」

「お金ないですよ」

課長の厳しい顔を初めて見たので、そのまま福祉事務所の所から表に出た。

認定調査員の誰かが来たら家までお願いしようかとも思ったが、誰も来ないし、お腹もすく。

勤務終了までうろうろと周囲を歩いていた。退勤者の姿が一応に落ち着いた頃、課に戻った。

課長、補佐が立っている。二人とも厳しい表情をしている。補佐は帰っていった。

「サラはどこに行った。外勤から戻せ。祭りに行ったのか」

と、ギラギラ目を光らせて行ったり来たりし、そのたびに付き添う人たちも動き、課の窓口の職員は起立し、騒然としていたと課長が事情を説明した。

課長が、「おまえ、誰でもいいから見合いでもして結婚やれな。仕事仲間としてお前を失いたくない。あんなマスターベーション男は、周囲も何も見えていないからやっかいだよ。僕らはみんな生活のために働いているのにさ。おまえもキツイな。辞めるなよ」 と、言った。

泣きそうになった。だが課長に16日のことを話すことはできなかった。

みな守るべき家族がいる。

携帯が鳴る。

頼んでいた人からだ。

市長車が3時間以上、ばあちゃん家に止まっていて、家に入れないで困っていると。

隣の家、数件にかけてみる。そうだと言う。息子を呼び出してもらう。

「ばあちゃんも僕もお腹がすいた。市長がキッチンの椅子に座って動かないから、食べれない。ばあちゃん、着物も脱いで、カンプーも外したけど、髪が洗えないときつそうだよ。でもお母さんは来ないほうがいいと思う。なんかが気持ち悪いよ」

息子はタクシーで着払いするから帰宅するようにさせた。市街地まで3000円以上かかる。

もったいないから待つという息子を説得し、サポートしてくれる方に車が出たら、すぐに家に入ってばあちゃんの髪の洗い手伝いを頼む。祭司のための琉球カンプーは油で頭を固めるので、落とすのに一時間以上かかる。母は高齢で腰まである髪を処理するのに、手伝う必要があった。

その数日後、女性数名から呼び出しを受けた。仕事仲間からの四面楚歌はきつい。

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始まったパワハラ(2002年9月18日)

2002年9月16日、午前6時ごろ、県立八重山病院の帰り、割烹オーナー夫妻が経営する、海岸線沿いの、「ビハーラ」 傍を車で通る。

明かりが点いている。

階段を昇り、厨房にいた二人と会う。

椅子に三人で腰掛けて話す。私はザンバラ頭でそのままの姿にジャケットを着ていた。

オーナーは始終下を向いていた。

「私は、もうあなたがたとは何の縁もない。息子さんが介護長寿課に来ても、自分は退職の準備にかかる。自分も完璧な人間ではないし、愚かだからこんな目に遭っているんだと思う。自分はあなたたちにバチを与えたいとは思わない。だけど神様はおられるから、あとのことはわからない」

「市長が死ぬのか?」

オーナーが初めて顔をあげて私を見た。

もう一度、病院へ行ったかどうかがはっきり記憶に戻らない。カルテで確認することにする。

2002年、9月17日、公休日、翌18日、出勤する。

書類棚の所でいる時に部長が探しに来る。

9時過ぎ。

「市長室に行くぞ」

周囲の空気が変わる。

「体調悪いです」

「おまえも連れて来いと市長命令だ」

課長、課長補佐を見たが、タバコを吸いに外に出て行った。

部課長以外の職員が市長室に入ることはない。急ぎの決裁をもらいに入るので、秘書係長がそのスケジュールを元に、外来者との調整を図り、その間に急ぎの決裁の時など入れてもらう。

それほど、敷居は一般職員にとっては高い。またそこを易々と行き来されたら、秘書係長の仕事の支障どころか、市の行政じたいの秩序が成り立たない。

私は何度か部長に同行し入っているので、初めの頃は、実直な秘書係長は厳しい顔で見る。当然のことだ。

介護保険が立ち上げスタートという段で、行政と医療福祉、マネージメントの合体という未知のジャンル。行政の部のトップが医療福祉の説明補助として専門職の私を同行する、という意味合いで、秘書係長は、走っている事業の急ぎの決済との見解で理解を次第に示してはいた。

市長室に入った。

スーツ姿のN君が座っている。オーナー夫妻の息子だ。

応接室は、非常勤職員を紹介する場所ではない。

陳情者や表敬訪問など、市の公の応接室だ。

16日が蘇る。憤りというより、終わったと感じた。これで私の仕事場はなくなったと思った。

サラの下に置くと市長が言うが、部長は16日、誰よりも先に上手に逃げたので、一人市長の話を熱心に聞いている。

N君が認定担当の情報処理を担当するようになり、今までいた担当が外された。

部課長、補佐に、退職の意志を伝えた。

「俺らは知らない。自分のことは自分で解決してくれ。すぐに退職は無理。次を育てるまで責任を取るべきだ」

「おまえも息子さん、大学行かせたいだろう。俺らもみんな子どものためにできん我慢をする時もある。親は頑張らないと」

その日の会話はそれで流れる。

周囲から、いやがらせが少しづつ始まっていく。女性職員、組合の職員等から面と向かって罵倒されたり、一人だけ外されたり、同時期入職した看護師が組合に入会できたが、私は無視された。

サラが声をかければ市の職員になれると、勤務中、急に大声でわざと言い出す者もいた。愛人だからなんでもありって凄いね、と。

非常勤務の職員に、苦しくなって外勤の途中、16日のことを話した。

彼女は運転をしていたが落ち着かなくなり、しばらくして仕事を辞めた。

親友にも話せないと感じた。みなを巻き込む前に辞めようと決めた。

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黒真珠のできるまで

「サラの日記」 を読んでくださる皆様へ

多くの励まし感謝致します。

本日は短く書かせて頂きます。体調が戻り次第、詳細記事は続けます。

     *  *  *  *  *

私の故郷には黒真珠の養殖で有名な川平湾があります。

黒蝶貝を開き、肉片にメスを入れます。丸い核を入れるともう一度、貝を海底に戻します。

肉を切られた黒蝶貝は、傷を元に戻そうと懸命に細胞分裂を繰り返し、核を巻いていきます。

傷が治ると、黒蝶貝の仕事も終わり、生まれ出るのは、高貴な宝石、黒真珠です。

石垣島に住む全ての人に豊かさがゆきわたりますように。

南の合衆国ならではの特徴を活かし、優秀な人材が伸び伸びとその才を発揮できますように。

子供達が豊かな自然と、豊かな人材に守られ、これからも健全に育ちますように。

私の入れたメスの切り口が、本物の真珠を生み出すきっかけとなりますように。

切られた痛みがなくては、核を巻く、治ろうとする爆発的生命力は出てきにくい、そう思います。

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被害届けについて

サラの日記を読んで下さっている皆様へ

いつもサラの日記を読んで頂き、ありがとうございます。

多くのメールやコメントによる励ましを感謝致します。

先日のブログにて、告訴取り下げという題名にて記事を書いておりましたが、言葉や説明不足により、皆様に誤解を与えてしまったことをお詫び致します。

昨日、八重山署の担当刑事と話をし、被害届けについて、どのような状態になっているのかを確認しました。

サラの場合は被害届けの聴取が継続中のところ、サラの体調により聴取続行がギブアップとなったため、一時手続き中断であり、取り下げでも何でもないということです。

被害届け受理の準備段階であるため、体調が回復し、再開するということであれば、いつでも連絡くださいとのことでした。すぐに再開することは可能なようです。

サラの突然の大きな発作と入院は誰もが予想しなかったことでありますし、非常に苦しいことであります。

当初の考えをそのまま持ち続けて戦うというのは、今のサラの状態では無理です。

痛みがあるのは本人であって、私を含め他の方にはその痛みはわかりません。

サラは今後も回復と共に、自分で日記を更新していく意思は持っております。

はっきりしているのはそこだけです。

以前と同じ思いで、同じ状態でマスコミによる取材や、警察による聴取を再開することをお約束はできません。

誤った記述により、混乱を招いてしまったことをお詫び致します。

しかし、あくまでもサラの体調の回復が最優先ですので、本人による日記の書き込みが再開されるまで、回復を見守って頂けるとありがたいと思います。

(代理人)

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