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2009年11月10日

血液型なんて!


私は血液型診断とか、全然信じていないわけです。

まあね、こう書いてしまうと
まるで潤いのない人間に思われてしまうわけなんですけど、
だいたい、人間を4パターンで表しちゃう
という乱暴な論理に反発を感じるわけですね。

血液型について、科学的でないと切り捨てるつもりもありません。
統計学的にしっかりした調査も
私が知らないだけでなされているのかもしれませんし、
もしかしたら遠い将来に、そのそれぞれの血液型と、
付随する気質みたいなものの因果関係が実証されて、
例えば鬱病治療などに役立つ、なんて時代がくるのかもしれません。
しかしねぇ…。

よく振り返ってみると、
血液型診断そのものに反発心を持っているわけじゃないんですね。
それより、その「パターンに押し込めたがる人たち」
に閉口しているというほうが当たっているのかもしれません。

私はAB型なんですけれども、よくO型だろうと言われます。

よくない評判で言うと、比較的自信家の部分も垣間見えると言われます。
また負けず嫌いですし。
親分肌かと言われればそうではないのですけど。

また机は雑然としていまして、書類が常に行方不明。
他の人がわからなくても自分だけはわかっている、
というのならいいのですが、そうではない。
他人に整理されていても気づかなかったりします。

ブログ上では、理屈っぽくて整理と分類が大好き、
みたいに見えると思いますけれどもね。
それは結局「自分が好きなことに限って」そうなのです。

苦手な分野では全くダメです。機械にも強くないし。

しかし、そうやって黙っていれば
「AB型」ということを気づかせずにすんでいるのですが、
いざ分かってしまうと「やっぱりね~」と言う人の多いこと多いこと。
これが好きじゃないのですね(汗)。

そして、ちょっと変わったことをしたりすると「やっぱりAB型だな」
仕事でやってるのになんじゃそら。

ある場面でリーダー的な役割を担えば「やっぱり器用なAB型」
相談事にのってあげると「AB型は二枚舌だから気をつけろ」
おいおい、ケンカ売ってるのかい?

さらに。
このブログを読んでいる方はよくご存知のことですが、
私はウンチクばかり言いたがります。

うっとおしいヤツだというのは承知ですが。
もちろんそれに閉口する人もそりゃいます。

が、その注意の仕方が
「そういうのはAB型的じゃないから止めたほうがいい」なんですかそれは。
また私は会話の中で、結論をポンと言って
「なんとかなるさ(この言葉の頻度が私は高いらしい)」
と挟んで説明をすることが多いらしいのですが、それもAB型らしくないそうで。

ほっといてくれよ。何で型にはめられなくちゃいかんのだ。

と、その型にはめられたがらないのもAB型じゃないそうで。
だから私は型にはまるべきなんですと。うるせー。

こういうことが最近頻繁に起こったのです。
なのでちょっと愚痴を書こうかと。

それだけじゃ説得力に欠けるので、
「そんなの関係ねー」ということを証明するために、
最近ネットでよく見かけるサイトにアクセス。

あなたの血液型当てちゃいま~す♪

こういうのは普段やらないのですが今回はやってみましょう。
そんなに人間性を型通りに判断されてたまるものか。

えーと、項目が多いですね。まあいいか。
厳密だと考えれば。
ではポチポチと。

で、結果を表示をポチ。さすれば…



  「あなたの血液型はAB型ですか?」

  ( ̄△ ̄;)エッ・・?  当たっちゃったよ Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン

ここまで長々と書いてきた愚痴もなんの説得力もなくなっちゃいました。
うーむ…。
  


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2009年11月09日

ラグビーはお好き?


最近、ラグビーの話をしていない。

特に意識している訳ではないし、嫌いになった訳でもない。
むしろ、以前にも増して大好きになったくらいだ。

私は高校時代、ラグビー部に所属するも、椎間板ヘルニアで挫折。
1年間という短い選手生命だった。

それから、ラグビーを大嫌いになった。
係りたくなかった。

社会人になって結婚し、子供を授かった。

サッカー少年だった長男は、
奇しくも、私が大嫌いになったラグビーに出会った。

中学生になり、長男はラグビーに本格的にのめり込むようになった。
それでも、私はラグビーを好きになれていなかった。

彼が2年生になって静岡の県選抜に選ばれた。

正直驚いた。
なぜ?

初めて、彼のプレーを見に行った時の事は、今でも忘れない。
全身鳥肌が立って、泣きそうになった。

「オレは、ラグビーが嫌いじゃなかったのか?」

彼のお陰でラグビーにのめり込むようになる。

彼が中学3年生の時、静岡選抜が東海ブロックで優勝した。
初めての全国。

初めての花園。

益々私はラグビーの魅力に取り付かれていった。

今年、彼は高校生になった。

浜松工業高校
静岡ラグビーの古豪だ。

いい先輩、いい指導者に巡り会う事ができた。
また、新しい出会いをさせてくれた。

先輩とレギャラー争いもさせて頂けるようになった。

そして昨日、浜工の全国高校ラグビーが始まった。

ピッチの上に立つ彼の背中には「1」がついている。
人目をはばからず泣きそうになる。

ラグビーでは、背番号でポジションが決められている。

1番から15番までの背番号を選手たちは争うのである。
相手チームと戦う前に、チーム内で戦いが行われる。

1年生がこの背番号を手にする意味をご理解して頂きたい。

初戦は勝利する事ができた。準決勝へコマを進める。

そして、浜工の花園への挑戦が始まった。





  


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2009年11月06日

冬が始まるよ


街を歩いていましたら、もうクリスマスソングが流れていましたよ。
まだ11月だと言うのに。
1ヶ月以上前ですよ?
なんでそう人は生き急ぐのか。

聴こえていたのはWHAM!の「ラストクリスマス」です。

確かに急に寒くなりました。
今年は猛暑で、その残暑がずっと続いたこともあって、
もしかしたら秋が来ないのじゃないかと勘ぐったこともありました。
その予想は見事に当たったようです。

夏が終わったら間伐入れずに冬がやってきました。

今年はよく考えたら、
プライベートではいわゆる「秋物」の服を着ることなく終わりました。
公的には否応無く「衣替え」などと言われて暑くても
秋物を着たり涼しくても夏服になったりしますが、
普段の生活では自然に順じて、暑くなったら脱ぐ、寒くなったら着る、
と感覚で着替えをします。

外向けよりも家にいる時の服には、少なくとも秋は無かった。
端的なのは寝具で、ついこのあいだまでTシャツを着て寝ていたのに
今は冬もののパジャマです。中間のものを着なかった。

しかしクリスマスはまだ早いんじゃないのか。

ただでさえ忙しい日々の中で、現場はそれでも急かされているのに
「もう今年も終わりだ」なんてことを言われたら狂いそうになります。
しかし現実は、遊園地ではツリーが立ち、年賀状が発売され、
年末ムードを煽ります。
確かに雪の積もったところもあるようですが、
私の住んでいるところではやっと紅葉が平地に降りてきたところですよ。

こちらとしては、「そんなに焦らなくてもいいよ」と言って欲しいのです。
まだ時間はあるさ。
そう思わないとしんどいじゃないですか。
なのに、世間は厳しい。

昔は、年末の雰囲気が好きだったもんです。
正月にお年玉を貰える、とかそういうことではなくて、
なんとも言われぬ歳末の雰囲気、
人々が祭を控えて足早にゆくその感じが好きだったのです。
いや、今も正月が嫌いというわけではないですよ。
ただ、そこにたどり着くまでの道程が厳しい。
追い立てられるその風情が。

今の気分は、もちろんワムではなくて小室等の「寒い冬」が私には相応しい。  

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2009年11月05日

映画の邦題の噺


水野晴郎さんが昨年、亡くなられました。
享年76歳。

この方は日本ユナイト映画の宣伝総支配人も勤められ、
戦後の洋画普及に尽力された方ですが、
私が水野さんを認識したのは
もちろん「水曜ロードショー(後に金曜ロードショー)」の解説者としてです。

「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」

の台詞は淀川長治さんの「サヨナラ・サヨナラ・サヨナラ」と並んで
極めつけの名文句と言うべきで、
毎回番組の最後に万感の思いを込めてこの言葉をおっしゃるとき、
ああこの人は映画を本当に愛しているのだなとの実感が湧いたものです。
この映画解説は四半世紀にわたって続きました。
ある程度の年齢以上であれば、知らない人はいないはずです。

私が訃報を聞いたとき、非常にショックを受けました。
何故かというのは、最近よく思うことなのですが、
日本における横文字の溢れっぷりに呆れていました。

その中の一つに「洋画が原題をそのままカタカナにして公開する」
こともそうじゃないかと思うのです。
それについて無性に書きたいなぁ、と常々思っていたのです。

洋画の邦題というのは、配給会社の宣伝担当者がつける場合が多い、
と聞いていましたので、今は映画宣伝業界に水野晴郎がいないから
邦題を付けずに原題をそのままカタカナで出しちゃうんじゃないか、
という屁理屈を思いつき、それを柱にひと記事書こうかなと思っていました。

で、家に帰ってきて水野さん死去のことを知りました。
愕然としました。
巡り合わせと言いますか、ちょうど氏のことを書こうと思っていたのに。  

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2009年11月04日

燗酒がいいね


本格的に寒くなってきた。

私は暑い夏が大好きだけれども、何故暑い夏が好きかというと
「服をたくさん着なくてもいい」ということに尽きるのであって
ズボラ以外に理由がない。
 
寒い冬は重ね着が面倒なので困るのだが、
冬のいいところは「食べ物が美味くなる」ことだろう。

鍋物が恋しくなり、魚に脂が乗り、
そしてなにより私の好きな「燗酒」のシーズン到来
という素晴らしい季節でもあるのだ。
重ね着くらいで冬を嫌ってはいけない。

燗酒。しかし私は冬でなくても燗酒をよく呑む。

居酒屋では一年中燗酒だ。
ひとつには「手酌」という行為が好きだということがある。

杯、もしくはぐい呑みに徳利を傾けて注ぐ楽しさ。
ままごとの世界かもしれないがこれって酒呑みの一つの愉悦ではないかと思う。
私だけかな。
 
尚、手酌は好きだが人から酌をされるのは、さほど好きではない。
ペースというものもあるし、宴席では無理に注ごうとする輩も多いので困る。

「まー呑め」「ささぐーっと」みんな相手を酔わせたいと思っているのだな。
酒くらい自由に呑ませなさいよ。
文士の手酌という言葉を知らないな(しかし妙齢の女性に酌される場合はこれを除く)。
 
まあ酌をしないと「失礼なヤツ」と思うおっちゃんも多いのでしょうがないけど。
酌をされることで上下関係を確認しようとする、
この日本の文化はなんとかならんかな。
しかし私も仕事で呑まねばならないときは、この日本文化に倣って酌を繰り返す。
激しく自己嫌悪に陥りますです。。。

話がそれたが、燗酒。
日本の基本的アルコールである日本酒という飲み物は昔から温めて供する。

世界的にも珍しいのではないかな。
類似のものに中国の老酒がある。
あれも温めることが多いが、本場中国ではどうなんだろう?
ちゃんと調べてないのではっきり言えないのだが、
老酒を燗するのは日本発祥なのだと聞いたことがある。

どうなのか調べないと。

さらに、氷砂糖を入れて呑む場合も多いが、
あれは本場ではやらないのではないか。
 
日本酒を何故燗するようになったのかには諸説あるようだが、
よく「酒に含まれるフーゼル油を飛ばすため」
というのが定説化しているように思う。

フーゼル油とは杉に含まれる油脂で、防腐効果があると言われる。
なので酒は古来より杉樽に入れられた。
樽酒の香り、というのはこのフーゼル油の香りであることが多い。
「多い」と書いたのはフーゼル油は米にも含まれ発酵段階で生じるとも言われるため
一概に杉=フーゼル油とも言えない。

これはいい香りなのだが頭痛を誘発すると言われ、それを揮発させるために温める
というのが一般的に言われている。
 
しかしこれは俗説であるらしい。
というのは、フーゼル油の沸点は100℃を軽く超えていて、
揮発させようと熱しても飛ばない。

それより先にアルコールも水分も沸点を超えるので俗説だ、というわけ。
冷酒より燗のほうが悪酔いしにくいと言われるのはフーゼル油のせいではなく、
冷やは口当たりがよいのでつい呑み過ぎてしまう、というのが原因ではなかろうか。

じゃあ、何故日本酒は温めて呑むのだろう。
 
燗酒の起源は平安時代に遡るとも言われる。
孫引きで申し訳ないが、ものの本によると
藤原冬嗣(勧学院を建てた人ですな)が、寒い秋の行幸時に当時の嵯峨天皇に
温めた酒を献上して暖をとってもらい、大いに面目を施したとか。
それから始まったとされる。

左大臣冬嗣がそういうアイディアを出したとは驚きだが、
冬嗣は風流人であったのでこの話は面白い。
しかしこれは文献上の初出で、それより以前からあったかもしれない。
結局起源の決め手はないのだ。
 
一般的に燗酒が普及したのは江戸時代から、と言われる。
そもそも酒自体が庶民に普及するのは
大量生産が可能になった室町時代以降であろうし
ちょいと燗でもつけて…などと言えるようになるのは
そりゃ平安時代からずいぶん時を経なければならなかっただろう。
 
しかし、これでは燗酒が普及した説明にはなっていない。
フーゼル油が関係ないとすれば、ただ寒かったから温めた
だけが理由なのだろうか。
 
やっぱり私は、
「温めて呑んだら旨かった」から普及したのだろうと単純に考えたい。
実際に燗酒は旨いのだ。特に寒い季節は。

呑んで暖まろう、という場合、燗酒は即効性がある。
温かいと胃から早く浸透する、という説もある。
冷たい酒であると吸収に時間がかかり、ようやく身体が暖まった頃には酩酊、
ということもある。

冷やは後から来る、冷やは悪酔いする、とはよく言ったものだ。
 
それに、冷やはのど越しはいいが、
酒の味わいとなると温かい方が増すような気がする。
香りも立つ。やはり旨いから普及したのだろう。
こういう文化を持つ日本人でよかった、としみじみ思う。

ところで、困ったことに、居酒屋で燗酒を頼むと、
「はーい、熱燗いっちょお♪」と注文を通されることが多い。

おいおい、ワシは熱燗は頼んでないぞ、燗酒と言っておるだろうに!
 
この昨今の燗酒=熱燗、という図式には本当に困る。
日本には「人肌」と言ういかにも艶めかしい表現もあるのに。
なんでもかんでも熱燗では困るのだ。

この話をすると長くなるので、また次の機会にしたい。
うーん。  


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2009年11月02日

甚だ、僭越では御座いますが。。。


 「君の瞳に乾杯」

格好いい台詞だ。
これはご存知のとおり映画「カサブランカ」で
イングリッド・バークマンの瞳を見つめながらハンフリー・ボガードが言う。
こんなキザな台詞もボギーになら似合う。

あの映画はモノクロで、しかもアップの場面では紗が掛かったりもしたから、
ただでさえ美人のイングリッド・バークマンの瞳はキラキラと輝く。
こんな女性の瞳になら思わず乾杯をしたくなるのはボギーだけではないだろう。
 
ただ、こんな台詞はキザすぎて実生活では使えない。

乾杯というのは、こんなふうに女性を口説く場合にも使えるけれども、
たいていは宴会の始まりの合図みたいなものである。
「かんぱーい!」と誰かが発声してそれから呑み始める。
この合図は本来愉しいもののはずである。
このあとは呑めるのだ。

乾杯の言葉を聞くとパブロフの犬のように条件反射で頭が酒一色…
というのが理想である。しかしねぇ…。

ちょっとかしこまった席などでは「乾杯の挨拶」
などというものが入ったりする。

あれっていったいなんだろう?

グラスに酒がゆき渡ったのをとにかく確認し
「みんなグラスを持ったか?」などと言うヤツもいて、
そしておもむろに「えー本日はお日柄も宜しく…」と始まる。

お日柄がよろしいのはもうよくわかっているよ。

「ただいまご紹介にあずかりました~」結婚式とかじゃないんだよ。

「今日の会議は誠に充実したものでしたが、
中には積極的に案件を提出しない人もいて…」おいおい、
訓示どころか説教始めちゃったよ。あーあこれは長くなるな。
 
かくして、ビールのグラスを持つ手が疲れ、ビールは温まり泡が消え去り、
ほとほとイヤになった頃にようやく「乾杯!」と言う。
なんでこんな儀式をやらなくちゃいけないんだよ。
注いだら呑めばいいじゃん。

酒の席で訓示とは困りものだが、
どうしても訓示がしたければ酒を注ぐ前にやってよ。

どうしてこんな「乾杯」が横行するようになっちゃったのだろう。
 
そもそも乾杯の起源というものは、ものの本によると
たいていは欧米由来ということになっている。
江戸末期に黒船が来て
諸外国と付き合いをせねばならなくなった事から始まったと。
 
どこでも言われることは、日英和親条約締結時の井上信濃守清直のこと。
英国全権大使エルギン伯爵が交渉終了後の晩餐において、
英国はこうした時に杯を交わす習慣があると持ちかけ、
それに対して外国通の井上が「乾杯」と発声したと言われる。
これが日本での乾杯の始まり。
 
そもそも中国でも「乾杯(発音はカンペー)」があり、
それを知っていて井上は「カンパイ」と言ったのかもしれず、
必ずしも欧米から渡った風習であるとは判断出来ないような気もするのだがなあ。
 
それに、それまで日本に杯を交わす習慣が全くなかったわけではないだろう。
すぐに思い浮かぶのは「水杯」である。
ありゃ別れの杯だけど、戦勝祈願なんてのもあったはず。
かわらけに酒を注いで立ったまま呑んでそれを割る、
なんてのはあった。あれって一種の乾杯だな。
 
ということは、おそらく世界的に行われていたことなのだろう。
なんでも欧米に起源を求めればいいというものではないだろう。

では、グラスを合わせるという習慣はどうか。
これはやっぱり欧米かも知れない。
というより宗教絡みか。
 
酒には悪魔がいて、
グラスをチンと合わせることによって悪魔をビックリさせて追い出す。
しかる後に呑む、ということ。

酒には悪魔が確かに存しているかもしれないけれども、まあ迷信の類か。
グラスをチンといわせたくらいで酒の悪魔は逃げてはいかないって。
 
それはともかく、日本ではこのグラスにチンを形だけ踏襲した。
それはそれでかまわない。
ただ、この習慣って結構面倒だったりするのだ。
 
その宴席に10人いたとして、
その10人全員にグラスを合わせないと気がすまない人が必ず一人くらいはいる。
向かい側の人とも隣の隣の人ともグラスを合わせようとする。
その人は全員とグラスを合わせないと失礼だ
と思ってやっているのかもしれないが、
手を伸ばしてあの人ともこの人とも合わせないと…とやっている。
席を立って遠い場所の人とまでグラスを合わせる。
時間がかかってしょうがない。
一度チンといわせれば
悪魔は逃げていくのだから隣の人とだけでいいじゃないか。

早く呑ませてくださいよ。
 
ワイングラスでもこの乾杯をやろうとする人がいる。
薄手の上等のワイングラスだと、
「チン」というより「こおぉぉん」という音がして、
なんだか割れちゃいそうな怖さがある。
もう、グラスを目の高さに上げるくらいで済ませて欲しい。
いちいちグラスをぶつけていると本当に割れてしまうぞ。

ということで、だんだん「乾杯」という行為がうっとおしくなってくる。
酒を呑みだす合図としてだけとらえてくれないものか。
儀式化すると面倒だよ。

でも、頑なに「グラスは全員と合わせるもの」
ということを信じてやっている人がいるので無下に否定もできない。
悪魔の話なんてしたら酒席でヤボだからなあ。
 
さらに「乾杯」という言葉を言葉どおりとらえて、
「乾杯したのなら飲み干さなくちゃ」という御仁も必ずいる。
これも困りものである。
 
「ささぐーっといけ。」確かに乾杯の意味はそうだよ。
杯を乾かす(一滴残らず飲み干す)ってこと。
しかしこれも、昔、酒の中に毒が混ざってないかどうかの確認のために
主催者が飲み干し、しかる後に客側が飲む、ということに由来するもので、
今じゃ毒殺なんて考えられないし、酒は店が用意するもので、
主催者がディキャンタに移し変えてそれを振舞う
なんてことはめったにあるわけじゃなし。
 
それに、主催者が飲み干せばいいことで
他の人は別にイッキ呑みしなくてもいいはず。
 
また中国などの乾杯は、確かにイッキ呑みして杯の底を見せる、
という風習もあるけれども、たいていは蒸留酒だから小さなグラスだし、
その風習を日本の宴席始めの乾杯に持ち込まなくてもいいのではないだろうか。
 
日本にも「杯を干す」という習慣はある。
「お流れ頂戴」というやつなどはそうだろう。
ひとつの杯を共有することによって連帯感を生む。
なので杯の酒を飲み干し、盃洗で洗って相手に渡し、そしてご返杯。
この「献杯・返杯」という習慣は確かにあるが、
これは「乾杯」とはまた別のことだろう。
そこらへんを混同している。

高知の天狗杯
(天狗の面の形をした杯で、安定しないので飲み干さないと置けない)や、
宮古島のおとーり
(ひとつのグラスで宴席に参加したひとが順番に呑むやりかた。
飲み干さないと次の人にグラスを渡せない)
などの習慣と、宴席の最初に行う「乾杯」とは違うのだ。

私個人的には「乾杯!」という言葉は好きだ。
さあこれから酒を呑もう、みんなで「お疲れさん」という意味を込めて
酒を酌み交わそうという合図として。
 
なので「乾杯」は酒への感謝の意味を込めたい。
酒を醸してくれた杜氏さんに、
そして酒の神である松尾様はじめ八百万の神に、またバッカスに。
こんなに素敵な飲み物を僕たちに与えてくれて有難う、という気持ちで。
 
だから、私は一人でも乾杯する。
酒で満ちたグラスを軽くさしあげる。
今日の辛かったことは忘れよう。
そしてこの目の前の酒に委ねさせてもらおう。

クドクド話は不要だ。呑もうじゃないか。
 
私にとっての乾杯はこんな感じである。
なので、まだ「乾杯」を口説きに使ったことはない。

ボギーなみのカッコよさが欲しいなあ。  


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2009年11月01日

老け顔なんですがね。


いつものように、インターネットを彷徨っていますと
こんな記事を発見しました。なるほどなーと。

**********************************
オイラは必ずと言っていいほど若く見られる。
こないだも「学生さんですか?」って言われた。
似顔絵描いてると未だに言われる…
これけっこーうらやましがられること多いと思うけど、
オイラと同じように、実年齢より若く見られる人に聞いてみたら、
もしかしたら困っていることが
  いろいろあるかも知れないなって思った。
**********************************

いやーそうなのか。
私なんかは無条件に「若く見られた方がいい」と思っていた人間ですから。

しかし考えてみると、
どっちがトクなのかは結論の出ない問題なんでしょうね。

でも、「隣の芝生は青く見える」ではないですが、
人間ってーやつは無いものねだりの生き物です。
やっぱり私には羨ましい。
私はずっと老け顔だったのですよ。
これでトクしたことなんて今まで無かったような。
小学生の時のあだなのひとつが「オッサン」でしたからねぇ(涙)。

そのまま老け顔で推移し、中学生のときは大学生に間違われ、
社会人になっても新入社員らしいフレッシュさが全く無く、
何か不都合が起きても「まあいいか、若いんだから」
ではなかなか済まされません。

これ、私の年齢が認知されている場所
(例えば所属する会社)などではいいんです。

一歩外に出れば必要以上に対応を迫られてしまいます。
そんなの経験不足でまだ知りません、私の一存では判断しかねます、
ではなかなか許されません。
名刺に年齢を刷り込みたくなりましたよ。

まあしかしこんなの社会人なんだもの甘えるな、とも言えるでしょう。
例えキャリアが浅くても
責任を持って事に当たらねばならないのは当然のことと言えば当然です。

しかしながら、同期に童顔の男が居たんですが、
彼の外での評判は「若いのに頑張ってるなあ」なんですよ。
ヤツもそれが分かっていて武器にしていました。
うまく「甘え」て、泣きのひとつも入れて
同情をかったりして商談をまとめてくる。

私も一度でいいから「若いのに頑張ってるなぁ」
と言われたかったもんです。

でもその童顔の彼に言わせると、「なめられることが多い」のだそうで。
なるほどねぇ。

前出の記事にも書いてありますが
「頼りなく見られる」ことの弊害ってあるんでしょうね。
「苦労が顔に滲み出た方がいいんだよ」とも。

ですけど、私なんかに言わせれば
「頼りなく見られ」た方がいい場合もあるんですよ。

私は本質的に実に頼りない人間なんですが、
老け顔のせいでどうも過大評価されがち。
「あんたもっと頼りになると思ってたのに…」この一言はキキますよ(笑)。
落差が大きいわけで。
外見で評価すんなよ、と思わず愚痴をいいたくなりましたわ。若い頃は。

ですけれども、童顔がトク、とは一概には言い切れないわけでして。

ちょっと思い出したんですけど、先日こんなことがありましたね。  

続きを読む【老け顔なんですがね。】

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2009年10月30日

クライマックスシリーズってどうでしょう


昨今プロ野球を観ることがほとんどなくなりました。

今シーズンはもちろん球場にも行っていませんし、
TV中継さえ数えるほどしか観ませんでした。

時間がない、というのもそりゃありますよ。
限られた娯楽の時間の中、スポーツ観戦に振り分ける時間というのは少ない。

その中で優先順位はと言えばまずラグビー。めったにないですがね。
次いで格闘技関係。同率2位でサッカー。これは代表戦も含みます。
それであとはバレーボールとか陸上やフィギュアのイベントがあれば観ます。

野球は…と言えばほとんど観ていない。
例年であれば、晩酌時によくナイターを観ながらビール、
というパターンがあったのですがそれも最近はほとんどありませんでした。

スポーツニュースはチェックしますよ。贔屓のチームだってありますから。
しかし実際はリアルタイムで観ていない。
TV中継が激減したというのは関係ないですね。

これは、いろいろな原因があるのですが、
ひとつにはクライマックスシリーズなるものが登場して、
ペナントレースが3位争いというところになっちゃった
というのも興味を削ぐ一因になったのではないか。
そんなふうにも思えるのです。

あくまで私にとって、ですが。

もちろん、パリーグには何年か前から「プレーオフ」があります。
しかし、申し訳ないのですが私は野球の視聴はセリーグが主体でした。
なので「対岸の火事」状態であんまりマトモに考えてこなかったのです。

パリーグ首位チームファンからしてみれば
「やってられない」状況だったのではないかと拝察します。
シーズン勝率一位でも優勝できないわけですから
「なんのためのペナントレースか」でしょう。

いや既にペナントレースではなく
ペナントを争うための資格権取得シーズンであるわけです。
予選だな。

クライマックスシリーズがあるということは、
そりゃ冷静に考えてみれば
プロ野球を盛り上げるのにはいいことであると言えます。

リーグ6球団のうち半分が
日本シリーズに出られるチャンスを得られるというわけですから
当然1/6より3/6の方がファンにとっては終盤まで楽しめる。

そしてクライマックスシリーズというのは短期決戦です。
日本人は(日本人に限らないかもですが)短期決戦が好きだ。
もう後がない、と目を吊り上げて戦う姿を見るのが好きです。
WBCしかり。高校野球もしかり。

しかしながら、私などは実に理屈っぽい性格であるからして、
シーズン初めになんだか興味を削がれてしまったのですね。

もちろんペナントレースの意義を台無しにする、
ということを理屈だけで考えちゃったからで、素直でなかったとも言えます。
そもそも、
他のスポーツでこういうシステムでやっているところってないですよね。

柔道の敗者復活戦が近いのでは、と一瞬考えましたがやっぱり違う。
まだ昔のパリーグの前期後期(Jリーグの第1、第2ステージ)の方がしっくりとくる。

私はやっぱり理屈で考えすぎちゃう愚か者ですが、
そもそもクライマックスシリーズの意義と言いますか、
位置付けがはっきりとわからない。
盛り上げるためという興行的視点はとりあえず措いて、です。

まず、クライマックスシリーズとプレーオフでは異なった点があります。

以前はプレーオフで勝ったチームがリーグ優勝。
対して今回は通常シリーズの勝者が優勝でクライマックスシリーズは別物扱いです。
これがややこしい。

なので数年前、読売Gは優勝したものの、
日本シリーズに出られないという齟齬が出てくるわけです。

結局、準備不足であり理論的裏づけが出来ていないのですよねぇ。

私は野球は実は「記録」ファンでもあるのです。
個人タイトルも大好き。
だから、今まででもシーズンの日数に変化がみられると
それだけでイヤになっちゃうのです。

ホームランのシーズン記録が55本で
王とローズ、カブレラが持っているとしてそれは140試合、
ところがバースの54本は130試合です。
ラミレスが今年203安打放ったのですが(144試合)、
それは凄い事ながらイチローは130試合で210安打。

なんだかなぁとどうしても思います。そういう狭量なところがある。

ましてやプロ野球最大の興味の焦点である「リーグ優勝」に
曖昧な定義がなされてしまったことについて、強い不満を感じるのです。

以前のパでは、プレーオフで勝ったチームがリーグ優勝でしたが
クライマックスシリーズはそうじゃない。
あくまでシーズンの優勝がリーグ優勝。

それじゃ日本シリーズが真の日本一を決める戦いにはならないじゃないですか。

そしてリーグ優勝についての重みがあまり考慮されていない。
これは結局試行錯誤の途中であるからです。

プレーオフではアドバンテージが設定されていましたが、
クライマックスシリーズでも当初アドバンテージを与えるかどうかで検討され、
結局読売Gが反対してアドバンテージ無しで行われたという経緯があります。
読売は自分で自分の首を絞めたわけでこれはこれで痛快とも言えますが。
(細かく言えば、ホームで試合をする等のアドバンテージはあるのですが、
細かすぎるので言及しません)

確かにプレーオフというのは盛り上がったものの
実に釈然としない方式でした。

アドバンテージ争いというものも、5ゲーム差離せば1勝分が翌年は無条件で1勝、
となったりして安定していませんでした。まだ試行錯誤状態だったのです。
それを、盛り上がるからと言って、
またセリーグは短期決戦慣れしてないからパリーグに負けるのだ、
などと難癖をつけて検討不十分のままマネして
こういうことをしようとする御仁がいる。

しかも、パリーグがその試行錯誤の末導入した1勝アドバンテージですら
鶴の一声でひっくり返す御仁がいる。

これで自分の首を絞めたのですから阿呆ですが。

プロスポーツというものは間違いなく興行である、
というのは私は常々思っていることです。

だから、自分たちが勝利する満足感よりも
お客に魅せて満足感を与えなければならないものである、と思っています。

という意味では、クライマックスシリーズは興行成績に寄与してはいるものの、
方式にただ頼っているだけであり抜本的に興行の質を上げる、
ということには至っていないのではないのでしょうか。

こんなの目先を変えただけのようにしか思えないのですけれどもねぇ。
いつまで続くことやら。

パリーグは興行成績が伸びているらしいですね。
これってやっぱり地域密着が功を奏しているのではないのでしょうか。
札幌、仙台、福岡と。

千葉のロッテは、交流戦による観客の増減が考えたほどでもなく、
特に交流戦で読売Gとやることのメリットが見出せないから別にやんなくてもいい、
と言ったそうな。

痛快ですねこういうセリフは。

「読売が勝たないと野球が盛り上がらない。」
というようなことを、まだ言っている方々に叩きつけてやれば面白いのに、
と思ったりもします。   


>>小さなことから始めよう

2009年10月29日

たまには電車もいいものだ。


久しぶりに電車に乗りました。

平日の昼間だったのですが
車内は程よく混んでいて、私も丁度座れたくらいでした。

次の駅に差し掛かった時のお話です。


70歳台と思われるご婦人が、
大き目の袋を持って、
私の斜め向かいの席の前に乗車して来ました。

座席が埋まっていました。

その時、私の向かい側のサラリーマンと思しき若い男性が、
すばやく立って、その婦人に声をかけ、席を譲りました。

少し足が悪いように感じました。
婦人は恐縮しつつも、大変喜んで座りました。

私が感動したのは、この後です。

その男性は重そうな鞄を持っていました。
大き目の袋を持っていたにもかかわらず、
婦人はすかさず

  「その鞄を持ちます」

といって、膝の上にのせ、その上に袋をのせたのです。
男性も最初は、

  「いいです、すぐですから」

と言ってましたが、
婦人が、

  「席譲ってもらっただけでありがたいんだから、
   鞄ぐらい持ちますよ」

と何度も言って持ったのです。
この後、男性は降りるとき丁寧にお礼を言って、
降りていったのです。

もちろん婦人もお礼を言っていました。
何ともほのぼのとした空気が流れました。

譲った人も譲られた人も、
周りも本当にスカッとした出来事でした。

私も見習わなければ。 ね。  


>>小さなことから始めよう

2009年10月28日

晩酌する訳


いきなり日常の話になる。

私は家で食事をする場合、必ずと言ってもいいくらい晩酌をする。
それには理由がある。
 
生まれてこのかた、私はずっと大食漢であった。
母親が「家畜を飼っているようなものだ」とよく言って嘆いた。
家計を圧迫するほど食べていたのだろう。
飯を必ず5杯食べていた。
確かにウシやウマと変わらなかったかもしれない(汗)。

なので小学生の一時期、かなり肥満した。
体育の成績が落ちた。
走るのもフウフウ言っていたのでしょうがないだろう。

小学生も高学年になったとき、
私は逆上がりが出来なくなったことに気がついた。
これはかなりショックだった。
子供ながらに悩み、「痩せなくては」と固く心に誓った。
 
中学生となって、私は部活動に力を入れた。
入ったクラブは「バレー部」。 
バレー部は同学年のヤローどもに人気で100名近い入部者が居た。

コートに入る人間がそんなに多くては練習にならない。
なので、先輩たちは人数を絞りにかかった。
つまり「シゴキ」という手段にでたのである。
 
これは厳しかった。
とにかく走り、腹筋や腕立て伏せなどばかりやらされた。
ボールなど持てない。
そのせいで夏には部員は12~3名になった。

幸いにして私は生き残り、その時点で私はシゴキにより痩せて、
筋肉質の身体を持てるようになった。

肥満児からの脱却に成功したのである。

全然晩酌の理由にまで話がいかないので端折るが、
肥満児でなくなっても私はやっぱり「ご飯好き」は直らなかった。

運動をしていた頃はよかったのだが、
いったんそれを止めるとまた太り出してしまう。
 
一度肥満を経験すると
「脂肪拡大因子」が体細胞に出来てしまうとも聞いたことがある。
太りやすい身体になっちゃったらしい。

なので、社会人になって忙しさで
全く運動というものをしなくなってしまって、
私はまた太り出してしまった。

これではいかん、
と思い出した頃、私は「ご飯の量を減らす」方法を思いついた。
 
性格というか習慣というか、私はおかずが何品か並ぶと
必ずそれとともにご飯を大量に食べてしまう。

「おかずだけ食べることが出来ない」人間なのだ。

しかし、酒を呑むとそれらのおかずは「酒の肴」になり、
ご飯を食べずに済む。

そうして私は合理的に(?)ご飯の摂取量を減らすため、
酒をやむなく、本当にしょうがなく呑み始めたのであった。

これが、晩酌の理由である。

さて、夕食時に呑む酒は料理に合わせるので決まっているわけではない。
まあたいていは日本酒、焼酎、ビール(発泡酒)のうちのどれかなのだが。
家ではかしこまって食べない関係上、和食中華エスニック系が多いので、
ワインは滅多に呑むことはない。
 
夕食時、疲れていたり、
または好きな肴があったときは酩酊してしまうこともあるが
たいていは「ほろ酔い」程度である。
そうしてTVを見たりビデオを見たりして過ごし、
夜も更けた頃に楽しい「PCタイム」となる。

かつてはこの時間はずっと本を読んで過ごしていたが、
今はネットサーフィンをしたり、こうしてブログを書いたりしている。

寝る前の小一時間、私にとっては「至福のとき」だ。
 
その頃は晩酌の酒も醒め加減なので、また呑みだしたりする。
このときはウイスキーやブランデーなどのスピリッツ系が多い。

家具の配置にも問題があって、
PCの隣にはサイドボードがあっていつも酒が何本か並んでいる。
どうしても手にとってしまうのだ。

この一杯は美味い。
好きなことをしながら呑むという行為が
こんなにも美味いものだとは子供の頃にはわからなかった(当たり前ですが)。
 
私は読むことも好きだが書くことも更に好きで、
文章の語尾を「である」にするか「だった」にするか、
といった実につまらないことで苦吟しながら呑む酒の美味さについては、
おそらく誰も理解してはくれまい。
 
昨今とくにブログの文章が延びてきた。
以前は「簡潔に書かにゃいかん」と抑えたこともあったが、
現在は野放し状態である。

ブログが公開を前提としているもので、
多くの人がコミュニケーションツールとして活用しているのは知っているが
私は滅多にトラバとかしないしブログ同士の交流も少ない。

ただひたすら「書く」ために活用している。

そりゃ読んでいただける人がいるに越した事はないが、
こっちから働きかけて「読んでくれ!」と叫ばない限りは
ブログの数が 何千ナン百万とか言われている現状では無理。

それに迎合して書くのもつまんないので現状に満足している。

「公開していればいつか誰かが読んでくれるかもしれない」
と思うだけで結構ワクワクするしねぇ。
 
こんな状態なので、
自分が書いていて「酒が美味くなる話」を中心に記事はアップしている。
それは何かと言うと「思い出話」であって、楽しかった旅の追憶や
凄かったバックドロップなどをアタマに思い浮かべながら呑んでいると実に精神衛生上いい。
書き終えたときはアタマから昼間の現実という毒素はすっかり抜けている。

今日もこうしてヨタ話を書きながらの喜んでいるわけで。
タグを打たなくてすむブログとはありがたいツールだ。

呑みすぎによる肥満だけには気を遣いつつ…。
  


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