質問

質問者:wolf2419 気が狂いそうな毎日です
困り度:
  • 暇なときにでも
私は3年前に脳梗塞で倒れました。何とか退院したものの、左半身に麻痺が残り、絶望的な日常に塞ぎ込んでおりました。病の根源は[11年前に発症した糖尿病]です。合併症をいくつも併発したのですが、中でも深刻なものは"うつ病"です。自殺未遂というか、突発的に何度かそういうことを決行し、車を全損したりしては幸運にも病院に収容させられました。今でもうつの症状はひどく、都合十年の今も薬を飲用し続けております。
 話を戻します。三年前に脳梗塞を発症したときには脳に異常なことが起きていることが理解できました。[あーっ、これでやっと楽に慣れるんだな]とは思いましたが、信じられないことと重なっていることに気がついたのです。大阪の某医療学園への入校日だったのに気付いたのです。其れもヘルパーさんの資格受給の為なのですから。またアパートも引越しの片づけ中でして、入校を果たしたらT市へ移転の段取りとなっていました。まったく運命は数奇です。断じて嘘はかけないし書きませんが、今改めて当時を振り返っても、信じられないほどです。
現実は、小説よりも奇なりです。
 これからがまたまた信じられない展開となっていきますが、私を信じられない方はもうここらでブログを閉じてください。
倒れて病院の必死の手当の甲斐あり、退院はしたものの、私の心はうつろでした。どうしても生活手段というよりも、障害を乗り越えていくだけの目標がないから、辛かったです。仕事は首に近い形で退かされるし、介護の会社はだめになっ他。また唯一頼った兄姉は、金銭の支援を求められるのではと心配したのか[もう電話はかけてくるな!]母代わりの姉からも「かわいそうバッテンカ。電話してもロウテン、何もして上げられることはなかっ。とにかくがんばるコッタイ]其れまでも兄弟達に頼ったことは何もなく、自力で生きてきました。ただ話をしたかっただけなのに・・・希望はますます潰え、胸が張り裂けそうでしたね。
 バス停へ麻痺した体を引き摺る様にたどり着き、役所の福祉課に相談できことだけは本当に救われました。しかし、わが人生最大の危機が、そこまで近づいてきているとは考えもつかなかったのです。
役所のすばやい認定も済んで、何とか自分を立ち直らせるべく[さらに間が悪いことに、五十肩が合併して激痛にさいなまれ始めたのです。左の手足は感覚がなく、まるでコンニャクのようです。]<肩間接周囲炎は強烈で、いかようにも我慢が出来なく、横滑りで専門科のある別の病院に入院することとなりました。二重にも三重にもいったい何が降りかかってきたのか?何よりも頻繁にせりあがってくるような激痛とは向き合わなければどうしようもありませんでしたから。無我夢中でした>
とりあえず20日ほどで、大きな激痛は少し治まってきましたが、同室の患者さんの中に日夜大声を出して、看護婦さんから私どもまでを威嚇し放題する人物がいたのです。安静にしていられる状況ではなく、また役所の世話ばっかりなるのも気が引けて、病院の制止も振り切り、一ヶ月をきりに退院しました。
 三畳一間のアパート。帰宅しました。水槽の中からランチュウが3匹待ってくれています。なぜか泣いた事なんてあまりない私の涙腺が緩み、涙がドット出たのを覚えています。涙ってこんなに出るんだ!と驚きました。
しかし想えば、本当のわが人生最大の危機は去ったわけではなく。すぐそばにまで近づいていたのですが・・・知る由もありませんでした。
 M子が扉をたたきました。当時彼女は、私の住んでいる裏手の家の住人で、夫と女の子2人と4人で暮らしていたのです。また書きますが、これらに一言の虚実はありません。間違って私が誇張しているのだ。と思われる方もおられまょうが、裏付ける方々は膨大な数で、病院・役所・警察も絡んでおられるので、それらを白日の下に出すまでもありません。ことM子に関しては、私が依然として知らないことのほうが多いと思います。
8:51になりました。今から内科に行かなければなりません。この続きは帰宅して書きたく思います。皆さんよろしく。
質問投稿日時:09/11/09 08:55
質問番号:5433232
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