頂いたメール
------引用はじめ
未来を作るために。には、違和感を覚えました。全体主義的、若しくは、神がこの世にお作りになった仕組み的(自然の摂理)には、正しいのかも知れまんが、高度医療のために機能障害を持った子を授かり、その子の成長に関わり、高い精神性を求められている方々にこの言葉はあんまりです。(私の娘達w)?「老鮠鐚圓任后・・・w:ぢ正直な気持ちとして、人間は神の領域に(覚悟は持ち得無いながらも)立ち入ったのですから、人故に手に入れた高度な社会性でこれを乗り切らねば成りません。少なくとも、この世に生を得た者に対して。。ブログは日記であると共に、自らの意志で公共に発信するもの。そして貴方が市長という皆の希望と誇り、志を背負って人故の社会を作られるリーダーでいらっしゃる立場から、これを書いてはいけないと思います。少なくとも機能障害を持った子の親に成られた方の心を支える魂を見せなければ成りません。始めての手紙で不躾であったこと、お詫びします。社会への働きかけ、いつも尊敬しています。
--------引用終わり
厳しい生活の中で喘いでいる方々には慎重さを欠く見解に見えたかもしれない。
高度医療が多くの人々に高い精神性を追求せざるを得ない機会を与えているのは現実だ。この世は生ばかりではなく死によっても支えられている。しかも人間は生と死の境目をコントロールする技術を手に入れつつある。
原子爆弾同様に、使い方を知らないままこれを乱用すれば多くの人々に高い精神性が必要な厳しい生活を強いる。これでは残酷な社会を作る事になる。
日本が人口減少で消滅しつつある過程でするべきことは、先ず人口を増やす事であって高度医療で儲ける医者と業界を増やす事ではない。精神的にも健康な子供達が増えれば障害を持った子供達、体の弱った高齢者をより良く支える社会を作ることができる。高度医療にかけるお金の一部で人口を増やす事ができる。先ずは健康な人々が多く居なければ心を支える社会作りもできはしない。社会作りは人工的に意図的にしなければならない。メディア等に煽られての情緒的、成り行き任せであってはいけない。理不尽さを神や悪魔のせいにもできない。社会作りの全てが神の領域に踏み込む技術を獲得した人類の責任だ。
■2009/11/08 (日)
医師不足の原因は医師会 |
医師不足が全国的な問題になっている。特に勤務医の不足は深刻だ。
医師が金儲けに走っている為だが、この体質を後押ししてきたのが医師会だった。
以下 池田信夫blogから引用
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f65bacae249f66488dc8bfc3e9fbe384
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かつて「医師過剰」の是正を繰り返し求めたのは日本医師会出身の議員だった。たとえば1993年に参議院文教委員会で、宮崎秀樹議員(当時)は
次は、大学の医学部、医科大学の学生定員の問題でございます。これに関しましてはいろいろ定員削減という方向で文部省と厚生省との話し合いができておりまして、一〇%削減、こういう目標を立ててやっているのですが、実際にはそこまでいっていない。[・・・]例えば昭和六十三年には十万対百六十四人だった。これが平成三十七年には三百人になるんです。三百人というのはいかにも医師の数が多過ぎる。
と医学部の定員削減を求めている。宮崎氏は日本医師会の副会長を歴任した。
−−−−−−−−−−引用おわり
勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。
しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。
医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。
■2009/11/07 (土)
インフルエンザは病気ではなく政策 |
○インフルエンザよりもワクチンのほうが危険。
○ワクチンで外国製薬会社の金儲けため
○医者の勉強が足りない。
○新型はどちらかといえば良性
○タミフルで奇形児が生まれた。
○世界のタミフル70パーセントを日本が買ってる。
以下ユーチューブでご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=vP2Jv83WX-w
新型インフルエンザワクチン徹底解剖 http://www.geocities.jp/monitor_to_fix/flu2.html
実にわかりやすい。インフルエンザは政府、マスコミ、外国資本がからむ亡国戦略の例だ。
カネに狂い志を捨てたマスコミと政府は基本的に外国資本の手先である。妄信してはならない。
■2009/11/06 (金)
阿久根市総合文化祭 |
11月7日 土曜日、8日 日曜日、第63回阿久根市総合文化祭が開催されます。
作品展示部門は、7日午前9時から8日午後4時まで働く女性の家にて、演芸部門前夜祭が7日午後4時からと、当日祭が8日午前10時から市民会館大ホールにて。
総合文化祭あいさつ(原稿)
--------前略----
さて、私は「人生とは何か」とか、「生きることの意味」そして「これからの社会」そして「文化」について次のように考えています。
まず、「すべての人にとって人生は経験であり,人はこの社会という舞台で自らの役割を作り,演じて次の世代に引き継いでいく役者である。」ということ。それから,「いままでの時代はとにかく生きるために,生産性向上のためにみんなが一体となって,つまり社会の歯車となる必要もありました。しかし今は生産が必要を追い越してしまったにもかかわらず,いままでの社会の仕組みと人々の気持ちが競争から離れられずに居る。これが過剰生産と失業者,自然破壊を生み出している」このように考えています。
これらを解決する道はこころや精神です。こころを形に表して人に伝えるには技術と仕組みが必要です。それが「文化」です。
人がいる限り精神の働きには限りがありません,どれだけ使っても自然破壊をすることもなく,使うほどに豊かな社会になる。このように食べるためではなく,人を幸せにしたいと思う心を形にする「文化」が人類と阿久根市民を救う道なのです。
本年の文化祭は、「みんなで興そう! 文化の香るまちづくり」をテーマとして、本日と明日の二日間にわたり開催しています。演芸の部45団体、展示・実演部門につきましても、市民の皆様から多くの力作が出展され、素晴らしい内容となっております。
この後も前夜祭の後半、そして明日の当日祭とありますので、出演者の皆様には、ぜひ日頃の練習の成果を存分に発揮していただきますよう、ご期待申し上げます。
平成21年11月7日
阿久根市長 竹 原 信 一
■2009/11/05 (木)
インフルエンザ対応に抗議 |
いただいたメール紹介
---------以下引用
日々ご苦労様です。
インフルエンザ報道、最近こそ落ち着いてきたように見えますが、ヒドいものですね。
対策も見ててアホらしいものばかり。「所詮風邪でしょ?」って思うのですが…。
これだけ、我も我もとワクチンに押しかけてたのでは、ホントに必要な人の分が
なくなりはしないか心配です。
どっちにせよ、「これだけ対策しました」という役人の言い訳の為の対策なので、税金の無駄遣いの極みだと思いますね。
------引用終わり
■2009/11/05 (木)
インフルエンザについて1 |
昨日の日記を見た方からのメール。その1
以下引用
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アメリカではインフルエンザにかかっても病院に行く人はほとんどいません。病院は完全予約制ゆえ、突然インフルエンザにかかっても診てもらえません。ER(救急病院)に行く方法のみが残されていますが、わざわざ高額費用を払ってまで、それで決して治る訳でもない病院に行くのは馬鹿げているという認識です。ドラッグストアにある解熱剤を買ってきて、必要に応じて投与するというのが一般的な対処の仕方であり、医者も全く同じ対応を勧めます。日本では症状緩和薬(いわゆる風邪薬)やビタミン剤、そして抗生物質に至っては全く効き目すらないのに乱発状態ですね。休日診療に8時間待ちなどは正気の沙汰ではありません。このような実態が医療保険の負担を押し上げている一因でしょう。医療費低減のためには、我々の医者との付き合い方を考え直さなければならないと思います。新型インフルエンザは新しいゆえに死亡者が出ればニュースになりますので、従来型よりも怖い病気と認識される方が多いようですが、統計的に見れば決してそうではないと思います。新しいゆえに、ほとんどの方が免疫を持っていない訳ですから大流行するのは当たり前、数年もすれば季節性 みに落ち着くのではないでしょうか?あくまで個人的意見ですが、現時点では予防するよりも、「一度かかって免疫を得よう」というくらいの、「水ぼうそう」と同じ発想で気楽に構えておけば良いと思っています。おっしゃる通り、日本国民はマスコミ報道にあまりにも過敏に反応し過ぎていると思います。
----------引用おわり
■2009/11/05 (木)
インフルエンザについて2 |
昨日の日記を見た方からのメール。その2
以下引用
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追記。感染3人で学校閉鎖とは未感染者の保護措置なのでしょうね。アメリカでは学校閉鎖は稀。もちろん多数が休めば復習メインの授業にはなりますが、それも一時的なもの。ほぼ全員が同時期(2〜3週間に渡って)に感染、そして同時期に回復するので「嵐」が通り過ぎれば何事もなかったかのようになります。エピソードを一つ。ある親が学校ボランティアへの参加日、子供はインフルエンザに感染して高熱を出しています。その親は間違いなくウィルスに暴されていると思い、学校にボランティア参加可否を打診してみたところ、「参加問題ありません。来ている生徒も既に暴されていますから」とのあっけらかんとした返答。すなわち未感染者を是が非でも守ろうという考えは全くありません。阿久根市のように学校閉鎖で下手に未感染者を保護してしまえば、その場の感染は防げるものの、未感染者は未感染を維持できるとは全く言い切れず、別の感染源から感染すれば、大きな時間的ズレが発生し、学校全体としての感染状況は、断続的に続くことになるような気がします。この方が結果的には影響甚大な気がします。また未感染者はこの先、感染の恐怖に苛まれる訳ですから精 上も良くないと思いますし、その恐怖から少しでも逃れるために、個人および公のお金が使われることになります。新型インフルエンザでお亡くなりになった方もいらっしゃるので、あまり露骨に主張すると反発を招きそうですが、一時的な感染拡大は覚悟の上、寛容に対応した方が良いと思われます。一度かかった後に回復してしまえば、怖いものなしで安心して暮らせます。感染=犯罪=死という誤った固定観念は払拭した方がよいと思われます。ワクチンの準備や休日診療だけではなく、それ以上にメンタルな対応を含めた冷静かつ現実的な対応マニュアルの整備と浸透が重要かと思います。行政はこちらに心血を注ぐべきではないでしょうか?
----------引用おわり
■2009/11/04 (水)
「安心・安全」を流行語大賞に |
役所の作文に「安心・安全」という言葉が流行している。イメージとしての安心を急ぐあまり、数多くの不安要因を意図的に無視して多額のお金を使って緊急的に対策をとろうとする。対策の多くが言い訳作りに過ぎず危険要因を無視した危険なものになりかねない。
インフルエンザに対する過剰反応は滑稽だ。
インフルエンザ予防には役立たないマスクがバカみたいに売れて、小学校では学年に3人のインフルエンザが発生した時点で学年閉鎖にした。その後10人以上になってから学年閉鎖を解いた。阿久根では校区の運動会や剣道大会などが中止になった。
今回のインフルエンザは比較的症状が軽く、しかも3日程度で治ると聞く。
行政が報道に煽られすぎている。
そもそもワクチンは不足しており製造が間に合わない。そしてワクチンの安全性も確立していない。
行政が多額の補助を決めたとしても「安心・安全」とはならないのだ。
みせかけ先行の「安心・安全」を流行語大賞にしてもらいたい。
私達は本当に長い間、競争をしてきた。この社会で命を保つために、それこそ命がけで食糧を確保し、暖をとり、住む場所を確保しなければならなかった。「欠乏」を克服する必要によって、人間の心と社会システムには「競争の癖」が深く刻まれている。
科学技術の発達によって、人類は既に全体としては生きるための欠乏を克服することができた。
しかし、「競争の癖」を終らせる事が出来ずに争っている。他を利用してお金の階段を登る事をやめられない。現代の貧困と争いは欠乏時代の「競争の癖」から離れられないことが原因だ。このため生産力が破壊力として働いている。
「競争の癖」によって人類が滅亡しないための精神と社会の仕組みを作り上げなければならない。
神への祈りは「祈らない人よりも祈る私を幸せにしてください」ではなく、「この瞬間に祈る事ができない全ての魂の為に」でありたい。
おそらく、登る競争ではなく降りる競励によって人類が自らを救う事ができる。
政治家と役人は「市民の為に働きます」と約束している。それを現実にすればよい。 「市民の為には自分が必要」と始めながら、いつの間にか自分のために市民を利用するようになってしまう。これを正すだけで社会は変わる。市民のための自分ならば市民の下に降りる努力をしなければならない。
厳しくなる一方の市民生活をよそに、公務員が高給と高い退職金で作った豪邸に住む状態は公務に関わる者の考え方の誤りを象徴している。
「自分の周りから良くしよう」では争いは終らない。公務に関わる人間には自分に縁のない人々の幸せを祈る心がけが絶対に必要なのだ。
不運や不幸は大切なことに気づく最高の機会だ。
式 辞
市民表彰式にあたり式辞を述べさせていただきます。
「知ることから始めよう」これは私が始めて配ったチラシのタイトルです。阿久根市役所や議会のあり方に激しい違和感をおぼえ、チラシ配りを始めたのは平成十五年のことでした。あれから六年半、皆様に社会の現実をお知らせする作業を続けてまいりました。
「今、いろいろあって本当にたいへんでしょう。」と多くの方から声をかけられます。しかし私は苦労しているとは感じておりません。
六年半前、現実を知らされず、また知ろうともせずに暮らすひとびとにも、社会に貢献するという作業をしてこなかった自分にも絶望したことから、会社ばかりか家庭の崩壊をも覚悟してチラシ配りを続けました。ただただ、苦しみ紛れの毎日でありました。
その結果、不思議なことに市民の皆様が私を議員にし、市長にしました。私は自分への絶望に失敗しました。そして今では皆様の希望のお手伝いをさせていただいていると思っています。
阿久根は希望に向かって変り始めています。多くの課題はあります。しかし、その正体を見極めるならば課題こそが、より大きな問題を解決する力になります。知ることからはじめましょう。
さて、本日 表彰を申し上げます皆様は不肖の私とは異なり、 それぞれの課題に積極的に取組まれ、多大のご貢献をいただいた方々です。
---------以下略---------
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