時代の風

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時代の風:林芙美子の時代=作家・桐野夏生

 ◇資料が語る戦争の世紀

 林芙美子について書いた連載小説「ナニカアル」(週刊新潮)を脱稿した。だが、まだ余燼(よじん)に焼かれ続けている気がする。芙美子という物凄(ものすご)い人物に触れたことだけでなく、芙美子が生きた激動の時代に囚(とら)われているのだろう。

 林芙美子は、一九〇三年(明治三十六年)に生まれ、一九五一年(昭和二十六年)に亡くなった。享年四十七の短い命ではあったが、彼女が見たもの聞いたものは、激動の時代そのものだった。乱世と言ってもよい。

 日露戦争が一九〇四年、第一次大戦が一九一四年、日中戦争の始まりが一九三七年。太平洋戦争が一九四一年。

 「二十世紀は戦争の時代」と言われるが、芙美子はまさしく戦争と共に生き、平和を享受できないままに亡くなった。しかし、乱世には乱世にしか生きられない人間も多く出現する。さぞかし芙美子は、怪しい人間や傑物と多く出会ったことだろう。また多くの死も見ただろう。濃い人生だと思う。

 最初、ほとんど基礎知識のないままに小説の構想を得たのだが、いざ書く段になって文献や資料を集めて読み、さらに足りない資料を補填(ほてん)するうちに、空恐(そらおそ)ろしいことに気が付いた。集めようと思えば、いまだに膨大な資料が存在するのである。そしてまた、その資料を読むことによって、戦争の本当の姿を、実は誰も何も知らないのだ、ということを知った。つまりは、戦争を経験した人々が、それぞれの経験した戦争を書いて残せば、数限りない戦争の姿が浮かび上がる。そのすべてが戦争というものだ、と実感した仕事でもあった。

 余燼とは、いまだ尽きせぬ資料に淫(いん)するように没し、あるがままの姿を渉猟し尽くしたい、という欲望であるかもしれない。

 そのひとつであるが、戦争は移動だということを、芙美子の足取りを辿(たど)ることによって知った。戦争は、人や兵士や物や情報が行き交う。その量と速さを競う戦争によって、交通手段や通信手段は、飛躍的に進歩する。だから、積極的に従軍経験をした芙美子は、二十世紀のありとあらゆる乗り物に乗った、稀有(けう)な女性である。そもそも、芙美子は旅と共に生まれた。子供の頃(ころ)の行商時代には、当然のことながら徒歩で旅し、馬車、船、乗り合い自動車、鉄道も利用しただろう。関東大震災に遭遇して、灘の酒造家が得意客のために仕立てた酒荷船で大阪に帰ったこともある。また、『放浪記』の印税で、シベリア鉄道経由でパリへ向かったことは有名である。

 昭和十三年、漢口作戦に従軍した時は、ダグラス機で飛び、「ぜのあ丸」で、軍馬や兵士と共に、揚子江を航行した。漢口では、無線を積んだ新聞社のトラックで移動。

 そして、今回の小説の舞台ともなった南方に向かう時は、病院船に偽装された客船だった。大阪商船の「志かご丸」である。元はタコマ行きの船だった「志かご丸」は、赤十字のイルミネーションで飾られ、甲板を歩く者は白衣着用を義務づけられて、シンガポールに向かったのだった。

 潜水艦や機雷に遭遇する恐怖から、シンガポールに着いた時、船倉に閉じ込められていた若い娘たちが飛び出して、歓喜のあまり叫び続けていたという逸話も残っているほどだ。ちなみに、戦争中の輸送船は常に定員の五倍以上を積み込んでいたという。ために救助具もなく、撃沈などによる溺死(できし)者は、二十万人を超えているという報告もある。

 文字通り、命懸けでシンガポールに着いた芙美子の、南方での移動手段は、島間が飛行機、陸では車だった。芙美子の契約した新聞社には、「小俣」という名の有名な飛行士がいた。吉川英治や久生十蘭の従軍記にも多く登場するから、芙美子も「小俣機」に乗ったかもしれない。

 芙美子が日本に帰る時は飛行機を使った。戦争の主力が航空機に移っていることがわかる一方、芙美子が安全な手段で早く帰れる「選民」だった証左でもある。

 連載中、芙美子が偽装船でシンガポールに向かう場面を、ある新聞コラムで批判されたことがあった。作中に出てくる「トイレ」が、昭和四十年代頃の言葉であること。挿絵の地図の国名が「中国」でなく、「支那」ではないか、との二点だった。

 今回は、小説世界でのリアリティーを保持したかったので、極力ファンタジックなことは避けた。つまり、当時の言葉遣いの使用に徹する、という意味である。その点、「トイレ」は、私の筆が滑ったかもしれない。校閲者から指摘を受けたが、芙美子がフランス帰りであったこと、昭和十三年の『或る女』(『氷河』内)で、「トイレツト」という言葉を使用していることなどから、芙美子に言わせたのである。従って、その責任は私が負う。が、間違っている根拠もない。

 次に、「支那」が正しい、という説だが、これは資料的根拠があるので訂正する気はない。当時の地図には、「中国」と明記してある。校閲者、編集者、挿絵画家、これら大量の資料に当たっている者の名誉を代弁しているつもりである。前述したように、資料を読むことが唯一当時を知ることだ、と信じている。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2009年11月8日 東京朝刊

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