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沈黙の中の痛みー2009年5月

ここを封鎖しろという刑事告訴が始まれば、私は書けなくなる。

その前に、訴えた理由をできるだけ書きます。

私は最近まで現場の看護師でした。

病院で、自衛官の方の奥様が入院され故郷、宮崎へ帰られることになりました。ご夫婦ともピリピリされておられました。私よりお若い方でした。

病気の重さもさることながら、冷たいんですね、自衛官に。沖縄の空気が。

初めて体感しました。憤りを覚えました。

厳しい現実に直面し、頼る人もない地でご夫婦で途方にくれている。

冷たいじゃないか、何が守礼の邦だ。みんな情なしか、仕事のモラルはプロ意識はないのか。

空港までの救急車移動を自分で希望し、ご夫婦をお見送りしました。

一般職員がという反感も買いましたが、最後は師長がOKを出し、一緒に救急車に乗せていただきました。奥様の希望でもあり、男性師長のいざという時の決断力に感謝しました。

出発の前、浮腫んだ足を洗わせて頂き、宮崎に必ず来てねという言葉をもらい、空港でお別れを致しました。

淋しい別れでした。

まだ私も元気で、ゆっくりものを考える時間がない時でした。3年前です。

もう奥様はこの世にはおられないと思われます。最後ですね、とご自身できっぱり話され、私のほうが震えておりました。

そのあと、自分は、緩和ケア病棟を最後の仕事場に選びました。その時の不十分なケアが年甲斐もなく、現場への意欲をかきたてました。

無知は、ダメだと思いました。知識を持った上で最上の仕事をしたい。あの奥様に出来なかった悔いが自分の背中を押しました。

数ではなく、一人、ひとり、別れは苦しく痛い辛いものです。

よく働けたなと今でも思います。

今も現場で、一期一会の懇親のケアをしているスタッフを思うと頭が下がります。

市役所で、私をかばい続けた友人もそこで見送りました。若い彼女の最後を自分はどのように見送ったのか、思い出せません。

市役所にある二つの組合が一致して送った旗が彼女を支援するようにベット脇に貼られました。

私は見るたびに、胸が痛く、見舞いに訪れる元同僚に会うのが何より辛い日々ともなりました。皮肉なものです。

そのすぐあと、自分自身が心臓発作を初めておこし、CCUに入院になりました。

自分自身にもやがて突きつけられるだろう死ぬ瞬間を思い知りました。

緩和ケアに入院される患者さんが、旅立つ前に語る言葉はそう多くはありません。

「私は十分生きただろうか」

「生まれてきた役割を果たせただろうか」

「やり残しは何か。持っていってはいけないものは何か」

「みんなありがとう」

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退院して始まった私の行動は、激戦区をまわり祈ることでした。若い頃は1フィート運動へも携わりました。子育てと並行していましたので、途切れ途切れですが。

「健児の塔」 に夫と娘で休日によく行きます。

「ひめゆりの塔」 は観光客でごったがえしていますが、「健児の塔」 はいつも人の気配がありません。

夕刻、初老の女性に海岸の出入り口で会いました。

三度目です。人気がまったくない所なので、お互い目を合わすのを自然と避けます。

ゴミが岩場に乗せられたりしていたので、私達夫婦は、初めホームレスか、精神疾患のある人かと思っていました。暗くなる海に今から行こうとするのですから、人を避けていると思いました。

実際、戦争の後遺症で非常に患者さんも多いのです。

夕方で日も沈み、あの道を戻るには今からでは足元が危ない。慣れていなければ海岸に今頃から降りることなどできない。

私達は足元が暗くなる前に浜をあとにしようとしていたのですから。

あちらに道を譲りました。

軽く頭を下げられ、私の娘がハンディがあるのに気づいたその方が、ふと微笑まれ娘に頭を下げて行かれました。

その時、初めて顔を見ました。あまりの気品に鳥肌が立ちました。

夫婦で帰り道、ペットボトルや空き缶をきれいに各所で集めてあるのに気づきました。

たぶん夫婦同時だったと思います。

「ご兄弟を亡くされたのだろう」

誰の目も避けて、ひっそりとゴミを集めるその人は、優しく気品に満ちた静かな顔をしていました。

長いこと、何年も通い続けなければ、夕刻の暗闇をよむことはできない上での行動だと知りました。

沈黙の中にある、痛み。

戦争は誰もが嫌うことなのです。

それを避ける国力が、平和を維持できるのです。

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母子家庭の方は誤解しないで読んで頂きたい。

自分が母子家庭だった頃の不安を今の日本に覚えるのです。

強い父親のいる家庭は他者から失礼を受けにくい。

経済的な安心、地域での信頼、子どもの将来への安心した投資、家の中の保たれた秩序。

日本の国の父性が弱くなったと感じた個人的な不安を、思想的というのなら、自国の中で言論の自由を奪われたに等しい。

サラは、「自由の子の母」 という意味。私の本に感想を下さった人の名前をもらった。

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