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電脳メディア批判 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-11-04 プライベートとパブリックの境界。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

インターネットコンテンツは外部に開かれている。国内だけでなく海外からもアクセスが可能だ。一方でSNSは限定された会員に閉ざされている。しかし、閉ざされたコミュニティだからこそ語れることもある。

本名エントリを書く勇気を尊重するが、かといって匿名性を否定しない。自分名前を晒さないことが卑怯であるとか、無責任であるとは思わない。海外の動向はともかく、日本風土には匿名性が合っているのではないか、と考えるからだ。もちろん、だからこそ弊害も生まれるのであるが。

id:fromdusktildawn氏の運営するコンセプトSNSフリーダムSNS(以下、FSNS)*1」を再度取り上げる。

FSNSでは運営者本人も日記を書いている。したがって、運営者が関心を持っているテーマのホンネを読むことができる。運営者であるid:fromdusktildawn氏の日記には、「某富裕層SNSでは、名簿情報がだだ漏れしている」というようなあからさまな記述がみられたこともあり、極論を得意とする分裂勘違い君だけに、なかなかスリリングだ。さらに下痢しているなど個人的な健康状態からさまざまな関心事まで記述されていて、熱狂的なファンにはうれしい限りだろう。

しかし、名簿情報うんぬんの件には若干不安を感じないでもなかった。FSNSではトビラのエントリーページで個人情報保護について明示されているが、企業ではなく個人運営のSNSである。id:fromdusktildawn氏の倫理を信用するとはいえ、ケータイアドレスメール、その他の情報も運営者には「だだ漏れ」だ。

富裕層SNSで名簿情報漏れていることをリークする運営者によって、はたして健全な運営は守られているのだろうか。わずかばかりの疑しさを感じた。ひょっとしたらナンパぐらいには名簿情報を利用していたりして・・・。

ところで、本名にせよ匿名にせよ、ブログSNSエントリで、どこまで書くか何を書くかということはとても難しい。その境界は曖昧だからこそ判断に苦しむ。規律に縛られていればストレスが溜まるだろうし、かといって、曝け出したいだけ自分を曝け出すのもよいとは思えない。

リテラシーが不完全な子供たち、学生たちは、時折、そこで失敗する。じっくりと考えればわかることだが、万引きしたことを暴露して自慢するなどは、ネットで全体に向けて書いてはならないことだ(というより、万引き自体がしてはならないことだ)。匿名であっても個人を割り出す方法はいくらでもある。仲間うちだけのネットであると思っていても、誰がみているかわからない。注意は必要だ。

PCの画面に向かってテキストを打つのは孤独な作業であり、簡単に公開できるからこそ、書き慣れると歯止めがなくなることがある。思うがままに書いてしまう。おふざけで書くこともある。

プライベート空間のつもりでテキストを書いて、えいっと公開してしまいがちなネット空間は、当然のことではなるがパブリックに開かれているのである。常識といえば常識だが、あらためてそのことを考えてみたい。


おふざけの功罪

以前のエントリにも書いたが、FSNSのコメント欄三文字ことば「まんこ」を連発して中学生的なコミュニケーションで盛り上がっていた愉快な人たちがいた。主としてeDJ氏(id:koujimatsumoto)とgungrion氏(Twitterhttp://twitter.com/gungurion ホームページhttp://gungurion.jp/)である。

後者のgungrion氏は、「性欲が有り余っている」ことを日記で豪語する性欲的・・・いや精力的なゲームコンサルタントである。自分を曝け出すことは勇気がいることであり、それだけ自信があるのだろう。しかし、かつてeDJ氏から「もっと自分を曝け出すべきだ」というようなコメントをいただいたが、性欲が有り余っていることを誇示することが、SNS自分を曝け出すことなのだろうか。よくわからない。もっと他に自己主張すべきことはあるのではないか?

もちろん自分にも性欲はある。しかし、有能なフリーランスの面々が個々の活動や関心のあるテーマを真摯に書き綴っているFSNSで、こんなことで「自分を曝け出そう」とは思わない。この発言は中高生的なレベルとしか感じられなかった。

あるいはFSNをmixiと「勘違い」していたのかもしれない。それならわかる。もし、mixiで全員に公開して「性欲が有り余っている」というようなコメントを書いたのであれば(風俗も含めて)軽率な女性たちが、

「きゃー。わたしがなんとかしてあげるぅ(はーと)」

などと、わらわらと寄ってくるだろう。FSNS内でもそれを意図して書いたのであろう。

聖人を気取るつもりはないし、おふざけとしてスルーすればよいことではある。ただ、この閉鎖されたコミュニティにおける、内輪うけにも近いおふざけに若干の不快感を感じた。もうすこし冷静に語るならば、実名を出して真剣にひとりで闘おうとしているコンサルタントであれば、三文字ことば発言や性欲誇示の日記はくだらなすぎる。ストイックになれと上から目線では言えないが、発言内容を考慮責任をもつべきではないか。

孤独フリーランス仕事においては、会社人間以上にストレスが溜まるだろう。しかし、狭いコミュニティであったとしても、書くことで発散するみずからの欲求不満抑制力の弱さは、仕事に対する姿勢を乱す弱さにつながるのではないだろうか。

gungrion氏は「会社人間はクソだ、氏ね」というような日記も書いていた。もちろん(就職活動もされていたようなので)愚痴をぶちまけたい感情はわかる。しかしながら、彼はCEDECというイベントで、ゲーム業界に就社をする人間セミナーを行ったようだ。


screenshot


そのセミナー開催後「業界未来を語ることができました」のような発言がTwitterでみられた。それを読んで白けた。発言に欺瞞はないだろうか。

会社人間はクソだ、氏ね」と言っている人間が、業界未来を語る?就活する学生アドバイスするって?

プライベートで酒を呑んでホンネの愚痴を語っても、仕事の場ではしゃきっと建前を述べるのは、オトナの社会人のやり方だ。とりたてて問題にすることはない。しかし、閉鎖されたFSNSでネガティブなことを語りながら、きれいごとを語る姿勢が自分には気持ち悪かった。であれば「業界スペルマをぶっかけろ!」「くだらないゲームプランナー氏ね!」ぐらいのヘヴィメタルな発言をしてほしかった(できないか)。

要するに、影で言ってることと異なって、発言が小心者的なのである。狭いコミュニティではでっかい態度で、パブリックな場ではきれいごとを言う。彼はフリーランスのはずなのだが、思考のせこさにサラリーマンの縮図をみた。


人格統合と誠実であること

「酷いことを書いているけど、会ってみるといいひとですよ」
「いっしょに仕事をしてみなきゃ、わからないじゃないですか

ネットの印象とリアルを比較して、そんなことがよくいわれる。当たり前だ。文章の表現力の問題も含めて、ネットに書かれた文章はそのひと本人ではない。もちろん、書いたことばには責任が伴うのだけれど、テキストを本人の全人格仕事力と混同してはいけない。

しかし、ここはネット社会なのである。ネット社会においてはテキストコミュニケーションが中心になる。

だから、書かれたことに疑問があればテキストを書いた本人に対する疑問に直結するし、あれだけ凄いことを膨大に書いているブロガーならどんなに凄いひとなんだろうな、と過大に想像することもある(実際はそんなことなくて凡人であることが大半だろうが)。本人と会えないのであれば、テキストが人物像の欠落を埋める貴重な情報になる。

多重人格的なキャラクターも可能になるのが、ネット社会だ。だからこそ、なりすましの行為も生まれるし、結婚詐欺のような犯罪も起きる。匿名性でカムフラージュした、いじめも生じる。

ただ、具体的な例を挙げて申し訳ないが、ハンドルネーム「gungrion」でネット社会を生きるのなら言いたい放題も可能かもしれないが、就活も含めたゲームコンサルタント下田賢佑」氏として実名で働くのであれば、ある程度の倫理観や発言の重さを感じるべきではないか。さらに言及するのであれば、コンサルタントとしてのビジョン重要だ。現状ではホームページから削除されてしまったので引用して指摘することができないが、業界の実情を伝えます、だけではコンサルタントとして非常に脆弱な印象を受けた。

趣味余暇の過ごし方としてネットを活用するひとが大半だろう。しかし、ネットを使ってビジネスを展開したり営業ツールとして活用するひとたちもいる。後者であれば、発言にプライベートパブリックの境界が曖昧になる。マスコミでさまざまな失言が追及される昨今、バッシング政治家著名人だけの問題ではなくなっている。一般人にも該当する。というのは、インターネットにより個々人が情報発信および発言できるようになって、その発言を誰もが自由に閲覧できる以上、個々人の発言もバッシングされるようになるからだ。

発言を抑制するのは、個々人のリテラシーに拠る。また、ある程度努力したとしても、人間性というのはちょっとした瞬間に露見してしまう。

もし、フリーランスとしてひとりで闘うのであれば(しかもネットを活用して事業を展開するのであれば)、発言には十分に留意すべきだ。そして、逆にTwitterブログを通じて戦略的にネットの発言を利用することもできるはずだ。たとえば、パブリックな発言のなかに、うまくプライベートなエピソードを挿入すれば親近感を演出することも可能かもしれない。

クラウドソーシングなどの事情も踏まえると、今後は、プライベートパブリックを横断するネット時代のプレゼンテーション技術が求められているのかもしれない。