始まったパワハラ(2002年9月18日)
2002年9月16日、午前6時ごろ、県立八重山病院の帰り、割烹オーナー夫妻が経営する、海岸線沿いの、「ビハーラ」 傍を車で通る。
明かりが点いている。
階段を昇り、厨房にいた二人と会う。
椅子に三人で腰掛けて話す。私はザンバラ頭でそのままの姿にジャケットを着ていた。
オーナーは始終下を向いていた。
「私は、もうあなたがたとは何の縁もない。息子さんが介護長寿課に来ても、自分は退職の準備にかかる。自分も完璧な人間ではないし、愚かだからこんな目に遭っているんだと思う。自分はあなたたちにバチを与えたいとは思わない。だけど神様はおられるから、あとのことはわからない」
「市長が死ぬのか?」
オーナーが初めて顔をあげて私を見た。
もう一度、病院へ行ったかどうかがはっきり記憶に戻らない。カルテで確認することにする。
2002年、9月17日、公休日、翌18日、出勤する。
書類棚の所でいる時に部長が探しに来る。
9時過ぎ。
「市長室に行くぞ」
周囲の空気が変わる。
「体調悪いです」
「おまえも連れて来いと市長命令だ」
課長、課長補佐を見たが、タバコを吸いに外に出て行った。
部課長以外の職員が市長室に入ることはない。急ぎの決裁をもらいに入るので、秘書係長がそのスケジュールを元に、外来者との調整を図り、その間に急ぎの決裁の時など入れてもらう。
それほど、敷居は一般職員にとっては高い。またそこを易々と行き来されたら、秘書係長の仕事の支障どころか、市の行政じたいの秩序が成り立たない。
私は何度か部長に同行し入っているので、初めの頃は、実直な秘書係長は厳しい顔で見る。当然のことだ。
介護保険が立ち上げスタートという段で、行政と医療福祉、マネージメントの合体という未知のジャンル。行政の部のトップが医療福祉の説明補助として専門職の私を同行する、という意味合いで、秘書係長は、走っている事業の急ぎの決済との見解で理解を次第に示してはいた。
市長室に入った。
スーツ姿のN君が座っている。オーナー夫妻の息子だ。
応接室は、非常勤職員を紹介する場所ではない。
陳情者や表敬訪問など、市の公の応接室だ。
16日が蘇る。憤りというより、終わったと感じた。これで私の仕事場はなくなったと思った。
サラの下に置くと市長が言うが、部長は16日、誰よりも先に上手に逃げたので、一人市長の話を熱心に聞いている。
N君が認定担当の情報処理を担当するようになり、今までいた担当が外された。
部課長、補佐に、退職の意志を伝えた。
「俺らは知らない。自分のことは自分で解決してくれ。すぐに退職は無理。次を育てるまで責任を取るべきだ」
「おまえも息子さん、大学行かせたいだろう。俺らもみんな子どものためにできん我慢をする時もある。親は頑張らないと」
その日の会話はそれで流れる。
周囲から、いやがらせが少しづつ始まっていく。女性職員、組合の職員等から面と向かって罵倒されたり、一人だけ外されたり、同時期入職した看護師が組合に入会できたが、私は無視された。
サラが声をかければ市の職員になれると、勤務中、急に大声でわざと言い出す者もいた。愛人だからなんでもありって凄いね、と。
非常勤務の職員に、苦しくなって外勤の途中、16日のことを話した。
彼女は運転をしていたが落ち着かなくなり、しばらくして仕事を辞めた。
親友にも話せないと感じた。みなを巻き込む前に辞めようと決めた。
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コメント
そんな苦しい状況で苦しみながらよく耐えてきました。私には耐えきれません。なんと恐ろしい世の中なんでしょう。正(義)が働かれ、悪が働かないように。
このまま終わるわけにはいけませんよね。
senchiri-sct.
投稿: センチリ-sct. | 2009年11月 3日 (火) 18時19分