2003年1月4日、オーナー夫妻からの電話
2003年1月4日、
役所は仕事初め。職員は自分の担当業務があるので、他の担当者をフォローサポートするゆとりがない。非常勤職員が休みなので、業務は滞る。
介護長寿課の窓口は朝から来庁した市民で殺到している。電話も鳴りっぱなし。
介護認定の申請や、正月で久しぶりの家族が揃ったがゆえに、潜在していた介護問題が表面化されることにもなり、
いっきにニーズがパンク状態。
どれが鳴っているかわからない電話の一本を耳に当てた。
「助けて、今すぐ来て、病院に来て」
交通事故か、高齢者の虐待か、プラスアルファは無理だと思ったが、優先順位は、今、対処しなければならないもの、判断して、電話に対応する。
「どちらの病院ですか。お名前をいただけますか」
「お願い、すぐ来て」
聞いた声だと思ったが、なにしろ周囲は電話の音と、来庁舎のイライラした声で考える間を与えない。
認定調査員が調査表を届けに入ってきた。
15分で戻りますから、電話の応対をお願いしますと頼んだ。全部メモするように、追って対応していくからと、手を合わせてお願いした。
主治医意見書を八重山病院に取りに行く予定があるというので、それ帰りに私が取ってきますと、鍵を持って、指定された病院に車を走らせた。
虐待のケースで病院に駆けつけることはこれまでにも何度かある。
だが病院で私を待っていたのは、車椅子に座ったオーナーとその後ろに立つ奥さん。
「うちの人、末期って、どうすればいい。息が吸えない」
主治医にもう一度話を聞いてくれと頼むので、同伴して話を聞いた。
昨日まで、店を開けて仕事をしていた。胃部不快感は、あの事件のあとからあったと言う。
二人は何度も私の実家の母を訪ねている。役所のカウンターにも話したそうな顔で来た。二人の息子のM君は気の優しい青年で、私も苦しかった。
だが会話をすれば、私が介入した不当人事だと誰もが噂している時だ。私も体調を崩していた。事件も消えたわけではない。縁は切ったと話してルールを守らない、そちらが悪い、そう思い、応じなかった。
「あと二ヶ月」
主治医がはっきりと癌を告知した。呆然とする二人に、仕事帰りにまた来ると言い、私も混乱して病院を出た。
琉球大学病院に移りたいという二人の意向を手伝い、救急車を翌朝、空港から病院まで手配し、オーナーに痛み止めの座薬を入れるのを手伝い、会話は避け、その夜は帰った。
出張で県庁に出向いたあと、見舞った。
もう立てない状態だった。おでんを買って奥さんのKと二人で食べた。
二人で並んで食べ、二人で泣いた。オーナーのお母さんが早世したこと。彼が幼い下の子を小学生から家事をやり育ててきたこと。
うつらうつら、お母さんと呼んだこと。天国ってあると聞くので、うちの人はお母さんに会える?と聞くので、私は胸が潰れそうで何度も頷いた。
2009年2月27日、43歳でN氏は他界された。
通夜、葬式を手伝い、2009年3月1日、彼らの娘さんと、私の長女が高校を卒業した。
市長を罪に問わないではなく、夫を喪失したKを責めることは自分には到底できないこと、そう思ったのを記憶している。
1月4日、電話のあった同日に、私はセンター異動の内辞を上司から受けたので、庁舎から出てセンターへ出勤していた。
そこに痩せてしまったKがふらふらと何度か現れた。市長を告訴しようする気がだんだんと萎えていった。
2002年、10月、
M君が配属されたあと、私は学校勤務に戻ろうと沖縄本島での生活に向かって動き出していた。
高校卒業後、娘は私の姉の住むカナダへ留学が決まっていた。長男は高校2年へあがる。転校先の試験を受けさせた。
発展クラスの枠が一つしかなく、理系から文系へ変更ということになったが、しかたがない。
息子が面接から戻った飛行機と、N氏のご遺体を乗せた便が同じだった。私の子供達は多くを見たが、そのことについて今まで一度も話をしたことはない。
2004年4月、息子も娘も島を離れた。だが私は代理へ渡すまでの業務責任があり、センター勤務を続ける。
その間、何度も市長から公私共に電話があるが応じていない。
公開するなということを言っている。私が島を出ようとしていることに勘付いたら大騒動になる、と上司は、異動を呑めとアドバイスをくれた。退職届を上が見る頃には、体調不良で休みに入り、島を出て、そのまま辞職という状態がベスト、そうアドバイスをもらった。
その頃から、示談の件を何度か電話で示唆された。
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