「政権選択」のかかった今夏の衆院選では、多くの有権者が政党や候補者の主張に関心を寄せ、情報を求めたことと思う。視覚障害のある有権者も同じ思いで点字投票による選挙権を行使した。点字投票は1925(大正14)年、25歳以上の男子に選挙権を認めた衆議院議員選挙法改正と同時に導入された。世界で例のない先進的な制度だ。しかし、政見を知るための選挙公報には点字発行の法的保障がない。来年は参院選が控える。公職選挙法の改正などで点字公報の発行を実現し、情報格差を解消すべきだと思う。
119年前の1890年11月1日、日本の点字は産声を上げた。フランス人のルイ・ブライユ(1809~52)が発案した6点式点字を基に、東京盲唖(もうあ)学校(現・筑波大付属視覚特別支援学校)の教員、石川倉次(くらじ)(1859~1944)が日本点字を作り、11月1日は「日本点字の日」になった。今年はブライユの生誕200年、倉次生誕150年にあたる。そういう記念の年に合わせて、毎日新聞は点字をとりまく現状を特集記事などで報告してきた。
国政選挙と都道府県知事選では、公選法によって、候補者の経歴、政見を載せた公報を発行、配布できる。しかし点字公報は規定されていない。候補者側が作成した公報の原稿は、レイアウトを含めて「原文のまま」掲載することを公選法が定めている。短い選挙期間中に製作して配ることも技術的に難しい、と総務省は説明する。公平・公正な公報作りを考えたのだろうが、視覚障害者への「公平・公正」な情報提供という視点が欠けている。
盲ろう者でバリアフリーを研究する東京大先端科学技術研究センターの福島智(さとし)教授(46)は、今回の衆院選の情報を新聞や週刊誌の点訳版やネットニュースで得た。「かつては候補の名前すら分からなかった」と話す。約30万人いるとされる視覚に障害のある人たちは、手探りで情報を求めている。福島教授は、点字投票を認める一方で点字公報がない現実を「谷川を渡って向こう岸に着く権利があるのに、つり橋がない状態」と例え、「視覚障害者は川の中を歩いて対岸に行けということか」と問う。
その現状を変えようと動くのは国ではなく、民間のグループだ。社会福祉法人日本盲人福祉委員会(東京都)が呼びかけ、週刊点字新聞を発行する「点字毎日」編集部(毎日新聞社)など全国の点字出版施設が04年以降、国政選挙の公報を全文点訳した「選挙のお知らせ」を製作している。公選法上の公報に該当せず、総務省は「啓発資料」として発行を認めている。
今回の衆院選では、比例代表全ブロックと209の小選挙区に加え、最高裁裁判官の国民審査を合わせて計約11万部を発行した。それぞれの出版施設が点字で入力し、公示から約1週間で発行作業を終えた。
出来上がった「選挙のお知らせ」は都道府県選管が購入し、視覚障害のある人に届ける。その方法は、視覚障害者団体への委託、希望者への送付など選管ごとに対応が異なる。これでは、団体に入っていない視覚障害者に届かない。また選管が予算を削減するようなことがあれば、発行できなくなる恐れがある。
加えて製作面でも同音異義語への対応に頭を悩ませる例が出ている。日本点字は、六つの点を組み合わせて一つの音を表現する。漢字仮名交じりの文章もすべて平仮名で表現されるというイメージだ。
実際に衆院選のある候補者がキャッチフレーズに掲げた「食・職・育」の点訳を考えてみてほしい。漢字でそのまま読めば、食べ物、職業、子育てに力を入れようとしていることが分かる。ところが、点字だと、「しょく・しょく・いく」となり、意味が類推できない。「食料の食」「職業の職」と注釈を付けたくなるが、「原文のまま」という公選法の規定があるので加筆できない。全盲の大学非常勤講師、久部幸次郎(ひさべこうじろう)さん(41)=大阪市=は「注釈も可能になればいいし、何より点字公報の発行が法的に保障されれば、点訳しやすく分かりやすい公報を作ろうという発想が候補者にも生まれるのではないか」と話す。
民主、自民、共産3党は既に、マニフェスト(政権公約)の点字版を作って、選挙事務所に置いたり、点字図書館に寄贈している。点字公報の実現には「原文のまま」という公選法の規定を改める必要があるが、同法の施行令や実施規程で点字公報を認めて発行を保障することも可能だと思う。暮らしにかかわる政策を決める代表を選ぶ時、選挙公報は判断材料となる唯一の公の発行物だ。視覚障害のある人の思いに心を寄せ、議論を深めてほしい。(大阪社会部)
毎日新聞 2009年10月30日 0時24分