ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 7
- 1 :可愛い奥様:2009/10/14(水) 13:34:51 ID:bO/ddsYi0
- 民主党鳩山由紀夫党首の妻、幸夫人に注目するスレです。
次スレは950で立ててもらえると友愛でなんたらかんたら。
過去スレ
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 6
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1255045597/
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 5
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1254385095/
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 4
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1255045597/
【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 3
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1253026097/l50
- 37 :週刊文春10月8日号 @:2009/10/15(木) 01:38:17 ID:V6MlX6bf0
- 総力特集
鳩山幸 語られざる「血脈」「父との別れ」 首相を支配≠キるファーストレディ
(週刊文春2009年10月8日号)
なぜか生い立ちは謎につつまれている。その原点は語られざる前半生とアメリカにあった。
▼外交デビュー「金色スーツ」の陰に“奇門遁甲”謎の指南役
▼隠された両親の離婚。「ペンタゴン勤務」アメリカ人異母弟がいた
▼オカルト原点は上海からの引き揚げ!? 親族が明かす少女時代の「流転」
▼宝塚時代のアダ名はなぜか「コンちゃん」
▼姑・安子さんの危惧「出しゃばり≠ェ鳩山家の伝統を壊すかも」
9月22日、ニューヨークで外交デビューを飾った鳩山由紀夫新首相。
胸元に映える金色と紺のストライプネクタイに目を留めた人はちょっとした鳩山ツウ≠ニ言えるだろう。
国連気候変動サミットの開会式で、鳩山首相は、
「2020年までに温室効果ガスの排出量を90年比で25%削減する――」と宣言した。
会場には万雷の拍手が轟き、サルコジ仏大統領や潘基文国連事務総長らが激賞。
翌日の日本の新聞一面は無論のこと、全世界に金のネクタイ映像が流れたのである。
実は、5月の民主党代表選や麻生首相(当時)との党首討論、帰国後の27日に大相撲で優勝した朝青龍に
内閣総理大臣杯を授与した時も、やはり金色が入ったネクタイだった。
- 38 :週刊文春10月8日号 A:2009/10/15(木) 01:39:54 ID:V6MlX6bf0
- 鳩山首相の知人が語る。
「民主党代表選の直前は、サイケ調のペイズリー柄のネクタイで評判が悪く、
『テレビ映えしないから、ネクタイを変えませんか』と周囲がアドバイスしても、『これは女房が決めてるからなあ』
と変えてくれなかった。
鳩山さんはパンツからスーツまですべて、奥さんが用意したものを着るだけなんです」
04年まで民主党の衆議院議員だった元側近の木下厚氏もこんな話をする。
「96年頃、鳩山さんの本を書こうと思い、田園調布のご自宅で計10数時間インタビューしましたが、
いつも幸さんが横にいて、『あなた、それはこうよ』とか『それは違うわ。こうだったでしょ』と口を挟むのです。
由紀夫さんは鷹揚な人だからニコニコ笑っているだけ。
まさに、尻に敷かれているなと思いましたよ」
実は、ある時から急に鳩山首相がネクタイを金色に統一したのも、幸夫人の変化≠フためだった。
「幸夫人に指南役からのアドバイスがあったからです」と、別の知人は言う。
「民主党の議員やその妻たちが傾倒する、指南役の女性がいるのです。
彼らは政権交代に向けて開運できるように邪気を祓ってもらい、あらゆる相談をしてきました。
そのうち、議員の妻たちを通して『まずは鳩山さんの服装を変えた方がいい』というメッセージが幸夫人に伝えられたのです。
これは指南役の奇門遁甲≠フ教えによるもの。
人間は自分の力や運勢だけでは運を開けない。
だから、古代中国から伝わる風水や、自然界のエネルギーの強弱を分析して吉方・凶方を知るのです」
奇門遁甲とは、三国志の諸葛孔明が得意とした、軍術として知られる方位占法だという。
「金色のネクタイの一部は鳩山氏の側近、松野頼久議員の妻からプレゼントされたものです」(民主党関係者)
- 39 :週刊文春10月8日号 B:2009/10/15(木) 01:40:55 ID:V6MlX6bf0
- 7月の都議選の3日前には、永田町の日枝神社に一部の民主党議員が集まり、この指南役女性とともに必勝祈願を行った。
北海道にいた鳩山代表は、参加できないことを悔やんだという。
都議選で圧勝するや、鳩山夫妻はますます指南役との面会を切望した。
後日、夫婦は指定された日枝神社にSP引き連れて出向き、初めて指南役と対面する。
「それ以来、幸夫人も服装を変えました。
一時期、白髪のままにしていた前髪を黒く染めるように指導され、好みの赤い服をやめて、
黒やベージュなどシックな色や、夫婦のラッキーカラーと言われたシャンパンゴールドを着るようになった。
また、夫の三歩後ろを下がって歩くようにとも指導されています」(前出の知人)
幸夫人はメディアへの露出を控えるようになり、
「太陽をパクパク食べる」
「金星に行ったことがある」
「前世でトム・クルーズと会った」
などのトンデモ発言も激減した。
だが、鳩山代表のスタッフは、遊説の方位にこだわる幸夫人に泣かされっぱなしだったという。
「凶方の方位に応援演説に行くときは、幸夫人が心配して、指南役の先生に相談して対策方法を教えてもらっているそうです」
(同前)
外交デビューとなったニューヨーク訪問の前日も、幸夫人は陰の指南役と電話で話している。
アメリカで、鳩山首相のネクタイや、現地の日本人学校などを訪問した幸夫人のジャケットが金色だったのは、
こうした奇門遁甲への傾倒があったのだ――。
- 40 :週刊文春10月8日号 C:2009/10/15(木) 01:42:49 ID:V6MlX6bf0
- ◆アメリカから異母弟が来た◆
その熱心さからうかがえるのは、夫への献身ぶりである。
「一見、出しゃばりな女性のようで、実は違う」と指摘するのは政治評論家の小林吉弥氏だ。
「民主党議員の妻たちによる『伴侶の会』での幸さんの仕切りは上手い。
ふつうは、当選回数で議員の序列が決まり、夫の序列に従って奥さんたちも上席から末席へ座るものです。
しかし幸さんが『くじ引きで席順を決めましょう』と言い出した。
みんな平等に楽しみましょう、という気配りです。
だから議員の奥さんたちに慕われるのです。
彼女の根底にある平等という意識は、複雑な幼少期が関係しているのかもしれませんね」
鳩山首相が「妻は僕の太陽」と言って憚らないファーストレディ。
どういう生い立ちの人物なのか。
これまでにメディアで報じられた経歴によれば、旧姓は「橋本幸」。
1943年に上海で生まれ、神戸で育つ。
中学卒業後に宝塚歌劇団に入団し、「若みゆき」として活躍。
24歳で渡米し、サンフランシスコで最初の結婚をした。
留学生だった鳩山家の長男・由紀夫と不倫の末に再婚したのは周知の事実だ。
だが、以外なほど語られていないのは、幼少期からの前半生と、父の存在である。
かつて由紀夫の母親・安子はポツリとこう漏らしたという。
「幸さんは昔は本当に苦労してきた」
- 41 :週刊文春10月8日号 D:2009/10/15(木) 01:44:06 ID:V6MlX6bf0
- 75年、由紀夫と幸は留学していたスタンフォード大学構内の教会で結婚式を挙げた。
長男の結婚式にもかかわらず、鳩山家から参列したのは母の安子だけ。
父親の威一郎は欠席している。
多忙が理由だったが、年上でバツイチの幸との結婚には大反対だった。
安子もまた、次男の邦夫がタレントの高見エミリーと結婚したのに続き、由紀夫の結婚を姑の薫に
報告するのは心苦しかったと語っている。
「好きな人と結婚するのが一番よ」という薫のとりなしで、ようやく2人の結婚は認められた。
しかし安子のいう苦労≠ヘこの結婚だけではないだろう。
幸夫人には名門・鳩山家とは異質の、流転の人生ともいえる知られざるルーツがあったのだ――。
今から10年ほど前のこと。
高知市の中心部から車で30分ほど離れた、春野町の山あいの集落に、一人のアメリカ人男性が訪ねてきた。
「ウディ・クッセ」と名乗るこの男性は、現在、アメリカ国防総省内のある警察部門に所属する。
彼は集落から離れた小さな墓地に向かい、「楠瀬家之墓」に手を合わせた。
日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれたウディは、実父の墓参りのため来日したのだ。
墓碑に刻まれた父の名は「楠瀬幸男(くすせさちお)」。
- 42 :週刊文春10月8日号 E:2009/10/15(木) 01:45:04 ID:V6MlX6bf0
- この人物こそ、鳩山幸の実父である。
実は、メディアで伝えられてきた「橋本」姓ではなく、「楠瀬幸」として10代を過ごしてきたのだ。
つまり、ペンタゴンに勤務するウディは幸の異母弟にあたる。
ウディを泊めた楠瀬家の親族が振り返る。
◆父との別れの真相は両親の離婚だった◆
「ウディは日本語がまったく喋れませんでしたが、顔は幸雄さんにそっくり。
幸雄さんは幸さんの母親と離婚した後に、アメリカで再婚しました。
しかし、ウディが生まれる2ヶ月前に癌で亡くなったのです」
幸は父親について、
「小学校2年生の時に、仕事先のアメリカで、ガンで亡くなったんです。会えないまま、訃報だけが届きました」
(「週刊女性」07年3月13日号)と言ったり、別のインタビューでは、小学4年の時に他界したと語っている。
しかし、「父との別れ」の真相は、両親の離婚であり、父が亡くなったのは幸が15歳の時だった。
「幼かったから、両親の離婚を理解できなかったのではないでしょうか」
そう語るのは、ウディとともに来日した幸の叔母、米メリーランド州在住のパトリシア・多鶴・ロバーツだ(90)。
幸が小学生の時、父・幸雄はアメリカに渡った。
いや、帰ったという方が正しいかもしれない。
実は、幸のルーツはアメリカにあった。
鳩山幸の明るく、日本人離れしたオープンな性格は、アメリカナイズされたというよりも、アメリカ人そのものと
考えた方が理解しやすい。
- 43 :週刊文春10月8日号 F:2009/10/15(木) 01:46:12 ID:V6MlX6bf0
- 今回、小誌が訪ねた幸の叔母・多鶴は楠瀬幸男の妹にあたる。
ワシントンDCの海軍病院で医師として働き、すでに米国人の夫とは死別。
退職後の今でもパソコンを操り、洋書に囲まれた部屋で元気に余生を過ごす知的な女性だ。
多鶴の話は、1世紀前に遡る。
「高知県出身の私の父・楠瀬豊吉は20世紀初頭に渡米し、シアトルの製材所で親方として働き、日本人の
母とのあいだに、兄の幸雄や私が生まれました。
父は寄宿舎を建て、渡米してきた日本の若者たちを住まわせて職探しを手伝ったり、慈善事業のようなこともやってました。
その父が亡くなったのは1931年(昭和6年)、私は13歳、4歳上の幸雄がアラスカにサーモン漁に出かけている時でした。
高知にある遺産を相続するため、私たち家族は日本に戻ることになったのです」
春野町で「茶屋」という屋号をもつ楠瀬家は、土地やいくつもの蔵をもつ裕福な一族であった。
だが、シアトルでは家庭内の会話も英語だったため、日本語や、風習に苦労したという。
「兄は高知の工業高校を出た後、大阪の工業新聞で記者として働き始めました。
戦争が始まると、私たちは、辛かったですね。
毎月、家に憲兵隊がやってきて、『どちらが戦争に勝つか』と聞くのです。
私は母親から『絶対にアメリカって言うんじゃありませんよ』と言われていました。
それに、英語も禁止されたのです」
西宮に住むようになった兄の幸雄は、橋本秀子という女性と出会った。
幸の母親となる女性である。
- 44 :週刊文春10月8日号 G:2009/10/15(木) 01:46:56 ID:V6MlX6bf0
- 秀子が育った神戸の橋本家も、幸雄の家に似て、慈善活動を行う篤志家だった。
キリスト教信者であった秀子の父、橋本楠治(くすじ)は家に牧師を呼んで集会を行い、戦後は私財を投じて
戦災未亡人のための母子寮をつくった。
それが、神戸市の母子生活支援施設として現存する「離宮ハイツ」だ。
「幸さんの母方の祖父、橋本楠治さんはサンタクロースのような白い髭をたくわえた方で、クリスマスになると、
赤い服を着て、大きな袋をもって施設にみえるんです。
子供たちから髭のおじさん≠ニ慕われていました」(水野美禰子・離宮ハイツ理事長)
橋本楠治による石碑『汝の隣を愛せよ』は、今も離宮ハイツに残る。
楠治の三女で、母子寮の元理事長である橋本君子が話す。
「戦前、父は神戸の海岸通で船員さんに服を売るテーラーを営んでいました。
そのうち、船員さんが泊まる所がなくて困っていると聞き、県庁近くの山本通で旅館を始めたのです」
旅館の名は「諏訪山ホテル」。
3ヶ所に拡張し、一部は外国人向けに洋風のしつらえにしていた。
「秀子さんは私より9歳上で、父の前妻の子供です。
秀子さんは英語が抜群にうまく、小学校を卒業すると、いきなりパルモア英語専門学校に進みました。
『ふつうは高校生の年齢から進学する学校や』と言われていたのに、成績優秀だったんです。
旅館に泊まりに来る人たちが秀子さんの英語を耳にすると、『あの人の英語は違う。普通に習っても、
あんなに綺麗に喋れない』と驚いていました」(同前)
- 45 :週刊文春10月8日号 H:2009/10/15(木) 01:47:58 ID:V6MlX6bf0
- ◆アメリカで妻と娘たちを待ち続けた父◆
両親が離婚してからも、秀子は諏訪山ホテルの一角に住んでいた。
背が高く美人だった秀子は、宝塚歌劇団を希望したが、「手に職を」という父の方針に従い英語を身につけたという。
そして、アメリカの市民権をもつ楠瀬幸雄と結婚すると、夫妻は上海に渡った。
「自由人だった」と言われるアメリカ育ちの幸雄にとって、日本は窮屈だったのかもしれない。
昭和18年、長女・清美につづき、二女の楠瀬幸が上海で生まれた。
だが、新天地での生活は長続きしなかった。
幸雄に日本の召集令状が届いたのだ。
多鶴が話す。
「彼はアメリカの市民権を剥奪されました。
合衆国政府は、アメリカ市民が他国で兵役に就くことを認めていなかったからです」
戦況の悪化で、昭和19年、秀子と二人の娘は、幸雄を残して一足先に上海を脱出した。
だが、この引揚げ船で、幸たちは死の淵に追い込まれる。
深夜、上海から日本に向けて数隻の船団で航行中敵側から次々と魚雷の攻撃を受けたのだ。
月のない暗い空に炎が上がり、船が一隻、また一隻と音をたてて沈んでいく。
赤ん坊の幸を抱えた母親は、轟音に震えながら、ひたすら祈り続けたという。
そして、奇跡的に母娘をのせた一隻だけが日本に辿り着いたのだ。
- 46 :週刊文春10月8日号 I:2009/10/15(木) 01:49:27 ID:V6MlX6bf0
- 成長してこの話を聞かされた幸は、<人間の運命の不可思議さに思いを馳せるとともに、自分たちが神によって生かさ
れることを実感>したと綴るのだ(『魔法のつえ見つけた』鳩山幸・塩原洋子共著)
この体験こそ、その後の半生の特徴である、何ごともポジティブに肯定してしまう発想、スピリチュアルやオカルトへの
傾倒の原点だろう。
引揚げ後、一家は高知に疎開した。
近所の住民が回想する。
「みんな着物やモンペを着ていた時代に、お母さんの秀子さんはハイヒールを履いているからビックリしました。
幸ちゃんも当時から華があり、フランス人形みたいにウエストがキュッとしまったワンピースを着ているんです。
家には英語の本が山積みで、ご夫婦の会話が英語だったのをよく覚えています。
台所をキッチンと言ってましたし、和式のトイレを洋式に改造して、座って用を足していました。
私はそれが気に入って、便所を借りていたんです(笑)。
こんな田舎に来るような人たちではないと言われていましたね」
一家は高知を1年あまりで離れている。
母・秀子の実家、神戸坂口通にあった「諏訪山ホテル東館」の脇に建てられた一軒家に移ったのだ。
両親を「ダディ、マミィ」と呼び、怒られる時は「スパンキー!」とお尻を叩かれる。
テーブルにはトーストやベーコンが並び、部屋は洋風で椅子に座りベッドに寝る。
戦後間もない中、楠瀬家のライフスタイルは、アメリカ人そのものだった。
間もなく、幸の父、幸雄は単身渡米することになる。
- 47 :週刊文春10月8日号 J:2009/10/15(木) 01:50:33 ID:V6MlX6bf0
- 多鶴が回想する。
「兄の幸雄は神戸で貿易会社を始めましたが、優しく親切な性格で、ガツガツした商売人には向いていなかった。
戦後すぐにアメリカに戻った私も仕送りしましたが、結局、兄は貿易会社をたたみました。
そして当時、私が住んでいたシカゴに単身でやってきたのです。
シカゴでは工場勤務で2つのシフトを掛け持ちして働きづめでした。
一時は、金属片で片腕に大けがを負ったこともありましたね」
シカゴで働く幸雄は、妻と二人の娘がアメリカに来るものだと思い、待ち続けたという。
再び一家四人で暮らせるように、家庭用の大きな鍋もキッチンに買いそろえた。
しかしテーブルを家族がそろって囲むことは2度となかった。
幸は「父がアメリカで亡くなったため、母は得意の英語を生かして外資系企業の秘書として働くようになった」
と語っているが、前述のとおり、両親は離婚したのである。
母秀子と幸姉妹は、神戸市の外れにある潮見台の狭い文化住宅へと越した。
幸はアメリカンスクールから、カトリック修道会が創立した私立の名門、神戸海星女子学院に移った。
小中の同級生が語る。
「小学校から外国人のシスターによる授業があり、英語で歌ったりしますが、幸は英語の発音がすごくよかったのです。
中等部でもとにかく華やかで活発だったから、宝塚に入ったとき『幸だったら向いているし、よかったな』
と思いました」
おてんばな幸は、お固いミッションスクールの羊の群れの中の「黒い羊」だったと、自ら回想している。
- 48 :週刊文春10月8日号 K:2009/10/15(木) 02:57:06 ID:V6MlX6bf0
- ◆宝塚から自身のルーツ・アメリカへ――◆
父・幸雄がアメリカ人との再婚間もなくガンで亡くなったのは、幸が宝塚音楽学校に入る約2ヶ月前。
幸雄はまだ45歳の若さだった。
63年(昭和38年)、叔母の多鶴が、夫と日本を旅行した時のことだ。
テレビをつけると、NHK連続ドラマ『法善寺横町』が放送されていた。
藤本義一脚本で、藤田まこと、ミヤコ蝶々ら関西喜劇人が総出演するお笑いドラマである。
画面の中で多鶴が見つけたのが、亡き兄の娘、幸だった。
彼女は「関西の黒柳徹子」と異名をとるタレント「若みゆき」として活躍していたのだ。
宝塚の同期、夏川真巴が話す。
「彼女のニックネームはコンちゃん。
喜劇役者の大村崑の物真似が得意で、眼鏡をちょっとずらして人を笑わせるんです。
みんなの人気者でしたね」
ただ、幸は他の宝塚の生徒と違った点があった。
2年後輩の郷ちぐさが言う。
「この世界は1学年上というだけで直立不動になるんです。
先輩のダンスのリズムが少しでも狂っていたら、先輩に合わせなければならない。
でも、幸さんは『リズムがおかしいんじゃないですか』と、失礼がないようハッキリと言う人でしたね」
宝塚に入った年、彼女は母親と宝塚市の阪急沿線にある仁川公団団地に移り住んだ。
二部屋しかない小さな家だが、東京オリンピック前、都市郊外に団地が建ち始めた頃で、庶民に人気があった。
- 49 :週刊文春10月8日号 L:2009/10/15(木) 02:59:22 ID:V6MlX6bf0
- 高台にある見晴らしのいい部屋に、彼女はパリ公演の写真を飾った。
「狭いけど、私にとっては大切なお城です」と、雑誌「歌劇」で語っている。
この小さな団地から、鳩山家へと大きくジャンプするきっかけとなる一人の人物がいる。
喫茶店「アマンド」の創業者、故滝原健之社長である。
戦争中、中国戦線に慰問に来た宝塚歌劇団に魅了された彼は、新橋駅前の闇屋から身を起こすと、
宝塚のタニマチとなり、鳳蘭、越路吹雪、松あきら、扇千景などスターを連れて銀座を闊歩した。
若みゆきも参加した昭和40年のパリ公演では、現地でタカラジェンヌたちを何くれとなく面倒をみた。
東宝関係者の話。
「当時、宝塚はお見合い結婚が当たり前でした。
乙女の園では男性と出会いがなく、紹介しかないのです。
紹介者がアマンドの滝原社長であれば、宝塚がお世話になっている人なので間違いない話と思うでしょう」
滝原社長が「お嫁さんを探している人がいる」と幸を紹介した先は何の因果か、離別した父親が生まれ育った
アメリカ西海岸。
サンフランシスコの日本料理店「蝶々」の経営者の親族である日本人男性、田浦新一郎だった。
上海、高知、神戸、宝塚と流れてきた幸は、どういう気持ちでアメリカに渡ったのだろうか。
祖父も父もアメリカで息を引き取り、叔母はアメリカで医師となり、実姉も先にアメリカに嫁いでいた。
まだ見ぬルーツでもあり、身近な土地だ。
ところが、さらに運命の変転が訪れる。
「蝶々」を経営していた夫の義兄、故ジェームス坂田氏は小誌にこう語っていた。
「アマンドの滝原社長の主治医だった医学博士・佐藤三蔵先生が、日本から留学生がいくから面倒を
みてやってくれと手紙を書いてこられた。それが鳩山由紀夫君だったのです」
こうしてサンフランシスコを舞台に、裏切りのドラマが始まるのだ。
- 50 :週刊文春10月8日号 M:2009/10/15(木) 03:00:32 ID:V6MlX6bf0
- 「蝶々」を辞めた幸が従業員として働いていた宝石店の経営者、レナ・ターナー(「FUKU SUSHI」オーナー)が話す。
「幸さんは『夫とうまくいっていない』と言って、知人から紹介されて働き始めました。
特に義理の姉との関係がうまくいっていなかったようです。
ある時から『由紀夫、由紀夫』と言うようになり、これはデキているなと思いましたね。
自宅で彼に手料理を振る舞っていたようです」
宝塚で脚光を浴び、ルーツであるアメリカに夢を求めてきた幸にとって、日本料理店のウエイトレスとして
生きるのは窮屈だったのかもしれない。
やはりアメリカに来た弟の邦夫にも秋波を送っていたと語る関係者もいる。
当時、宝塚に住む母親が「いつまでもそんなことをしてたらあかんよ」と不倫と咎めると、幸はハッキリと
「いや、結婚します」と宣言したという。
◆流転の末に辿り着いたのは名門鳩山家◆
こうして彼女が辿り着いた終着点は、日本の名門・鳩山家となった。
弟、邦夫の衆議院議員初当選から10年後、由紀夫も政界に進出した。
当時から一貫して、
「僕は政治家にはなりたくなかった。
アメリカに留学していなかったら、また、女房と出会っていなかったら――。
この二つのどちらかが欠けていたら、私は絶対にこの世界に入っていなかった」
と公言して憚らない。
- 51 :週刊文春10月8日号 N:2009/10/15(木) 03:01:35 ID:V6MlX6bf0
- 前出の木下厚元代議士はこう言う。
「10年ほど前に母上の安子さんにお話を伺った際、こう仰っていました。
『由紀夫が政治家になると言い出した時はビックリした』と。
鳩山家としては、邦夫さんが政治家になり、由紀夫さんが一生を学者として通し、金銭面で弟を支える。
これが鳩山家の理想です、と」
安子は木下にこんな危惧を吐露したという。
「鳩山家は昔から女系家族で、女が強いのです。しかし、それはあくまでも家の中での話しです。
表向きは、妻が一歩も二歩も下って夫を支える。これが鳩山家の家訓です。
でも、幸さんは、おそらく由紀夫より前に出て引っ張り回すのではないでしょうか。
それは鳩山家を壊す原因になる可能性があります」
確かに、鳩山家は女系家族である。
祖父、鳩山一郎の母の春子は共立女子学園を創設し、薫も女子教育に尽力。
ブリヂストン創業者の石橋家の長女である安子は、由紀夫と邦夫という二人の政治家の財政支援をするゴッドマザーだ。
鳩山家の妻たちは社会活動家の顔をもちつつ、夫に仕えてきた。
こうした、日本人が好む「良妻賢母」とは違う幸のパワーを、安子は心配したのだろう。
流転の人生で身につけたのは、起こったことはすべて運命≠セと肯定して開き直れる強さである。
「スピリチュアルを知れば、必ず人生が楽しくなれる」これが幸の信念だ。
「ハワイにヒーラーがいれば、連絡先を調べるより先にハワイに飛び、長崎に不思議な能力の持ち主がいれば会いに行く。
江原啓之にも見てもらい、幸さん自身も昨年は鳩山会館で講演を行いました」(幸の知人)
鳩山会館の満席の聴衆に幸はこう語りかけた。
「いかにポジティブに生きるか、そして、いかにしてそういう考えになるか」
この暗示とともに生きてきた彼女こそ、日本の憲政史上、最強のファーストレディになるかもしれない。
(文中一部敬称略)
<了>
- 52 :女性セブン10月22・29日合併号 @:2009/10/15(木) 03:03:56 ID:V6MlX6bf0
- <抜粋>鳩山幸さん(66)ウエートレスからファーストレディーへ大階段の掟
(女性セブン 2009年10月22・29日合併号)
(省略)
幸さんの祖父・楠瀬豊吉さんは20世紀の初めに事業のため地元の高知から
アメリカのシアトルに渡り、父親の幸雄さんは当地で生まれた。
祖父はアメリカの地に永住するつもりだったのか、家庭内の会話も全て英語だったという。
そこで10代後半まで暮らした幸雄さんにとって英語は母国語のようなものであり、
メンタリティーもアメリカ人に近いものだっただろう。
しかし豊吉さんが亡くなると、アメリカの市民権を持ったまま幸雄さんは帰国。
高知の工業高校を出たのち、大阪で働き始める。
そして幸さんの母親である橋本秀子さんと出会い、結婚した。
幸さんの父母は、共にアメリカと深いかかわりを持つ中で生活してきた。
(省略)
秀子さんと幸雄さんは結婚後、上海に移り住む。
長女に続き、1943年に次女の幸さんが生まれた。
折しも戦争中で、中国戦線の戦況は悪化の一途をたどった。
秀子さんは夫を上海に残し、2人の娘とともに帰国することを決意する。
幸さんが1才くらいのときのことだ。
(省略)
のちに幸雄さんも帰国し、一家は楠瀬家の故郷である高知に疎開。
海側には魚師町、山側には田んぼやビニールハウスのあるのどかな片田舎に腰をすえ、
敗戦後の貧しかった時期に周囲が驚くほだハイカラな生活を送った。
父母にとってはアメリカスタイルの暮らしこそむしろ自然なものだったのだ。
- 53 :女性セブン10月22・29日合併号 A:2009/10/15(木) 03:04:44 ID:V6MlX6bf0
- (省略)
近隣に強い印象を残し、1年ほどで一家は秀子さんの実家がある神戸に移った。
ここでの生活もアメリカナイズされたものだった。
洋風の食事をとり、洋間でテーブルといすの生活。
ピアノも置いてあった。
幸さんは幼稚園からアメリカンスクールに通った。
このころ幸雄さんは第二の故郷といえるアメリカに再び渡る。
当地で妻子の渡米を待ちわびたが、結局叶わなかった。
のちに夫婦は離婚し、幸雄さんはその後アメリカ人女性と再婚。
息子をひとりもうけたといわれる。
(省略)
幸さんは小学生のころ、アメリカンスクールから神戸の名門・神戸海星女学院に転校。
中学卒業後の進路として、母の夢であった宝塚音楽学校を受験する。
(省略)
宝塚時代はテレビドラマやラジオにまで活躍の幅を広げていたが、在籍6年で退団。
退団を決めたのは、結婚を前提とした見合いがあったからだ。
そして1967年、その男性と結婚する。
相手は6才年上の、サンフランシスコにある日本料理店を経営する義兄の下で働く男性だった。
(省略)
1973年に夫との離婚が成立し、不倫略奪婚≠フ末、1975に由紀夫と再婚した。
一男をもうけて帰国後、1984年に夫が政界への転身を決意する。
<了>
277 KB
[ 2ちゃんねる 3億PV/日をささえる レンタルサーバー \877/2TB/100Mbps]
取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。新着レスの表示
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver 05.0.7.3 2008/07/26
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)