子どもへの虐待と暴力団の不法行為は、アンダーグラウンドの出来事として処理されるという点で似ている。警察は殺人事件にでもならなければ、暴力団にも家庭にも「身内の問題」として介入しない。異なるのは、組織化されている暴力団は暴対法によって取り締まることができるが、拳銃などの違法な凶器ではなく、本来子どもを護り慈しむべき「保護者」の手や脚が凶器となる子どもへの虐待は、「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒」することができるという「懲戒権」(民法第八二二条第一項)によって、手厚く護られ放任されている、という点だ。
家族以外の立ち入りを禁止されている「家庭の闇」は、この世のなかのどの闇よりも濃い「闇の中の闇」なのではないだろうか?
長谷川博一さんは、心理療法、犯罪臨床心理学(鑑定)、児童虐待、家族病理、自殺・自傷行為を専門とする臨床心理士で、『子どもたちの「かすれた声」』『たましいの誕生日 迷えるインナー・チャイルドの生きなおしに寄り添う』(日本評論社)、『お母さんはしつけをしないで』(草思社)、『断ち切れ! 虐待の世代連鎖 子どもを守り、親をも癒す』『あのとき、本当は……封印された子どもたちの叫び』『カウンセリングマインドの重要性 学校臨床の現場から』『よい子になりたい 少女の心に棲みつく悪魔』(樹花舎)、『たすけて! 私は子どもを虐待したくない』(径書房)など多数の著書がある。
長谷川さんは、大阪教育大学附属池田小事件を起こした宅間守被告に面会し、「臨床心理士が控訴を取り下げないように説得している」と報道されて、激しいバッシングに見舞われたにも拘わらず、被告自ら控訴を取り下げ死刑が確定した後に、十三回の面会を行ったことや、秋田連続児童殺害事件で畠山鈴香被告の心理鑑定を行い、拘置所内でのカウンセリング、文通を重ねたことで知られている。
最初は、取材をしようと考えていた。
しかし、長谷川さんの著書を十冊ほど読んで、このひとは、闇の外から懐中電灯で照らしてもなにも見えないことを知っている──、闇のなかに手探りではいっていき、全身を闇に浸して、闇を聴こうとしているのではないか、と感じた。
書くことを仕事に選んだ十八歳のわたしは、「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである」という吉本隆明さんの言葉を、「書く」ことと「生きる」ことの根拠にしていたが、でも、もしかしたら、わたしの内に在る凍った闇を「聴くこと」によって溶かしてくれるだれかの耳を求めていたのかもしれない。
わたしは長谷川博一というひとの「闇を聴く耳」を信じて、「ほんとうのこと」を話してみることにした。
夏休みの最中、八月一日の夜のことである。