時代と社会を相手に切り結んできた芥川賞作家が描く
著者初の本格ノンフィクション
第4回
一九九四年、国連総会で採択された国際条約である「子どもの権利条約」が日本でも批准された。当時二十六歳だったわたしは、『子どもによる子どものための「子どもの権利条約」』と『子どもの権利条約─条約の具体化のために』という二冊の本を購入して条文をくりかえし読み、「1 締約国は、児童が父母、法定保護者又は児童を監護する他の者による監護を受けている間において、あらゆる形態の身体的若しくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、放置若しくは怠慢な取扱い、不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む。)からその児童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる」という第十九条をノートに書き写した記憶がある。
「児童虐待」に関する新聞記事を切り抜き、子どもを「虐待」して死に至らしめた親たちの言い分に赤線を引くようになったのも、同じころだ。
「部屋を散らかしたので注意したが、言うことを聞かないのでカッとして首を絞めた」(九五年三月、五歳の長男の首をストッキングで絞めて殺し、三歳の次男の背中を刺して二週間の怪我を負わせた三十二歳の母親の言葉)
「長男が前夫に似ていて不快だったので殴った」(九五年七月、四歳の長男の背中を膝で蹴り、逆さに持ち上げて台所の床に落とし、うつ伏せになった背中に膝で体重を加えるなどして意識不明の重体に陥らせた愛人を庇った二十二歳の母親の言葉)
「自分の子供を世間に笑われないような良い子にするため、厳しくしつけていた。つい力が入ってしまった」(九七年三月、三歳の長男の言葉遣いや返事をしないことに腹を立てて、腹を蹴るなどして死亡させた二十五歳の父親の言葉)
「泣いたら顔をつねった」「車内で食べものをこぼすと殴った」(九七年九月、二歳の長女のおもらしに腹を立て、車から引き摺り出して殺害した二十三歳の母親の言葉)
──これだけではないだろう、ここに至るまでの道程があるだろう、犯人が母親、父親となるまでの二十年、三十年間を辿り直さなければ、何故我が子を「虐待」して殺害したのかを理解することはできないし、理解できなければ、事件を食い止める手立てを見つけることはできないのではないだろうか──。