二度ばかり、他人に見られたことがある。
S学園へと向かう坂道の途中で、柴犬を鎖の「ムチ」で打ち据えていたら、通りすがりの主婦に「なにしてるの? かわいい顔して酷いことするのねぇ……どこの学校? 学校に通報してやるからね!」と脅され、犬といっしょに坂道を駆け下りた。
父が一番かわいがっていた黄色い巻毛カナリアを風呂の残り湯に沈めて殺したときは、祖母(父の母親)に目撃されてしまった。
カナリアを庭に埋葬し、墓石にシロツメクサの花輪を供えて手を合わせていると、背後から近付いてきた祖母に怒鳴りつけられた。
「おまえは、なんで、アボジ(韓国語で「お父さん」)が大事にしていたカナリアを殺したんだ? え? なんで、殺したんだ?」
祖母は、素手でカナリアの亡骸を掘り返すと、わたしの顔めがけて投げつけた。グシャ! 額に命中し骨が砕ける音がして、「水浴びさせたら、溺れちゃったんだよぉ、ごめんなさい、ごめんなさい」と子どもらしい泣き声をあげて許しを乞うてみたが、祖母はカナリアを拾いあげてはわたしの顔に叩きつけ、また拾いあげては叩きつけた──。
鎌倉に自分の家を建てたときは、動物を飼うことはまったく想定していなかった。注意深く、徹底的に、動物を飼うことを避けてきたつもりだった。
だが、鬱が再燃した五年前に、過去に追い縋られてしまった。
ドーベルマン、イングリッシュ・コッカー・スパニエル、ラグドールのペアと六ぴきの捨て猫、ミドリガメ、ゼニガメ、ケヅメリクガメ、水槽は全部で六本もあり、アロワナやエンゼルフィッシュやグッピーやベタなどの熱帯魚を飼育している。
今年二月に、遂に、文鳥のペアを飼ってしまった。鳥だけはやめようと思っていたのに、鳥を飼わなくては、この家で暮らせないような気がしてきたのだ。
「本人は過去を忘れても、過去は本人を覚えている」
トラウマには、自分の身に起きたことを無意識にくりかえしてしまう「再演化」という性質があるそうだ。
わたしは、自分の内に同在する被害と加害を書くことによって変容させて、小説や戯曲のかたちで意識的に「再演」してきた。
小説や戯曲のなかに、加害者でもあり被害者でもある自分を匿ってきたのだが、わたしは、過去に見つかってしまった。逃げられるものなら、息がつづく限り、逃げていたいが、息子を産み、自分の家を建てたときから「再演」の幕が開いていたのだろう。
しかし、わたしは、この芝居に出演したくない。
この芝居を、息子に「再演」させたくはない。
わたしは、母と父から受け継いだこの芝居に幕を下ろすために、「虐待」という問題に関わるつもりだ。
つづく