昨日も、宿題がきっかけだった。
息子は、八月十一日から十六日まで、生後三ヵ月のときからみてもらっているシッターのTさんといっしょに(Tさんの故郷である)広島に滞在することになっている。
Tさんは、地元の同級生に頼んで息子が喜びそうな旅程を組んでくださっている。
宿題を広島に持って行くわけにはいかないのに、息子は消しゴムに鉛筆の芯を突き立てて折ったり、消しゴムのかすを集めて練り消しを作ったり、下敷きに絵を描いたりしてサボっている。
「いい加減にしなさいよ!」
と叱って、また、息子のとなりに座ってしまった。
算数のテキストで、息子が躓いているのは★ひとつの難易度が低い問題だった。
「3と9分の1-1と6分の5 これは、分母が違うからこのままじゃ
引けないね。通分すると?」
「3と18分の2-1と18分の15」
「その通り。でも、分子の2から15は引けない。さぁ、どうする?」
「う〜ん……」
「整数の3から1だけ借りてきて、分数に直せばいいんだよ。そうすると、18分のいくつになる?」
「18分の2?」
「それは、借りる前の分子の数字でしょ? 3から1を借りたんだよ?」
「あぁ、じゃあ2と18分の3になるね」
「整数と分子を足し算することはできません。この場合、整数の1は、18分の18でしょう?」
という調子で、書き損じた原稿の裏に数式を書いて教えていたのだが、いくら説明しても解らないので、次第に、というか加速度的に腹が立ってきて、気がつくと、自分の全重量をかけて怒っていた。
「馬鹿ッ! なんで、おまえはそんなに馬鹿なんだ! 頭も悪い! 性格も悪い! なんの取柄もないパッパラパーのアホ野郎め! おまえの頭んなかにはオガ屑しかはいってねーのか! いいか? おまえが、明日から十六日まで広島に行くことで、いいことがあるとしたら、おまえの顔を見ないで済むことぐらいなんだよ! 夏休みなんてなきゃいいのにッ! ずっと学校行ってろッ! ずっと塾行ってろッ! うちになんて帰ってくんなッ! おまえの顔なんて見たくねーんだよ!」
息子は鉛筆を握ったまま、唇をあわあわと震わせて泣きつづけた。
「ねぇ、どうして? どうしてそんなこと言うの? そんなこと言わないでよぉ……」
息子は今日広島に旅立ったが、わたしは、自分の罵声と息子の泣き声のなかに取り残されて身動きがとれないでいる。息子を怒りにまかせて蹴ってしまったことよりも、息子に、息子の存在そのものを否定するような言葉を投げつけてしまったことのほうがショックだった。言葉は、自分から息子へと架ける橋のようなものであってほしいと願っているのに、言葉は、息子とわたしの絆はおろか、息子とわたしの存在までを打ち砕く凶器と化している。
その言葉を手がかりにして、この問題を書いて考えなければならない、ということに大きな矛盾と疚しさをおぼえているのだが、それでも、わたしは、自分の内に在る重苦しい沈黙に、言葉で近づいて行くしかない──。
つづく