「警官はイスラム寺院を出た従弟をいきなり射殺した。さらに遺体を車で引きずり回したんだ」
ロシア南部チェチェン共和国の首都グロズヌイ近郊に住む20代の男性は、匿名を条件に証言した。外国に暮らす従弟が今夏、一時帰国していた際、数時間前に起きた警察官殺害事件の容疑者として警官にその場で殺されたというのだ。その後、従弟のアリバイから無実が証明されたが、「警察の報復が怖かったので告訴しなかった」と男性は話した。
1999年10月に本格的に始まった第2次チェチェン紛争は今年4月、連邦軍がチェチェン独立派の制圧に成功したとして「テロ作戦体制」を解除。実際、大規模な戦闘はなくなり、治安も大幅に改善された。市民は普通の生活を取り戻している。だが、共和国ではロシア政府の後押しを受けるカディロフ大統領(33)が権力を掌握し、反対する者への不当な逮捕や拷問などが後を絶たない。
チェチェンでは7~8月、著名な女性人権活動家エステミロワさんや人道支援団体の代表らが相次いで殺害された。エステミロワさんはカディロフ政権の腐敗ぶりや人権侵害を批判していたことから、大統領周辺の関与が疑われている。
強権支配におびえる市民も多い。記者がある一家を訪れた際、エステミロワさんについて尋ねたところ、全員が「彼女の存在を知らなかった」と答えた。ところが翌日、そのうちの一人が「実は知っていたが、皆がいる前で話したくなかった」と間接的に伝えてきた。
チェチェンでは山間部などで依然として政府軍とイスラム武装勢力の衝突が続き、グロズヌイでも自爆テロが散発している。「治安を完全に回復するためには大統領の指導力が欠かせない」(イスタムロフ北カフカス戦略研究センター所長)と「力による安定」を望む風潮がある。
一方で、武装勢力の脅威が誇張されているとの声も聞く。「エミール」(イスラム国家の長)を名乗るウマロフ司令官の実態は、乱立する武装集団の一派を率いるに過ぎないといわれる。「カディロフ大統領は一部の武装勢力の活動を容認し、強権支配を正当化するのに利用している」。グロズヌイ近郊のある地域の有力者はこう語った。
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10年にわたる泥沼の戦闘の末、表面的な安定を取り戻したチェチェンだが、内部には不穏な要素を抱える。混迷が続くチェチェンの実情を報告する。【グロズヌイで大前仁】
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■ことば
ロシア・チェチェン共和国で、独立を求める武装勢力と連邦政府の間で続いてきた紛争。同共和国はソ連末期の91年に独立を宣言。ロシア軍は94年に軍事侵攻した。96年に停戦合意したが、99年にロシア軍が再び軍事侵攻。武装勢力側はモスクワ劇場占拠事件(02年)や北オセチア共和国での学校占拠事件(04年)などを起こし、世界を震かんさせた。2度にわたる紛争で双方から30万人超の死者が出た。
毎日新聞 2009年10月8日 東京朝刊