2009年10月22日

日本人はだまされてきた B

今日は、2つのこれまで「だまされてきた」ことについて書きます。

 

1、「格差は広がっていない」

日本の貧困率は世界4位だそうです。小泉内閣時、竹中大臣はジニ係数からみると格差は広がっていないと公言していました。路上生活者が溢れるこんなひどい国に誰がした、日本人は自民党長期政権を徹底的に省察しなくてはなりません。

 

ちなみに、貧困率世界一位のメキシコでは、自殺する人はほとんどいないそうです。日本は年間約3万人、人口約15万人の東村山市の全市民が5年で消えてしまう「恐ろしい」数字です。

 

日本は「一億総中流」と言われてきましたが、コロッとだまされていたという印象です。

 

『週刊ダイヤモンド』(08830日号、特集「格差世襲」より



<引用開始>

このジニ係数が0.5という状態は、所得の高い上位25%の人たちが、日本全体の富の75%を持っていることを示します。ですから、残り25%の富を下位75%の人たちが分け合っていることを意味しているのです。

<引用終了>

http://news.livedoor.com/article/detail/4391271/

 

さて、ノブレス・オブリージュという言葉を知っている人はどれくらいいるでしょうか。日本語では「高貴なるものの義務」と訳されていますが、残念ながらこの概念は、「読売的エゴイズム容認主義」とは180度異なるものであり、日本社会では受け入れられていません。 


ウィキペディアより引用

ブレス・オブリージュ
  一般的に財産権力社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。この言葉の意味する概念自体は、新約聖書福音書に由来している。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカによる福音書1248)(新共同訳) 


鉄鋼王と言われたアンドリュー・カーネギー



 彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。また、社会ダーウィン主義の実践者でもあり、不平等な状態を是とした。無条件に貧しいものへ与えることを有害とし、努力する者を支援するために富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしている。「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し、死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行ったスタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。 


大前研一氏は、講演で「日本人は死ぬ時がいちばん金持ちである」「年金さえも3割を貯金に回して貯蓄に励み、死ぬ瞬間に3500万円を残して死んでいく」と話すそうです。 


日本の「高貴なる者」「長者」も「富を持って死ぬことは不名誉である」という哲学を受け入れていただきたいと願ってやみません。 
 

2、象徴天皇とは



日本国憲法第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


 
シンボルの哲学的意味

<引用開始>
「人間は象徴を操る動物である」と定義したランガーの師カッシーラーは、象徴能力が、環境への適応にとどまらず、新しい意味づけによる環境創造の能力であることを強調した。
<引用終了>
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB/ 


「太陽」は、光と熱を発する能力を有しています。放射能物質は、放射線を発する能力を有しています。それでは象徴天皇は何を発する能力を有しているのでしょうか。欧米人やキリスト教徒ならこのように答えることでしょう。 


「友愛(人間愛、思いやり、分かち合い)のオーラ(人体から発散される霊的なエネルギー)です。」 


私はこれまでも天皇を敬愛してきましたが、天皇が発せられる「愛」をあまり意識していませんでした。今はクリスチャンになり、天皇の存在はクリスチャンにとっての「父親」つまり「神」の存在であると気付き、天皇の発せられる愛により、とても心温まる気持ちになりました。 


戦後GHQ(連合国軍総司令部)は、日本国民の統合という役割を天皇に求めたのだと私は考えるに至りました。(神格化されていた天皇の人間宣言は、「天皇は天地創造の神ではない」ということを示したものと考えられます。)

 

つまり、「だまされてきた」のは、天皇は象徴能力を持たない「シンボル(記号)的象徴」であり、日本国民の「父親」的な存在ではない、と操作されてきたことです。

 

キリスト教徒から見れば、天皇は神ではありませんが、間違いなく国民の「父親」的存在です。であるからこそ、総理大臣などを「親任」するのです。「親告罪」が「申告」でなく、「親告」なのもうなずけます。

 

皇族の方々が全国民に注がれる「愛」は、まぎれもなく「家族愛」そのものである、私はそう考えます。