11. よみがえる過去

   

   

森へ入ると、ひんやりとした空気が肌に染み込むようで気味が悪かったので、僕は持っている上着に袖を通した。

ここは一足早く冬が訪れたようだ。

むせ返るような土の匂いに包まれながら僕は彼の背中を追った。

彼はするすると木の間を抜け、どんどん森の奥へと進んでいく。

お気に入りの場所、そう言うだけあって、彼の歩くルートは決まっているようだ。

木の根に躓かないよう足元を見ていたら、いつの間にか僕は彼の驚くほど細長い脚に見入っていることに気がついた。

僕は先日、死んでしまった彼の姿を見て、あまりにも綺麗だったのでマネキンなのではないかと思ったのだが、よくよく見ると彼はマネキンなんかよりももっと端整な形をしていた。

そして、あんなに頼りなさそうなものがよくしゃきしゃき動くなあと、いたく感動してしまった。

どのくらいの間かわからないが、彼の脚ばかり飽きずに眺めていると、彼の足がぴたりと止まったので僕は我にかえり立ち止まった。

急に音が消え、時間も止まってしまったようだった。

到着したのかと思い辺りを見渡してみたが、なんでもない場所だったので僕はどきっとして振り向いた彼を見上げた。

彼はほんのり笑みを浮かべて

「大丈夫?まだ、もう少し歩くんだけど」

そう言って首を傾げた。

彼の黒い髪がさらりと優雅に揺れた。

僕は思わず体の力が抜けて息を漏らした。

大丈夫です、そう返事をしようと口を半分開けたところで、彼の視線が僕の口を閉ざしてしまった。

髪にうっすらと透けた瞳が僕をしっかりと捉えていた。

僕は、それに違和感を覚えた。

どうしてだろう、そこにいるのはいつもの彼なのに、まるで違う人みたいだ。

ああ・・・そうか。

僕、今初めて彼と目が合った。

そう思った瞬間、言葉や雰囲気からでは読み取れない生命の意思が、僕と彼とを繋いだような気がした。

彼は、人間で、そこにいて、僕を見ている。

あやふやだった彼の形が、眼鏡をかけたときのようにピントが合った。

それが嘘のように綺麗な景色だったので、僕は思わず大げさにまばたきをしてしまった。

そして頭の中で、そういえば、図書室で僕と彼はこんなふうに見つめ合っていたのだろうかと思っていた。

僕には見えていなかったが、彼には僕の眼が見えていたはずだ。

仮に目が合っていたのなら、どうして僕が彼に興味を抱いていることに気がつかなかったのだろう。

どうして三年半もじっと動くことなくあの席に座り続けたのだろう。

僕の思考はそのことで薄暗く渦巻き、次第に影を落としていった。

彼に名前を呼ばれ、僕ははっとして顔を上げた。

「ちょっと速く歩きすぎたかな」

そう言って彼は少し困った表情をした。

「あ、違います。僕まだまだ元気です。さあ行きましょう」

僕は焦ってそう言った。

彼は安心したのか、また頬を緩め、冷たい手で僕の手を握った。

「よかった」

そうして僕たちは再び歩き出した。

冷たかった彼の手は、次第に暖かくなり僕の手の中で溶けていった。

木々の間隔が大きく開き、土がむき出しの地面に草が生え、光が濃く鋭くなった頃、僕はもうへとへとで秋だというのにうっすら汗をかいてしまった。

休日に部屋で丸一日ごろごろする予定だったのに、友人にカフェテリアでお昼ご飯を食べようと誘われ断れなくなり、急いでお風呂に入り髪をセットし着替え、部屋を出たのにカフェテリアが閉まっていて、落ち込んで帰ろうと思ったらクラスメイトの誕生日パーティーに誘われまたもや断れずそのまま行ってしまったときと、なんだか似ていた。

僕は、こんな長旅になるなら、もう少し心の準備が必要だったと言いたかった。

準備ができていれば、もう少し気持ちの面で疲れていないはずだ。

彼に非難の声を浴びせようとしたとき、目の前が急に限りなく白い水色に染まった。

驚いて目をつむると、頭上で彼の嬉しそうな声が響いた。

「着いたよ、シャルル」

僕は恐る恐る目を開けた。

「・・・わあ!」

目の前に、眩しく、思ってもみない景色が広がった。

そこは、森の中のぽかんと空いた空間にできた池だった。

水の色がグラデーションになっていて、深いところへ行くほど、真っ青になっていく。

それは、目を細めてしまうほど、濃く、鮮やかな奇跡のような青だった。

神様が喉を潤すための、美しい水のようにも思えた。

陽が当たり、水中にすとんと落ちて、きらきらと輝きながら揺れている。

世界中の綺麗な、心奪われるものを、この池にぎゅっと凝縮してしまったような神聖な景色だった。

僕は胸がいっぱいになり、苦しくてうまいこと言葉が出なかった。

感想を言いたいのに、どうしても喉でつかえてしまう。

そんな僕を見て、彼は微笑んでただ、僕の隣に立っていた。

そして静かに口を開いた。

「こういうの、ブルーホールって言うんだよね。世界に何箇所かあるみたいだけど、ここは僕と、シャルルだけのブルーホール。きっと誰も、知らない」

彼はにっこりとすると、木の影にゆっくりと腰を下ろした。

そしてすぐ隣の地面をぽんぽんと手で叩き、僕を座らせた。

「嫌なことがあると、よくここに来るんだ。この青さが、嫌なことを全部吸い取ってくれるような気がするから」

そう言った彼の顔は、妙に爽やかで、なんだか幼く見えた。

水面に反射した光が彼をゆらゆらと撫で、それが彼をこの世のものとは思えないほど、儚くしていた。

「それから、気づいた?ここはもう学校の外なんだ」

「え?柵は?」

僕は驚いて言った。

確か、この学校は柵でぐるりと囲われているため、門以外からは外に出れないはずだ。

「僕も最初は気づかなかったんだ。でも、森を探検しているうちにわかったんだけど、学校の柵は、この森を挟んでできている。だから森の中まで全部柵で繋がっていると思ったら、そうじゃないんだ。森に入ってすぐのところで、途切れているんだ。多分、森の所有者が学校の人間じゃないとか、そういう理由でだと思うんだけど」

「そうだったんですね。じゃあ、僕たち、囚われの身じゃなかったんだ」

僕は、なんだか急に釈放されたような気がして嬉しくなった。

「そう。いつだって自由だったんだ」

そして彼は静かに呟いた。

「だから・・・余計にここに来ちゃうのかな」

「・・・先輩?」

僕は彼の寂しそうな横顔を見て、図書室にいた彼を思い出した。

時折何かを思い出したように俯いていた、彼を。

「先輩、僕ずっと聞きたかったことがあるんです」

「・・・何?」

彼は、恐らく何を聞かれるのかを察したのだろう。

彼の顔が少し緊張で強張ったのがわかる。

「僕、図書室で、ずっと先輩のこと見ていたんです。・・・気づいていましたよね?」

彼は俯くと、少し笑った。

「やっぱりばれてたか」

彼はしばらく黙って光る水面を見ていたが、覚悟を決めたのか、顔を上げた。

「正直に、全部話すよ。僕が君を好きになった理由。また君を怖がらせてしまうかもしれないけど・・・これだけは許して欲しい」

僕は、そんなに深い意味は期待していなかった。

それだけに、正直に、なんて言われてしまい、今度は僕が覚悟しなくてはと思った。

これを聞いて、僕たちがばらばらになってしまわないことを、祈った。

「君には・・・ショックな話だと思う。でも、これが本当のことなんだ」

彼は、ゆっくりと語り始めた。

「僕には、幼い頃好きな女の子がいた。近所に住んでいて、毎日遊んでいたよ。すごく可愛くて、健気で、優しい子だった。僕は友達がいなかったし、本当に、その子が全てだったんだ。・・・両想いだということに気づいてからすぐだったかな、僕はあることを理由に学校でいじめられるようになった。親も冷たい人間でね、僕が傷だらけで帰ってきても手当てはしても、他には何もしてくれなかった。世間体ばかり気にしている人たちだったから、学校には報告しなかったし。僕自体も煙たがられていた。でも、彼女だけは僕をかばってくれた。彼女が巻き添えになることをわかっていても、弱かった僕は、止めることをできなかった。そのうち、彼女もいじめられるようになって、よく二人でぼろぼろになって家に帰ったよ。もちろん、彼女の親は驚いて理由を聞いたけど、彼女は決して話そうとしなかった。そして、ある日、彼女は上級生に・・・レイプされてしまった。それを知ったのは、親が夜中に、学校で聞きつけたらしい彼女の噂をしていたからだった。・・・ニ日も経っていたんだ。心配で心配で、気が変になるかと思ったよ。僕は朝、学校も行かずに病院に駆けつけた。そこには、痛々しく横たわった彼女がいた。髪の毛はところどころむしり取られ、目は殴られたのか、ひどく腫れ上がっていて真っ青だった。包帯でぐるぐる巻きにされた彼女の顔は・・・もう僕の知っている顔ではなかったよ。怪我でではなくて、ものすごいストレスで、顔が歪んでしまっていた。憎悪や嫌悪、そういったもので彼女はいっぱいになってしまった。僕のせいだった。わかっているのに、怖くて声をかけられなかった。彼女は固まっている僕を見るなり、叫んで、暴れ出して・・・あんたのせいよ、この化け物、死んじまえって。そして彼女は、そのままショック状態に陥って・・・死んでしまった」

   





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