10. 消えるドーナツ



「あれ?カフェテリアはあっち・・・」
部屋を出たらお昼ご飯を食べると言っていたのに、彼はカフェテリアとは違う方へと歩いていく。
「ペストリーで買おう」
彼は少し落ち着かない様子でそう言った。
最初は納得がいかなかったが、ペストリーへ向かう途中、何度も「カラス」という言葉を耳にして僕はようやく彼がカフェテリアを避けた理由がわかった。
彼はこの学校で、良くも悪くも有名人だったからだ。
すれ違う人たちが、彼を見ては驚きこそこそと話をする。
自分のことではないのに、それが耳障りで僕はとても不愉快だった。
そしてそれ以上に、彼の傷ついているであろう心が、悲しかった。
僕は俯き、黙って彼の踵が歩いていくのを見ているしかなかった。
突然、彼の足が止まったので僕も一緒に止まった。
何事だと思い、細い彼の背後から前方を覗き込んだ。
「あれ、カラスじゃん。昼間に外にいるなんて珍しいな」
ペストリーの一歩手前の廊下で、上級生らしき三人組が立ち止まり彼に声を掛けていた。
「図書委員のお姫様と一緒なんだな」
「あの噂本当だったんだ」
そう言って上級生たちは道を塞ぐと、彼が宗教団体に絡んでいることや、魔術を使えること、僕と結婚するということを反応のない僕たちに向かって面白おかしく話してくれた。
僕にはちっとも面白くなかったけれど。
僕は苛立つばかりでどうすることもできなかった。
黙って、上級生が笑いながら好き勝手言うのを聞いていると、僕はあることに気がついた。
さっきまでとは違い、ただならぬ鋭い空気が流れていた。
それは、彼が原因だった。
怖くて、彼のシャツに触れることすらできなかった。
静かな怒りが、静電気のように体中に纏わり付いているのが目に見えたから。
「そこをどいてくれない」
彼はそれだけ言うと、黙った。
僕は、彼が今にも上級生たちを殺してしまうのではないかと思い気が気でなかった。
「シャルルって名前なんでしょ君」
何も反応のない彼を困らせようと、上級生たちの内の一人が僕に絡んできたが、僕は怪訝な顔をして後ずさりをするのが精一杯だった。
「本当に女の子みたいだな」
そう言って上級生の手が僕に伸びた瞬間、その手を払い除けると同時に彼の背中が僕の視界を遮った。
「触るな」
彼が短いその言葉を口にした途端、ふざけて笑っていた上級生たちの顔色に恐怖が色濃く滲んだ。
そしてまるで化け物を見るような目で彼を見たまま、固まってしまった。
その表情を見た瞬間、空気が、止まった。
僕には彼の顔は見えなかったが、そのとき僕が上級生よりも、彼に恐怖を感じていたことは確かだった。
彼の背中から、空間が歪むほどの殺意が噴き出していた。
鳥肌が、立った。
ここに、何がいるの?
この人は、誰?
嫌、殺さないで・・・。
暴力的なまでの力で、僕の恐怖という感情だけが彼の引力に吸い寄せられてしまう。
それと同時に、あまりの圧迫感から僕の足は意識とは異なりずるずると彼から離れていった。
そして気づいたときには、彼に背を向け走り出していた。
この歪んだ空間から、一刻も早く出たかった。
心臓が痛いくらいに脈打って気が遠のいた。
視界が揺れて、うまく走れなかった。
僕は・・・何を見たのだろうか。
考えようとしても、そんな余力はなかった。
それとも、僕の頭が勝手に考えてはいけないと判断したのだろうか。
やっとのことで外へ出ると、僕は木の陰へへろへろと腰を下ろした。
呼吸を整えていると、木漏れ日が僕を優しく撫でていることに気がついた。
酸欠の頭で、ここはもう安全だ、そんなことを考えていた。

柔らかな雲の流れる青空をしばらく眺めていると、背後から枯葉を踏みしめる音が聞こえてきた。
僕には誰が歩いてくるのかわかっていた。
しかし、振り向くことはできなかった。
一度取り込んでしまった恐怖を追い出すことは難しかったから。
膝を抱えて、足元の枯葉を見つめることしかできない。
枯葉の潰れる音が、死体に暴力を振るうような行為にすら思えてきた。
そしてその音が僕の真後ろで、止まった。
僕は殺されやしない、と心の中で何度も呟いた。
それでも不安は拭いきれず、体が徐々に硬直していった。
こんなにもよく晴れた素晴らしい秋空の下で、よりによって僕が殺されたりするのだろうか。
「ごめん。怖がらせるつもりは、なかった」
彼がそっと呟いた。
「君を、護りたかった」
彼に先ほどの狂人のような殺気はなく、嘘のように穏やかだった。
彼のぽつりぽつりとこぼす言葉を、僕は背中で静かに聞き取っていた。
彼の声は小さく、今にも消え入ってしまいそうだった。
そんな彼を、僕はいつの間にか愛おしいとさえ感じるようになっていた。
最後の恐怖が、ため息に混じりに気体となり空に溶けていった。
僕はゆっくりと立ち上がり彼の方を向いた。
何も言わず、ただ黙って彼の表情を探していた。
彼も同じく口を閉じたままだったが、代わりに一歩僕に近づいてきた。
そして静かに僕の前に跪くと、僕の両手を握り、目を閉じた(ように見えた)。
「僕は無神論者だから、誰に誓うこともできない。だけど、君に約束する。もう絶対に怖がらせたり泣かせたり、しない。来世も君の側で生まれ変わり君を護る。君を愛す」
その瞬間だけは、やけに白くぼやけて、だけどはっきりと捉えられた気がする。
僕と彼が、今ここに存在している、そう強く感じた。
炭酸水を飲んだときのように透明で、甘美な世界だった。
ああ、怖いくらいにどきどきしている。
彼の真剣な顔が緩んだとき、僕の視界は光が屈折しゆっくりと歪んでいった。
「さあ、行こう」
僕は頷き、彼の白く暖かな手に包まれ歩き出した。
黙って歩いていると、僕は結局彼がどこへ向かっているのかを知らない事実に気がついた。
先ほどは必死で走って逃げてきたため、今自分がどの辺りにいるのかわからない。
恐らく、後ろに見えるのは六年生の寮棟だと思うのだが。
正面に見えるのは・・・と目を細めたとき、僕は思い出してしまった。
それは間違いなく「悪魔の森」だった。
この学園の生徒なら誰でも一度は耳にする噂の内の一つでもある。
六年生の寮棟の裏手に存在していて、背の高い木が密集しているため昼間でも地面まで陽が届かない暗黒の森だという。
そしてその森には赤い眼をした悪魔が住みついていて、運悪く会ってしまうと、食い殺されてしまうらしい。
しかし、実際に悪魔に会ってしまった生徒がいるが、ドーナツを持っていたため奇跡的に生還できたという話だ。
悪魔はドーナツが好物らしい。
・・・なぜだろう。
この学園の噂話には、必ずオチがある気がする。
案外、大丈夫かもしれない。
森の入り口まで来ると、僕は息を呑んだ。
想像していたよりも、暗かったから。
奥に行けば行くほど、光が遮られ消えていく。
彼は一体こんな場所に何をしにいくつもりなのだろうか。
僕たち、残念なことにドーナツは持ち合わせていない。
万一、噂の悪魔に遭遇してしまったらどうなるのだろう。
彼が護ってくれるだろうか。
身を挺して、僕を助けてくれるだろうか。
「何をしに行くんですか」
悪魔の森に足を踏み入れようとしたとき、僕は思わず躊躇い彼の手を振り払った。
驚いた彼は振り向くと、可愛く首を傾げてみせた。
「何って、散歩だよ。」
そして彼はにこりと口角を上げると、僕の髪を撫でた。
「僕のお気に入りの場所なんだ。シャルルにも見せたい」
悪魔の森がお気に入りだなんて、やっぱりこの人は変わっていると思った。
僕が相変わらず不安そうな顔をしていると、彼が顔を近づけてきてそっと囁いた。
「何をしに行くと思ったの?」
いたずらに笑う彼の顔を見て、僕は彼の言う「何」が何を意味しているのかを大まかに理解して急に顔が熱くなった。
今までの僕だったら、間違いなく理解できなかった。
しかし、彼に部屋で妙なことをされるようになってから、彼の中で僕がそういう対象になっているという事実を突きつけられ、理解せざるを得ない情況になったのだ。
ぼんやりしていたら、いつかきっと身に危険が及んでしまう。
それにしても、男同士で及ぶ「危険」とは一体何なのだろう。
僕も、深いところまでは思考が及ばなかった。
想像の範囲を大きく超えるだろうか・・・?
「ちょっと暗いけど、僕がいるし大丈夫だよ。行こう」
彼はそう言って意気揚々と森の中へと足を踏み入れていった。
僕の抱える不安要素の中に、彼自身が入っていることを、彼は知らない。
 




      BACK / TOPNEXT