6. ブラックアウト



「おかえり」
持っていた鍵でドアを開けると、「カラス」が僕を出迎えてくれた。
よく知りもしない人に「おかえり」と言われるのはなんだか新鮮で照れくさかった。
彼は少し心配そうに僕の顔を眺めた。
「君のルームメイト、許してくれた?」
僕はうん、と小さな嘘をついて彼の見えない瞳を探した。
彼は優しく微笑むと、僕のトランクを持って部屋の奥へと歩いて行った。
そして振り向くと、入り口で突っ立っている僕においでと言うように首を傾けた。
奥へ行くと品の良い黒のロココ調のソファやカウチ、テーブルがあって、窓には光を容赦なく遮断しそうな分厚い黒いカーテンがされていた。
天井にはやはり真っ黒で重そうなシャンデリアがぶら下がっていた。
僕は、シャンデリアは部屋を明るくするための物なのに、あんなに暗く禍々しい物がぶら下がっているのはどうだろうと心の中で呟いた。
「すごいですね。僕らの部屋はこんなに良い家具じゃない。」
僕が驚いてそう言うと彼は笑った。
「六年生の部屋は元々空なんだ。だから全部自分で家具を持ち込まなきゃいけない。一人部屋だからっていう理由だと思うけど。まぁ僕も自分の家具の方が落ち着くし」
家具を見て思い出したが、そういえば彼は本当に真っ黒な服を着ていた。
「そこに座ってて。君のトランクを部屋に置いてくるから」
そう言って彼は更に奥の方へ行ってしまった。
仕方なく僕は近くにあったソファに腰掛けた。
彼がいなくなってから、僕は不思議な感覚に陥った。
彼の部屋には初めて来たわけではないのに、何もかもが初めて見る物ばかりだ。
どうしてだろう。
少し考えて、思考があの恐ろしく暗い夜に辿り着いた。
そうだ、あの夜は電気が点いていなかった。
物のシルエットが心細く闇に浮かぶだけだった。
そして彼はここに、倒れていた。
僕は、その場所をぼんやりと眺めた。
今さっきまでここで彼と話していたのに、僕は彼が死んでしまったような気がしてならなかった。
僕は誰と話していたのだろう。
彼はどうしてここにいるのだろう。
彼は生きた人間なのだろうか。
僕は急に怖くなって死んだはずの彼が、早く戻ってくるよう強く願った。
あの日から冷たい肉の感触が僕の手から消えることはなく、ただ静かに体温を奪っていくようだった。
いてもたってもいられず、僕は膝を抱えてぎゅっと目を閉じていた。
すると、どこからとなく甘い匂いがしてきた。
漂っているというよりは、感覚として捉える感じに似ていた。
「またこの匂い・・・」
そう呟くのと同時に、アルフォンスが買ってきてくれるミルフィーユとこの匂いが結びついた。
ああ、そうだ、ケーキの匂いに似ている。
しかし顔を上げて辺りを見渡すも、匂いの根源は見当たらなかった。
もうどうでもよくなって再び目を閉じると、遠くから彼の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「大丈夫?」
目を開けると、思ったよりも彼の顔が近くにあった。
びっくりするほど真っ白で美しい彼の顔に、僕はうっとりしていた。
今、この人が幽霊だと言われたら僕はきっと信じてしまうと思う。
そのくらい儚く脆い、不安定な美しさだった。
ソファに座る僕の前に跪いて彼は心配そうに僕の前髪に触れた。
「シャルル?」
彼は、僕のことを想って自殺したけど、そんなことをしなくてもずっと、僕は彼のことを想っていたのに。
もう随分長い間、見つめ合っていたというのに。
「先輩・・・もう、どこにも・・・行かないで下さい」
そう言うと、僕の目から涙がぽろりと落ちた。
どうやら、自らの手で結界を破ってしまったようだ。
涙がどうにも止まらなくなってしまった。
彼は困って、僕のきりのない涙を一生懸命指で拭っていた。
彼の暖かい指が、僕の頬に何度も触れる。
それがどうしようもなく切なくて、僕は自分の涙で濡れた彼の手を握り頬ずりをした。
自分が何を求めているのかもよくわからないまま。
すると、彼は応えるように僕の手を強く握り返して、小さく僕の名前を呼んだ。
次に目を開けたとき、僕の視界は黒一色に染まった。
鼻先に彼の髪が触れて、僕の唇に彼の少し冷たい、薄く柔らかい唇が当たった。
慰めるように優しく何度も啄ばまれ、気づけば僕はねだるように唇を開いていた。
間もなく入り込んできた熱い舌に僕は翻弄され、何もかも忘れてとろけてしまいそうだった。
最後の涙が頬を伝って、僕らの唇に落ちていく。

「カ・・・先輩!」
僕は図書室で返却された本を棚に戻しているところだった。
そこに突然カラスが現れ僕の腕を掴んだので、僕は思わず図書委員らしからぬ大声を上げてしまった。
閉館間近の図書室は人気がなく、カウンターからも遠い場所にいたため僕は助けを呼ぶのを諦めた。
というのは、僕はとっさに何の理由もなしにカラスに殺されるような気がしたからだ。
いくら先生からカラスが目を覚ましたと聞いていても、誰だって死んだと思っていた人間がひょっこり現れたら、少なからず恐怖を感じるはずだ。
いまいち彼が生きているのが実感できなくて、失礼なこととわかっていても僕は彼をじろじろと見てしまう。
学校に戻ってくるのかどうかもはっきり聞かされていなかったし、僕はもうてっきり戻ってこないものだとばかり思っていた。
「今日、学校に復帰したんだ。それで、どうしても君と話がしたくて」
小さな声で、しかしはっきりと彼はそう言った。
しかし僕はまだ幽霊と話をしているような気分だった。
未だに僕の手を掴んでいる彼の手は人間と思えないほど冷たかったし。
話をしたい、という彼の思考が全く読めなかった。
それに、何と声を掛ければいいのかわからなかった。
先日は大変でしたね、と言うのも何かおかしな感じがしたし。
居心地が悪くて床を見ていると、視界の上の方で何かが動いたのが見えたので僕は少し驚いて顔を上げた。
彼の華奢な手が本を差し出していた。
それは、例のムーミン谷の彗星だった。
「期限過ぎちゃったけど、ごめんね」
僕は本を受け取った。
「あの、どうでしたかこの本」
僕はなんとなく聞いてみた。
詳しい感想は期待していなかった。
すると、彼はばつが悪そうに苦笑いして言った。
「実は・・・読んでない」
「どうしてですか?」
「これは・・・そう、口実みたいなものだから」
僕はますますわからなくて眉間にしわを寄せた。
すると、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
「僕が三年生になってしばらくしてから、授業で難しい課題が出たんだ。僕は、別に本を読むのは好きじゃないから図書室には滅多に行かなかったんだけど、その日は仕方なく資料を探しに行った。人の多いところも好きじゃないし、さっさと資料を見て帰ろうと思っていた。でも僕は、君を、見つけてしまった。僕は目を奪われて、日が暮れていくのも気づかないほど君を夢中で見ていた。それからは、君のことが愛おしくて、夜も眠れなくて、狂おしかった。君がいる日は図書室に入り浸った。はじめは遠くから見ているだけでよかったのに、気づいたら君に触れたいと思っている自分がいた。君がいつも一緒にいる彼に酷く嫉妬した。だから、どうしても君の気を引きたくて・・・本を借りた。」
そこまで聞いたとき、僕は頭の中のパズルはぱちりぱちりと音を立てて次第にひとつの絵になろうとしていた。
しかし、ぼんやりと遠くからそのパズルを見たとき、想像を絶する恐ろしい何かが完成してしまいそうな気がして、僕は怖くて見るのをやめた。
「それから僕は、ただ君の事を想いながら二週間が過ぎるのを待った。そして二週間が経ったあの日の夕方、僕は睡眠薬を飲んで死んだ。」
僕は彼が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
まるで、人事のように言うから。
「どうして薬を飲んだの?死ぬかもしれなかったのに」
「わかっていたよ。でも、僕は毎日睡眠薬を飲んでいて免疫があったし、医学は得意分野だったから、致死量は知っていた。でも、本当に死ぬ覚悟だったんだ。致死量を知っていたとはいえ、単なる数値だからね。試してみないとどうなるかはわからない。いくらぎりぎりの量を飲んでも、その日の体調によっては本当に死んでいたかもしれない。障害が残るかもしれない。それでも僕は・・・君と接点を持ちたかった。図書室で君たちが会話しているのを聞いて、延滞した人のところには君が行くのも知っていた。だから、君が来るのを死んで待っていたんだ。君の心に僕を焼き付けたくて」
僕は愕然とした。
この一人の人間の中に宇宙のように計り知れない、歪んだ、異常な愛が満ちている。
僕を想って、自殺するほどの。
「僕が死んで、悲しかった?」
そう問われて、あの日の感情がリアルに体に滲んできた。
ああ・・・そうだ。
僕は死ぬほど悲しかった。
はじめて彼を見た瞬間、焼け付くような衝動を覚えたから。
そして本を借りに来た日笑った彼に、悔しいほど心奪われたから。
あのまま彼と一緒に闇に融けてしまいたかった。
消えて無くなりたかった。
「僕は・・・」
急激に彼の引力に引き寄せられて、彼がさっきよりもずっと近く見えた。
「淋しかった?」
「・・・はい」
頷くと、いよいよ彼のことが愛しく思えてきて止まらなくなった。
「・・・先輩」
彼は僕の腕を引くと、僕をきつく抱きすくめた。
「やっと君に、触れられた」
彼の腕の力は痛いほど強くて、本当は、僕のことが好きだというのは全部嘘で、このまま絞め殺されるのではないかと思うほどだった。
「先輩、痛い」
僕が思わずうめき声を上げたので、彼は驚いて腕を緩めた。
「ごめん。嬉しくて、つい」
そう言って、彼は今日初めての笑顔を見せた。
そしてそのまま僕の顔を覗き込むと、静かに言った。
「一緒に暮らそうか」
 




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