しばらくリュカの胸の中で目を閉じていると、リュカが静かに口を開いた。 「・・・もしカラスがあのとき死んでいなくても、結局僕が殺していたと思う。シャルルを傷つけたカラスが本当に死ぬほど憎かったんだ」 それを聞いて僕は、ああ、あのときリュカが泣いていたのはカラスの死が悲しいからではなく、僕も一緒に死んでしまっていたかもしれないことが怖かったからだと理解した。 リュカはそれきり黙ってしまった。 だから僕は、ぼんやりとリュカがカラスを殺すシーンを思い描いていた。 あの真っ暗な重力の強い部屋で、弱ったカラスの首に手をかけ息を荒くしたリュカがいた。 僕は、ああ・・・お願いだからやめてよと静かに涙を流すだけだった。 カラスの首を絞めるリュカの横顔が悪魔に見えた。 あんなに優しいリュカの顔が憎しみで歪んで、別人のようだった。 僕は醜悪美という言葉を思い出した。 ああ、人を殺す人間の表情はこんなにも生き生きとしていて美しい。 リュカからの異常なほどの愛はうっとりとするほど甘く、母の肌のように柔らかく僕の体に染み込んできた。 「大丈夫、もう無茶はしないよ」 そういって僕もリュカの背中に腕を回した。 リュカの腕は一層力がこもって苦しいくらいだった。 もしカラスが学校に復帰したら、リュカはどうなってしまうのだろうか。 再び彼を憎み、殺してしまうだろうか。 この暖かい手が、彼の首を絞めるだろうか。 考えて、僕は先ほど先生が言ったことを思い出した。 次第に、通行止めになっていた脳と心を繋ぐ道が開放されたように、頭に溜まっていた言葉を理解し始めた。 そうだ・・・。 彼は生きている。 生きているのだ。 これまで必死に彼は死んだのだと自分に言い聞かせてきたことをもう止めてもいい。 そう思ったら、何だか急に体が軽くなった気がした。 からっぽだった僕の中に暖かく、力強いものが宿ったようだった。 それと同時に、死というものがいかに恐ろしいものかを実感した。 僕らの中にはまだその人の記憶は残っているというのに、本人は消えてなくなってしまうなんて。 その内ぽつりぽつりとしか思い出されなくなって、まるであたかもはじめから誰もいなかったかのように薄れてしまう。 思い出も、感情もみんな時と共に酸化していって土に返る。 人は、忘れられてはじめて死ぬのだ。 例え生きていても、忘れられたのならそれも死と同じこと。 リュカにはそんな恐ろしい、悲しいことを生み出して欲しくないと強く、思った。 小さく息を吐いて、僕は言った。 「カラスは・・・生きてるんだね」 リュカは静かに頷いた。 どういう結果であれ、彼はこの世界にいる。 目を開いて呼吸をしているのだ。 僕は彼を忘れなくてすむ。 よかった。 初めてまともな感想が出たような気がして、僕はなんだか嬉しくて涙が出た。 すると、次々に熱い涙がこぼれてきて止まらなくなった。 嬉しいのに、僕はなぜか人が死んだときみたいに、しくしく泣いた。 リュカの体温が優しくてどうしようもなかった。 応接間からの帰り道、僕たちはしばらく何も喋らなかった。 廊下に差し込む柔らかなオレンジの光が僕たちを包み込んでいた。 嬉しくて、ほっとしている自分がいる。 またあの笑顔が見れるだろうか、そんなことを考えていた。 例えいつかリュカが彼を殺すかもしれなくても、僕はただ純粋に嬉しかった。 世界が色を取り戻したのは彼のお陰だから。 世界が色を失くしたのが彼のせいであっても。 僕が死んだわけでもないのに、僕は僕が生きていることに感動していた。 こうして呼吸していることに、この目が世界を映していることに、足が動いていることに。 でも、僕はふと思った。 今日まで落ち込んでいた僕はどうなる。 よく知りもしないカラスのために、あんなに泣いたのに。 授業だってまともに受けられなくて、ノートだってすかすかなんだぞ。 あのアルフォンスにまで心配かけたんだぞ。 そう思ったら、何だか怒りが込み上げてきた。 すると、隣で僕の顔を見ていたリュカがくすくすと笑い始めた。 「僕たち、結局カラスに振り回されただけみたいだね」 リュカがいつもの困ったような笑みを浮かべた。 その優しいマリア様のような顔を見ていたら、何だか急にお腹が空いてきた。 「よし、カフェテリアで夕飯食べよう!!」 「あ、いいね」 今日は図書室の休館日だった。 僕たちは、足取り軽くカフェテリアへと向かった。 「夜に来るの久しぶりだね」 「そうだね。あ、アルフォンスもいるよ」 アルフォンスは、中庭の見える大きなガラス窓の横の席に座っていた。 「おう、お前らが来そうな気がして待ってた」 そう言って、アルフォンスは僕に小さな箱を渡してきた。 「僕に?」 受け取ると、箱の中から微かに甘い匂いがしてきた。 そのとき突然、僕はふいに遠い記憶に引っ張られそうになって我に返った。 今何かを思い出しそうだった・・・。 しかしもう一度同じ場所を辿ろうとしても、方向がわからなくなってしまったので僕は諦めた。 「最後の一個だった」 アルフォンスは得意げに笑ってみせた。 「もしかしてミルフィーユ?」 「当たり」 「なんだよ、今日は頼んでないだろ・・・」 そうは言ったものの、ここのところ僕が元気のないのを察したらしいアルフォンスが気持ち悪いほど優しくて、なんだか嬉しかった。 「僕のは?」 すかさずリュカが甘えた口調でアルフォンスに言った。 するとアルフォンスが「ああ?」と言いながらいつものように顔を歪めた。 この二人はいつもこうだ。 僕は思わず笑ってしまった。 アルフォンスも、黙っていればリュカと同じくらい綺麗な顔立ちをしているのに、もったいない。 それから僕たちは久しぶりに三人でご飯を食べて部屋に戻った。 手の込んだ食べ物を食べるのも久しぶりだったし、みんなとカフェテリアで前のように他愛のない話をできたのが嬉しかった。 カラスが生きていたことで、完全に元の日常に戻ったのだ。 というよりは、僕の気持ちの問題だったのかもしれない。 部屋に戻ってからも、僕は旅行の前日のようなむずむずした、どうにも落ち着いていられない気持ちを抑えることができなかった。 そんな僕を見て、リュカがあまり嬉しそうな顔をしていないのは確かだった。 案の定、僕がおやすみと言って部屋に入ると追いかけるようにリュカも入ってきた。 「なぁに?」 わからないふりをして僕はリュカの曇った顔を見上げた。 リュカは僕の手を掴むと、眉間にしわを寄せた。 「僕・・・シャルルにはカラスに関わって欲しくないよ」 窓から淡く入り込んだ月明かりがリュカの瞳に写って切なげにきらきらと光り揺れた。 それがリュカに濃い悲しみの色を落としていた。 「それは・・・僕には何とも言えない」 僕が困った様子を見せるとリュカはため息をついた。 リュカだって、僕を自分の思うままにできないことはよくわかっていたと思うし、カラスに僕を取られてしまう危機を感じ取っていたのかもしれない。 だから、こんなにも絶望をたたえた目をしている。 「僕、何があってもリュカの親友だよ。そうでしょう?」 親友、という響きにリュカはふと息を漏らし目を細めた。 「うん。そうだね、ごめん」 リュカは弱々しく微笑んだ。 そしてリュカはかがんで僕の額にそっと、キスをした。 それは目が覚めるほど純粋で、神聖なキスだった。 僕はまるでリュカと誓いのキスをしたような気分になって、急に恥ずかしくなった。 親友だと言ったばかりなのに、触れているリュカの手が、体温が、もどかしい距離が、愛おしくてたまらなくなった。 「リュカ・・・」 僕が見つめるとリュカは困ったように笑った。 「僕、たった今神様に誓ったばかりなんだけど、そんな目で見つめられたら破ってしまいそうだよ」 僕も笑って、どちらともなく繋いでいた手を放した。 「おやすみ」 リュカは最後にもう一度僕の頬にキスをすると自分のベッドルームへと帰っていった。 「僕、しばらくカラスと一緒に暮らすことにしたよ」 僕がそう二人に告げたのは、カラスが学校に戻ってきてから二日目のことだった。 リュカとアルフォンスは想像通りの顔をしていた。 リュカは口を開けたまま動かなかったし、事情を知らないアルフォンスは僕に何か呪文がかかっていないか心配してきた。 「何で?何でカラス?お前カラスと仲良かったのか?いつ引き篭り解除したんだ?何をされたんだ?一体、ナニを、されたんだ!!」 僕はアルフォンスのあまりの必死さに思わず笑ってしまった。 「落ち着いてよ。別に何もされてないよ。ただ、一緒に暮らしたいなって僕が思っただけ」 そう言って、僕はリュカの許しも得ないまま逃げるようにトランク一つを持って部屋を出た。 |