4. 揺れる



人の肉は、こんなにも冷たかっただろうか・・・。
次第に脳がぴりぴりと痺れ、目の前が暗くなっていく。
体の変化に、思考が追いついていかない。
暗闇に、意識が吸い込まれていくようだった。
ずるずると・・・墜ちていく。
どのくらい時間が経ったのかわからない。
僕は、体が勝手に呼吸をしたのを合図に意識をはっきりと取り戻した。
呼吸・・・してなかった。
ゆっくりと呼吸をすると、また、脳が痺れて目の前がチカチカする。
それと同時に、熱い液体が僕の頬を塗らした。
ああ、僕、泣いてる。
カラスは、変わらず僕の目の前に倒れている。
僕がいくら何を望もうと、世界は何も変わってくれはしない。
ただただ目の前の現実を押し付けて僕を翻弄していくばかりだ。
ふと、カラスの手の側に落ちている物を見つけた。
透明なビンが転がっていて、その周りに白くて丸い物が幾つも落ちている。
睡眠薬だろうか。
「ああ・・・先輩」
声を出すと、涙が次々にこぼれてきて、止まらなくなった。
「先輩・・・」
僕はカラスの真っ黒なきしきしした髪を撫でた。
涙を流しながら、頭の隅で、なぜカラスの髪はこんなにも痛んでいるのだろうと考えていた。
どれだけ泣いても、涙は止まらなかった。
息が苦しくて頭は痺れたままで、喉がからからだった。
カラスはもう二度と図書室には来ない。
目を開けて呼吸をしない。
僕に笑い掛けることはない。
その事実が、どうしようもなく切なかった。
僕の力では変えようのない事実。
受け入れなくてはいけない事実。
目の前にあるのは、カラスの死体なんだ。
ただの、肉の塊なんだ。
冷たい、肉の塊。
朝には、きっと硬くなってしまう。
そんなのは嫌だと思っているはずなのに、僕の脳はうまく機能してくれない。
この重苦しい空間に、僕と、カラスの死体があって、僕は、彼の髪を撫でながら泣いている。
時間という感覚はどこかに消えてしまって、僕は一生この場所から動けないような気がしてならなかった。
そんなことを考えると、何だか急に力が抜けてきて、僕はカラスの横に静かに倒れこんだ。
近くで見る彼の顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。
すっと伸びた細い鼻筋、形のいい薄い唇。
象牙のような滑らかな白い肌。
漆黒の細い髪が、彼の目を覆い隠している。
ひょっとして、これはマネキンなのではないか・・・。
そんなことを考えて、僕はなぜだか笑いたくなった。
僕は、彼の重く冷たい手を握り締め、目を閉じた。
段々と僕の体も冷たくなっていくのがわかる。
このまま、僕も死んでしまえばいいのに。
意識が・・・遠のいていく。

次に目を覚ましたのは、リュカが僕の名前を呼んだからだった。
リュカは真っ青な顔で僕を見下ろしていた。
リュカの名前を呼ぼうとしても、声はなぜか出なかった。
僕は、彼がなぜここにいるのか理解できなかった。
外は相変わらず真っ暗で、どのくらい時間が経ったのかわからない。
リュカに抱きしめられながら、僕は、カラスのことを考えていた。
カラスは、まだそこにいるのだろうか。
随分前に滲んだ、温い涙がゆっくりと頬を滑り落ちていった。
事は、リュカのお陰で僕がぼーっとしている内に全て進んだらしい。
自分の部屋のベッドで何を見るでもなく、ただ死体のように目を開けて固まっていると、窓の外が赤い光で照らされて、救急車が来たのだとわかった。
今度こそ、カラスは本当に死んでしまったのだと思った。
カラスはあんな暗い部屋で一人、一体何を思いながら死んでいったのだろう。
そう思うと、遣り切れなかった。
しばらくすると、先生との話が終わったのか、少し疲れた様子のリュカが部屋に入ってきた。
リュカはベッドに上がると、何も言わずに僕を強く抱きしめた。
リュカの肩が微かに震えていて、泣いているのだとわかった。
そうして、少しずつ白んでいく窓の外を感じながら、僕たちは眠りに落ちた。


あの日から、僕は何をしていても眠かった。
図書委員の仕事をしていても、授業中でも、リュカたちと他愛のない話をしていても、眠かった。
目が思うように開かず、何かに憑かれたのかと思うほど体がどんよりと重かった。
部屋に帰ると、お風呂にも入らずベッドに潜るのが癖になっていた。
朝も起きれなくなり、気がつくと、リュカが気を遣ってペストリーでパンを買ってきてくれるようになっていた。
僕の心は、日毎に磨り減っていくようだった。
まとわりつく現実に、目を向けることができない。
次第に体から意識という気体だけが遠ざかっていくのを感じた。
僕は、二度と地に足がつくことのない、永遠のカイロスに閉じ込められたのだ。
「シャルル」
あまりにもはっきりと名前を呼ばれたので、僕ははっとした。
「リュカ?」
目を開けて見回すと、そこはいつもと変わりない僕のベッドルームだった。
窓にはカーテンがしてあって昼なのか夜なのかよくわからない。
確かにリュカに呼ばれたはずなのに、姿が見えない。
僕は寝ぼけていたのだろうか。
ぼんやりとリュカのことを思い浮かべながら、僕は再び目を閉じた。
しかし不思議なことに思い浮かんだのはいつも僕が見ているリュカの顔ではなく、ずっと幼い、天使のように愛らしいリュカの顔だった。
そういえば・・・さっき僕を呼んだ声は、声変わりをしていない頃のリュカだった。
それにしても、彼はとても悲しそうな声をしていたけれど、どうしたのだろう。
すると、また幼いリュカが僕に言った。
「ねえ、シャルルは死なないでね」
薄いエメラルドグリーンの宝石のような瞳が僕を見つめる。
金色の長いまつ毛の先に、透明な雫をきらきらさせて眩しいほどだった。
僕は何も言うことができず、ただ美しいリュカに見とれているばかりだった。
リュカは透明な綺麗な水を幾度もこぼしては、僕の服を掴んで放さなかった。
ああ、あの日のリュカだ。
僕は、昔近所に住んでいてよく僕たちと遊んでくれたお兄さんが交通事故で亡くなったのを思い出した。
墓場に近所の人達が喪服で集まり、棺の前で悲しみに暮れている。
こんなにもいい天気で緑の芝生は嬉しそうに揺れているというのに。
幼いながらに、僕は変な光景だと思った。
僕は、皆がなぜ泣いているのかわからなかった。
ただ、母が父が、目の前のリュカが泣いているのが悲しかった。
「シャルル」
先ほどよりも聞き慣れた声が僕を呼んだ。
目を開けると、そこには美しく成長したリュカがいた。
僕は一瞬未来にタイムスリップでもしてしまったような感覚に陥った。
「夢で、リュカに会ったよ」
リュカは優しく微笑むと、僕の頬につたう涙を指で拭った。

カラスが自殺したのを知っている人は、僕とリュカ、先生方しかいない。
救急車が来たのを窓から見ていた生徒は多くいたが、まさかカラスに関わっているとは誰も思わなかったのだろう。
彼のことは皆、未だに引き篭っているのだと思っている。
学校側も何も説明しないのは、情報が外に漏れて評価が下がるのを恐れているためだろう。
僕とリュカは、この重い秘密を知っていて、何食わぬ顔で生活しなければいけない。
もう限界だ・・・そう思ったある日、六年生の担当の先生に僕たちは呼び出された。
広い応接間に通され、革張りのソファに座らされた。
また何か聞き出されるのだろうか、そう思って顔を曇らせたとき、僕の耳に思いもせぬ言葉が入ってきた。
「ヴィンセント君のことなんだが、どうやら息を吹き返したらしい」
僕は、息を吹き返す、という言葉の意味が理解できなかった。
おかしい。
聞いたこともあるし、どんなときに使うかも知っているのに、理解できない。
僕は黙ってリュカを見つめた。
リュカはというと、眉をしかめて、先生の次の言葉を黙って待っていた。
先生は、メガネを押し上げて、困惑したような顔をして続けた。
「私も詳しいことはわからないが、どうやら睡眠薬の量が、致死量にぎりぎり足りていなかったらしく、部屋に倒れているときは仮死状態だったそうだ。病院に運ばれたときは、死体として扱っていたのだが、ご両親を呼んでいる間に、自ら呼吸をし始めたらしい。そして三週間ほど昏睡状態が続いて、今日、なんと目を覚ましたそうだ」
・・・なんだろう。
言葉は全て耳から入ってきたのだが、さっきから理解するための機能が作動していないようだった。
つまり、僕はフリーズしていた。
リュカに限っては頭を抱えてしまっていた。
何だって?
あんなに冷たかった人間が息を吹き返したって?
そんな話あるのか?
それこそ魔術か何か使ったのか?
中途半端な考えばかりが、路線図のように交差してぐちゃぐちゃになって、一向にまとまる気がしなかった。
質問する気にもなれなかった。
視界がゆらゆらと揺れて、今にも異世界へ消えてしまいそうだった。
―・・・頭が痛い。
先生は何も反応しない僕たちに困ったのか、最後に口止めをすると逃げるように応接間から出て行った。
応接間は僕とリュカの二人だけになった。
すると突然リュカが僕に言った。
「ごめん。シャルル、少しの間抱きしめてもいいかな?」
「え?急に何言ってるんだよ」
僕は短い間にすっかり疲れてしまったので不機嫌な顔で言った。
僕の返事はどうでもよかったらしいリュカが、僕のすぐ隣に座り直した。
近づいてくる胸を反射的に手で押し返そうとしたが、その手は細長いリュカの手によってどかされてしまう。
少し強引なリュカの態度に、思わず体温が上がってしまう。
抱きしめられて、先ほどのことで既に熱を持っていた脳が痺れた。
そのせいで、妙な勘違いをしてしまいそうだ。
「リュカ、誰か来たら・・・」
「黙って」
リュカの態度に静かな怒りが垣間見えたので、僕はおとなしく黙った。
 




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