2009.10.18
[NEW10/19改訂]「パラレル」〜加藤和彦よ永遠なれ!!(完全版)
車を乗り捨て蹴飛ばしたイヤリング
轢かれた俺達の夢
寂れた夕暮れ似合いのステージ
海から風が吹いてくる
オマエのその涙の意味が分からない
遠くで泣くといい
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
降り出した雨に滲みるよブルージーン
優しい言葉が気まずい
ひび割れた時を見つめる2人が
どうしても探せないもの
オマエといると寂しくなるよ
まるで見知らぬヒトみたいだ
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
眠れぬ夜は数えるといい
目覚めぬ朝はそのままがいい
時が経てば分かる事でも
その時はもう遅すぎる
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
「パラレル」
作曲/加藤和彦、作詞/安井かずみ
加藤和彦が逝った。
自殺だというが、そんな事はどうでもいい。
上に紹介した楽曲「パラレル」は加藤と生前の妻・安井かずみが吉田拓郎に贈ったモノである。拓郎はコンサートで好んでこの楽曲を唄った。
そして私は、この半年近く毎日何回もエンドレスで聴いてきた。今の自分の辛さを抉るような痛みを感じながらも、私は「パラレル」を聴きながら自分のあるべき姿やこれからの道を探り続けてきたのだ…。
そういえば昨晩(今朝)も聴いたばかりである。バッキングギターがリズムを小刻みにカットしながら単調なベースが響き、拓郎は歌詞を叫ぶように、また振り絞るように唄った。
だから突然の加藤の訃報に驚きを隠せなかった。
最近の私にとって加藤和彦というミュージシャンの存在は、この「パラレル」に凝縮されていたと言っても過言ではない。時には加藤より先に夭逝した安井かずみの姉御肌に溢れた姿を思い出しもしていたが…。
(晩年の加藤和彦)
62歳という若過ぎた死である。
加藤和彦は日本のフォークソングやロック、更には現在のJーPOPにも一貫して多大な影響を与え続けたミュージシャンでありプロデューサーだった。その存在力は吉田拓郎や矢沢永吉、松任谷由実を遥かに凌駕する。
1960年代末、龍谷大学の学生だった加藤はアマチュアのフオークグループ「フオーククルセダーズ」を率いていた。ボブディランに啓発されて音楽に目覚めたというが、彼自身はプロの世界に入る事など全く考えていなかった。
ところが卒業記念に自費出版したアルバム(インディーズアルバム)に入っていた「帰ってきたヨッパライ」がラジオを通して大ヒットしてしまった。この楽曲はあらゆる意味で社会現象まで引き起こした程に当時としては稀有な作品だった。
結局、親友である北山修の必死な説得でプロの世界に飛び込んだものの、その後の加藤の道程は決して順風満帆ではなかった。
デビュー2作目の「イムジン河」が当時の反共政策に反するとクレームが入り放送禁止に追いやられた。
1971年、北山修との合作「あの素晴らしい愛をもう一度」がやはりラジオを媒介として大流行したが、当の加藤自身は偽善丸出しのこの楽曲が決して好きではなかったと言われている。
こうして加藤はフオークからロックに転身する。フオーククルセダーズの解散、そして「サディスティックミカバンド」の結成である。
当時、加藤の周囲には壮々たるメンバーが集まっていた。
つのだひろ、後藤次利、後に「YMO」で世界進出する高橋幸宏、ギターの第一人者・高中正義などである。吉田拓郎も彼らの1人だった。ちなみにミカは加藤の最初の妻である。
更には松任谷正隆を通じて荒井由実(松任谷由実)ともジョイントコンサートを開いたり、吉田拓郎のヒット作「結婚しようよ」や泉谷しげるの「春夏秋冬」などのプロデュースまで手掛けた。
1974には現在でも超名盤の誉が高いアルバム「黒船」をリリース。イギリスなどヨーロッパでも発売され売上でもチャートインするなど日本ミュージシャンとしてヨーロッパ諸国で初めて高い評価を受けた。
だが一方で日本国内での人気は一部の熱狂的ファンを除き決して芳しいものではなかった。「黒船」も当時は国内売上の低迷に悩んだと言われる。
その理由はあまりに時代を先取りし過ぎたというのが定説になっている。
今聴けば共感出来るが、アルバム「黒船」にはブリティッシュロックを基本にしながらも、グラムロックやニューロマンティックス、フレンチポップス、果てはアフリカネイティブやインドの民族音楽、はたまた沖縄民謡の要素まで取り入れていた。
悪く言えばそれらの音楽がサディスティックミカバンドとしてのフィルターを通し切れず、ツギハギ的散漫な印象を与えてしまったのが原因だと私には思えてならない。
当時中学生だった私も当然「黒船」を買った。海外から入ってくる評判の割にはボーカリストであるミカの音階を無視したエキセントリックな唄い方に食傷を覚えた記憶がある。
轢かれた俺達の夢
寂れた夕暮れ似合いのステージ
海から風が吹いてくる
オマエのその涙の意味が分からない
遠くで泣くといい
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
降り出した雨に滲みるよブルージーン
優しい言葉が気まずい
ひび割れた時を見つめる2人が
どうしても探せないもの
オマエといると寂しくなるよ
まるで見知らぬヒトみたいだ
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
眠れぬ夜は数えるといい
目覚めぬ朝はそのままがいい
時が経てば分かる事でも
その時はもう遅すぎる
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
俺の夢からオマエが出てゆく
自由を選んだオマエが出てゆく
「パラレル」
作曲/加藤和彦、作詞/安井かずみ
加藤和彦が逝った。
自殺だというが、そんな事はどうでもいい。
上に紹介した楽曲「パラレル」は加藤と生前の妻・安井かずみが吉田拓郎に贈ったモノである。拓郎はコンサートで好んでこの楽曲を唄った。
そして私は、この半年近く毎日何回もエンドレスで聴いてきた。今の自分の辛さを抉るような痛みを感じながらも、私は「パラレル」を聴きながら自分のあるべき姿やこれからの道を探り続けてきたのだ…。
そういえば昨晩(今朝)も聴いたばかりである。バッキングギターがリズムを小刻みにカットしながら単調なベースが響き、拓郎は歌詞を叫ぶように、また振り絞るように唄った。
だから突然の加藤の訃報に驚きを隠せなかった。
最近の私にとって加藤和彦というミュージシャンの存在は、この「パラレル」に凝縮されていたと言っても過言ではない。時には加藤より先に夭逝した安井かずみの姉御肌に溢れた姿を思い出しもしていたが…。
(晩年の加藤和彦)
62歳という若過ぎた死である。
加藤和彦は日本のフォークソングやロック、更には現在のJーPOPにも一貫して多大な影響を与え続けたミュージシャンでありプロデューサーだった。その存在力は吉田拓郎や矢沢永吉、松任谷由実を遥かに凌駕する。
1960年代末、龍谷大学の学生だった加藤はアマチュアのフオークグループ「フオーククルセダーズ」を率いていた。ボブディランに啓発されて音楽に目覚めたというが、彼自身はプロの世界に入る事など全く考えていなかった。
ところが卒業記念に自費出版したアルバム(インディーズアルバム)に入っていた「帰ってきたヨッパライ」がラジオを通して大ヒットしてしまった。この楽曲はあらゆる意味で社会現象まで引き起こした程に当時としては稀有な作品だった。
結局、親友である北山修の必死な説得でプロの世界に飛び込んだものの、その後の加藤の道程は決して順風満帆ではなかった。
デビュー2作目の「イムジン河」が当時の反共政策に反するとクレームが入り放送禁止に追いやられた。
1971年、北山修との合作「あの素晴らしい愛をもう一度」がやはりラジオを媒介として大流行したが、当の加藤自身は偽善丸出しのこの楽曲が決して好きではなかったと言われている。
こうして加藤はフオークからロックに転身する。フオーククルセダーズの解散、そして「サディスティックミカバンド」の結成である。
当時、加藤の周囲には壮々たるメンバーが集まっていた。
つのだひろ、後藤次利、後に「YMO」で世界進出する高橋幸宏、ギターの第一人者・高中正義などである。吉田拓郎も彼らの1人だった。ちなみにミカは加藤の最初の妻である。
更には松任谷正隆を通じて荒井由実(松任谷由実)ともジョイントコンサートを開いたり、吉田拓郎のヒット作「結婚しようよ」や泉谷しげるの「春夏秋冬」などのプロデュースまで手掛けた。
1974には現在でも超名盤の誉が高いアルバム「黒船」をリリース。イギリスなどヨーロッパでも発売され売上でもチャートインするなど日本ミュージシャンとしてヨーロッパ諸国で初めて高い評価を受けた。
だが一方で日本国内での人気は一部の熱狂的ファンを除き決して芳しいものではなかった。「黒船」も当時は国内売上の低迷に悩んだと言われる。
その理由はあまりに時代を先取りし過ぎたというのが定説になっている。
今聴けば共感出来るが、アルバム「黒船」にはブリティッシュロックを基本にしながらも、グラムロックやニューロマンティックス、フレンチポップス、果てはアフリカネイティブやインドの民族音楽、はたまた沖縄民謡の要素まで取り入れていた。
悪く言えばそれらの音楽がサディスティックミカバンドとしてのフィルターを通し切れず、ツギハギ的散漫な印象を与えてしまったのが原因だと私には思えてならない。
当時中学生だった私も当然「黒船」を買った。海外から入ってくる評判の割にはボーカリストであるミカの音階を無視したエキセントリックな唄い方に食傷を覚えた記憶がある。
面白いエピソードが残っている。
矢沢永吉率いる「CAROL」が全盛期だった数年間、サディスティックミカバンドはCAROLと共に全国ツアーを行った。両バンドの方向性を考えればミスマッチのように思えるのだが…。しかし国内の人気差でサディスティックミカバンドは殆ど前座扱いに甘んじていたという。
当時、熱狂的なCAROLファンたちの暴走でろくに演奏も出来ない事もあった。すると矢沢さんがステージに現れて「コイツらの演奏を邪魔するヤツらは帰れ!」と一喝したという伝説も残っている。
一方でイギリスでは世界的メジャーバンドだった「カルチャークラブ」と度々ジョイントコンサートを開いているのだからスケールが大きいというか不思議なものである。
ミカとの離婚を期にサディスティックミカバンドを解散した加藤は2人目の妻・安井かずみと組んであらゆるジャンルに積極的に曲を提供するようになる。
歌謡曲ではアグネスチャン(妖精の詩)、ベッツイ&クリス(白い色は恋人の色)などから、ソングライターの森山良子(遠い遠いあの野原)、竹内まりや(不思議なピーチパイ)など数知れない。
「家を作るなら〜♪」のフレーズで一躍有名になったCMソングにも積極的に乗り出した。
いつしか加藤&安井コンビはミュージシャンというより作詞作曲家、編曲者、プロデューサーに転身していった感が強くなった。
だが1994年3月、妻の安井かずみが肺癌で逝くと、そのショックの大きさからか加藤は音楽シーンの表舞台から消えていった。その後、再び結婚したり、女性関係は派手だったといわれるが、加藤にとって安井かずみを失った心の痛手は相当大きかったと関係者は口を揃える。
2000年代に入って暫くしてから突然、再起を期すかのように歌舞伎音楽に乗り出した。だが、それでも日に日にヤツれていく彼の姿に当惑する者は少なくなかったようだ。
先妻のミカもかなりエキセントリックな女性として知られていたが、2番目の妻・安井かずみは既に作詞家として大成しており、酒もタバコも人並み以上で姉御肌…。幾度も離婚の危機があったと聞く。だが、結局そんな妻を愛し抜いた加藤は終生安井に尽くし、彼女の最期を看取った。
ところで冒頭に紹介した「パラレル」である。
吉田拓郎が3人目の妻・森下愛子と結婚後、共にそれなりの年齢を重ねてきたという理由もあるのだろう。結婚前に生きてきた境遇の違いからスレ違いも多くトラブルが絶えなかった。
最終的に2人は別れ(離婚)を決心した。
そんな時に拓郎は「姉貴的な存在」だった安井かずみに相談した。すると早速、翌日に安井が拓郎の為に詞を書いて送ってくれた。
最後の最後になっても男と女の関係は分からない。男と女は離れた時に初めて本当の愛に気付くモノ。思い切って別れてみなさい!
諭すように安井かずみは拓郎を励ました。
加藤は加藤で、過去2度も離婚しているツワモノのはずの拓郎が異様に落ち込んでいる姿を見て、半ば呆れながらも自ら作曲を行い、あの名曲が出来上がったという。
なんて素敵な話だろう。
後日談を幾つか。
安井のアドバイスで拓郎は約1年間、妻の森下愛子と別居生活を送る事になる。そして安井の言葉が的中したように、2人の間に「時間」と「距離」を設ける事で拓郎夫妻は互いの愛情を共に確認し合う事が出来た。3度目の離婚は避けられたのだ。
こうして拓郎は実質的な養子の形で森下の実家で彼女の家族たちと同居するようになったのである。
それ以後、少なくとも2人は極めて円満な夫婦生活を送っている。これも安井かずみの忠告あればこその結果だと言えるだろう。
所詮、男と女の関係はそんなモノなのかもしれない。意識しないでも心の奥で惹かれ合い、相手を必要とする無意識の意識さえあれば、「距離」と「時間」こそが最大の味方になる…。
とはいえ、これが現実となるとどうしようもない程、キツい。
この逸話を改めて拓郎本人や妻である森下愛子のインタビュー、更に小室等やなぎら健壱ら親友の著書や雑誌インタビューを読み返し確認しながら、私は覚悟した。
「もし彼女が本当に自由を欲しがるならば、夢を共有出来ないならば鎖をほどいて大空に飛び立たせてやろう」
そして「彼女」が戻る日がくるまで「パラレル」を聴き続けようと誓った。
これも余談だが、最新アルバム「午前中に…」に収録されている吉田拓郎自身の作詞作曲による楽曲「今は恋とは言わない」はこの後に殆ど作品のモチーフが完成していたと本人が語っている。
加藤和彦よ、永遠なれ!
(仕事も家庭も夫唱婦随で過ごした加藤和彦と安井かずみ)
(了)
※事実関係に間違いがあった為、修正を加えてあります。
矢沢永吉率いる「CAROL」が全盛期だった数年間、サディスティックミカバンドはCAROLと共に全国ツアーを行った。両バンドの方向性を考えればミスマッチのように思えるのだが…。しかし国内の人気差でサディスティックミカバンドは殆ど前座扱いに甘んじていたという。
当時、熱狂的なCAROLファンたちの暴走でろくに演奏も出来ない事もあった。すると矢沢さんがステージに現れて「コイツらの演奏を邪魔するヤツらは帰れ!」と一喝したという伝説も残っている。
一方でイギリスでは世界的メジャーバンドだった「カルチャークラブ」と度々ジョイントコンサートを開いているのだからスケールが大きいというか不思議なものである。
ミカとの離婚を期にサディスティックミカバンドを解散した加藤は2人目の妻・安井かずみと組んであらゆるジャンルに積極的に曲を提供するようになる。
歌謡曲ではアグネスチャン(妖精の詩)、ベッツイ&クリス(白い色は恋人の色)などから、ソングライターの森山良子(遠い遠いあの野原)、竹内まりや(不思議なピーチパイ)など数知れない。
「家を作るなら〜♪」のフレーズで一躍有名になったCMソングにも積極的に乗り出した。
いつしか加藤&安井コンビはミュージシャンというより作詞作曲家、編曲者、プロデューサーに転身していった感が強くなった。
だが1994年3月、妻の安井かずみが肺癌で逝くと、そのショックの大きさからか加藤は音楽シーンの表舞台から消えていった。その後、再び結婚したり、女性関係は派手だったといわれるが、加藤にとって安井かずみを失った心の痛手は相当大きかったと関係者は口を揃える。
2000年代に入って暫くしてから突然、再起を期すかのように歌舞伎音楽に乗り出した。だが、それでも日に日にヤツれていく彼の姿に当惑する者は少なくなかったようだ。
先妻のミカもかなりエキセントリックな女性として知られていたが、2番目の妻・安井かずみは既に作詞家として大成しており、酒もタバコも人並み以上で姉御肌…。幾度も離婚の危機があったと聞く。だが、結局そんな妻を愛し抜いた加藤は終生安井に尽くし、彼女の最期を看取った。
ところで冒頭に紹介した「パラレル」である。
吉田拓郎が3人目の妻・森下愛子と結婚後、共にそれなりの年齢を重ねてきたという理由もあるのだろう。結婚前に生きてきた境遇の違いからスレ違いも多くトラブルが絶えなかった。
最終的に2人は別れ(離婚)を決心した。
そんな時に拓郎は「姉貴的な存在」だった安井かずみに相談した。すると早速、翌日に安井が拓郎の為に詞を書いて送ってくれた。
最後の最後になっても男と女の関係は分からない。男と女は離れた時に初めて本当の愛に気付くモノ。思い切って別れてみなさい!
諭すように安井かずみは拓郎を励ました。
加藤は加藤で、過去2度も離婚しているツワモノのはずの拓郎が異様に落ち込んでいる姿を見て、半ば呆れながらも自ら作曲を行い、あの名曲が出来上がったという。
なんて素敵な話だろう。
後日談を幾つか。
安井のアドバイスで拓郎は約1年間、妻の森下愛子と別居生活を送る事になる。そして安井の言葉が的中したように、2人の間に「時間」と「距離」を設ける事で拓郎夫妻は互いの愛情を共に確認し合う事が出来た。3度目の離婚は避けられたのだ。
こうして拓郎は実質的な養子の形で森下の実家で彼女の家族たちと同居するようになったのである。
それ以後、少なくとも2人は極めて円満な夫婦生活を送っている。これも安井かずみの忠告あればこその結果だと言えるだろう。
所詮、男と女の関係はそんなモノなのかもしれない。意識しないでも心の奥で惹かれ合い、相手を必要とする無意識の意識さえあれば、「距離」と「時間」こそが最大の味方になる…。
とはいえ、これが現実となるとどうしようもない程、キツい。
この逸話を改めて拓郎本人や妻である森下愛子のインタビュー、更に小室等やなぎら健壱ら親友の著書や雑誌インタビューを読み返し確認しながら、私は覚悟した。
「もし彼女が本当に自由を欲しがるならば、夢を共有出来ないならば鎖をほどいて大空に飛び立たせてやろう」
そして「彼女」が戻る日がくるまで「パラレル」を聴き続けようと誓った。
これも余談だが、最新アルバム「午前中に…」に収録されている吉田拓郎自身の作詞作曲による楽曲「今は恋とは言わない」はこの後に殆ど作品のモチーフが完成していたと本人が語っている。
加藤和彦よ、永遠なれ!
(仕事も家庭も夫唱婦随で過ごした加藤和彦と安井かずみ)
(了)
※事実関係に間違いがあった為、修正を加えてあります。