2009年10月14日

富士山と友愛精神

昨日、来日中の海外に住む叔父からとても貴重な話を聞くことができました。

 

宗教の違いや宗派の違いはあっても、たどり着くところは一緒という話です。叔父は、富士山を例にとりこう語ってくれました。

 

「富士山をことら側から登ろうが、反対側から登ろうと目指す山のてっぺんは一緒。宗教も同じ、キリスト教でも、イスラム教でも、仏教でも、目指している世界は殺し合いのない、人々が平和で共生共存できる世界です。」

 

私は一瞬にして、視界が開けたような気持ちになりました。我が意を得たり、といってもいいでしょう。

 

そして、すぐに富士山の頂上にある共生共存できる世界はどんな世界であるかに気付きました。そうです。それは、地球市民誰もが共有することができる友愛精神あふれる世界です。人間愛に基づく思いやりと分かち合いの精神とめどもなくあふれる素晴らしい世界なのです。

 

どんな宗教でも利他の精神で相手を思いやり、喜びや悲しみを分かち合っています。つまり、一人ひとりが思いやりと分かち合いの精神で山の頂上に向けて歩いているのです。換言すれば、一人ひとりがコツコツと頂上の友愛世界に思いやり精神や分かち合い精神を持ち寄っていると言えます。

 

スティーブン・R・コヴィー博士の著書「7つの習慣」では、この「持ち寄りマインド」を「豊かさマインド」と呼んでいます。

 

反対に、、相手に勝つためには奪ってもいいとする「持ち去りマインド」を「欠乏マインド」として「豊かさマインド」と分別しています。

 

欧米のキリスト教社会は、まさに「持ち寄りマインド社会」です。礼拝後の昼食会では食事を持ち寄り、分かち合います。

 

それでは、これまでの日本社会はどうであったでしょうか。「持ち寄りマインド」があふれる、豊かな分かち合い社会であったと思う人は、どれだけいるでしょうか。

 

私は、「持ち去りマインド」が蔓延している、常に何かが欠乏していると考える人々が支配する「欠乏マインド社会」だったと思っています。であるからこそ、私たち国民は、過去を否定し新しい政権を選択したと考えています。

 

海外に住む叔父は、日本の自殺者数の大きさを悲しんでいましたが、私は日本社会をここまで悪くしたのは、「勝つこととは相手を負かすこと」「利己のためなら何をしてもいい」「失敗しても自己責任」を主義とする、悪魔に支配された読売新聞であると神に教えられました。

 

私は、私憤で読売新聞を「悔い改め」させようとしているのではありません。私たちの同胞が地獄に落ちていかないように、公憤によって神の仕事をしているのです。

 

富士山の頂上を目指す私たちに対し、「つまづく(失敗する)のは、根性が足りない。制裁が必要だ」と読売新聞は精神論を唱えて来ましたが、これはキリスト教と正反対の主義主張です。

キリスト教徒は互いに連帯し、助け合いながら富士山の頂上を目指しています。ぶどうの木の枝のようにつながっているので、滑り落ちることもありませんし、たとえつまづいても自己責任は問われません。

 

過去の失敗は変えようがありません。常に前を向き「人事を尽くして天命を待つ」だけなのです。

 

私は、国民に私的制裁(リンチ)という罪を犯すよう惑わす読売新聞に、その罪を認めさせ、キリスト教徒に限らず世界中の人々に対し、犯した罪を悔い改めさせるために今後もできる限りのことをしていきます。

 

富士山の頂上にある友愛世界への到達を目指し頑張っている人々を想像してください。友愛精神が欠落している読売新聞は、その人々の行く手を阻んでいるかのようです。

 

富士山の頂上には、宗教や人種などの壁を超えた友愛社会が広がっていますが、読売新聞は今でも、友愛社会を目指す鳩山総理や小沢一郎幹事長のリターダー(逆噴射装置)です。そうではなく、上昇気流のようなブースター(推進装置)に方針転換して欲しいと願ってやみません。

 

最後にキリスト教の安息日に、真珠湾を攻撃した総指揮官の日本人論を紹介します。残念ながら今日のほとんどの日本人も同じだというのが、私の捉え方です。 

<引用開始>
ミッドウェー海戦は我が国民性の欠陥を見事にあばきたてた戦いであった。 

合理性を欠く我が国民性は、やることなすことが行き当たりばったりで、相互の間に理屈が合わない。



セクショナリズムの国民性はものを見る視野が狭く、やることが独善的である。因襲から容易に抜け切れない国民性はただちに百八十度転換の進歩的革新を行うことができない。 

熱しやすく、冷めやすい国民性はすぐに思い上がって相手を見下げる。かと思うと自主邁進の気力に乏しい日和見的な国民性は他力本願になりやすく卑屈な事大主義(力の強いものにひたすら従い仕えること)ともなる。


合理性を欠くために希望と現実を混同してことの臨み、破れてのち名論卓論を述べる。
<引用終了>
 淵田美津雄著 ミッドウェーより