2009年10月09日

酒井法子さんと「千と千尋の神隠し」

酒井法子さんに関する報道がピタリと止まりました。喜ばしいことです。

居場所も分かっていませんが、私の「希望的観測」で申し上げますと、酒井さんはキリスト教の教会で生活していると思います。釈放後の住所の変更は異例のことだそうですが、教会であれば裁判所も認めざるを得なかったと私は推察します。 


裁判所に限らず、教会に住民票を移した「被害者(酒井さんも報道被害を受け続ける可能性がありました)」には、行政は臨機応変の対応をしてくれることもあります。人権擁護の観点から考えれば当たり前のことではありますが。 


マスコミ各社も、酒井さんのお子様をパパラッチのように追いかければ、酒井さんの居場所を特定できるはずですが、それをしないのは、居場所が教会である可能性が高いと言える、私はそう思います。 


私は、日本のクリスチャンが酒井さんをサタンから救うために、祈り、そして救いの手を差し伸べたのだと信じています。なぜならば、私も祈っていましたし、できることならそうしたかったからです。 


酒井さんの会見からも、「クリスチャンが手を差し伸べている」と感じる部分が見られます。 


<会見から>
自分の罪を悔い改め、二度とこのような事件に手を染めることのない、そういった誓いを一生の約束として、固く心に誓います。



もう一度、生まれ変わった気持ちで心を入れ替え、日々、努力していきたく思っております。



そしてこのような日々に支えてくださった方々の温かいお気持ちに深く深く感謝しております。決して二度とこのようなことで皆様の信頼を裏切ることはありません。この気持ちを決して忘れることなく、皆様のお気持ちに恩返ししていきたいと思います。
<終了> 


「悔い改めた」とは、キリスト教では、最も大切な教えの一つです。今までの自分流の誤った生き方を認め、赦していただき、イエス・キリストを救い主として受け入れ、これからは神の方法で生きていくということを証すことが、酒井さんが発した「悔い改めた」という意味なのです。 


「生まれ変わった気持ちで心を入れ替え」をキリスト教の言葉に換言すると、「新生」つまり「個人の罪が赦され、聖霊によって霊的に新しく生まれ変わること」なのです。  


それでは「このような日々に支えてくださった方々の温かいお気持ちに深く深く感謝しております。」、この言葉の中の「方々」とは、誰でしょうか。私は、神と神の養子である、全世界のキリスト教徒であると考えます。 


このような、酒井さんの会見の言葉の背景には「キリスト教」があると感じるのは私だけではないでしょう。 

歌手としての酒井さんの先輩に、久保田早紀さんがいますが、キリスト教徒である久保田(久米小百合)さんは、このように証しています。 


「私を見て、私を聴いて」という世界から、「私の背後にあるものを見て、聴いて、感じてほしい」という願いへと、少しずつ少しずつ変えられたのですね。ちょうど私の心がキリストによって変えられたように。

http://godarea.net/index08052success.html 


酒井さんが、キリスト教を信仰するかしないかは、酒井さんの自由ですが、久保田早紀さんや本田路津子さんのように、教会を中心にゴスペルシンガーとして活動していただきたいと願ってやみません。 


最後になりましたが、表題の「千と千尋の神隠し」との関係について。 


酒井さんはまるで、「神隠し」にあったように姿を消しました。「千と千尋の神隠し」では、千尋の両親が「探していたのよ」と言っていますが、神様が千尋に何かを教えたくて神の世界へ導いたと言っていいでしょう。 


宮崎駿監督は、「みんなの中にカオナシはいる」と語っていますが、この映画で世の中が変わって欲しい、そう願っていたに違いありません。 


酒井さんという「報道商品」に群がるマスコミは、まるで欲望のままに神様の食べ物に手を出し、豚にされた千尋の両親のようです。金の力で何にでも手を出し、巨大化したカオナシは、まるで、「読売パワーで何でもできる」と考えている読売新聞社のようです。 


「千と千尋の神隠し」は、長編アニメの部門でアカデミーを受賞しました。欧米社会に受け入れられたのです。 


なぜでしょうか。私には、その理由は「キリスト教の教義に通じるものが多い」からだと思えます。 


キリスト教社会から見ると、現在の日本社会は「カオナシ」に支配された社会に映ることでしょう。 


神の世界に導かれた千尋が、一人の人間として神から与えられた使命によりカオナシに「愛と思いやり」を教える、実にキリスト教徒が喜びそうなストーリーです。 


酒井法子さんの一件もそうですが、世界中のキリスト教徒は、サタンに支配されている多くの日本国民を救いたい、そう考えているに違いありません。