NHKのシゴト
企画総務:水野 紗綾 事業:伊藤 雅道 アナウンサー:塚本 堅一 記者:吉岡 拓馬
平成15年入局 記者 吉岡 拓馬

みなさんこんにちは。5年目の記者、吉岡です。私は京都が初任地でこれまでの間、幸か不幸かずっと警察担当をしています。今回は学生さんに記者の仕事をイメージしてもらおうということで、私の新人のときの体験談を書くことにします。一般的に新人記者は警察を担当し、事件事故を追いかけることになります。これを読んで、少しでも記者の仕事について興味を持っていただければ幸いです。

私の原点、“鳥インフルエンザ事件”を振り返る

ゴールの見えないレース

平成16年2月27日、京都府は朝6時から緊急の記者会見を開いた。京都府中部の丹波町(現在の京丹波町)の養鶏場“浅田農産”でおよそ1万羽のニワトリが死亡しているのが見つかったという。養鶏場では1週間前から毎日1000羽以上のニワトリが死んでいた。原因はその日のうちに鳥インフルエンザであると特定された。鳥インフルエンザはそれまでに山口や大分で感染が確認されていたが、これほど大規模な感染は国内で初めてだった。

後から聞いたところでは、朝5時にたたき起こされた取材者たちの反応はばらばらだったらしい。「そりゃ大変だ!」とすっとんきょうな声をあげたデスクもいれば、「ニワトリが死んで何がニュースなのよ!」とすさまじく不機嫌な声で、電話をかけた後輩記者をたじろがせた女性記者もいる。みな、起きてから15秒後の反応だから文句をいうわけにもいかない。そして、みな等しく30分後には出社していた。私はたまたま研修で東京にいたが、すぐに京都に呼び戻された。

京都府は浅田農産の20万羽のニワトリを処分するとともに、半径30キロ圏内にある他の養鶏場に対してニワトリと卵の移動の自粛を要請。さらに5日後、浅田農産から300メートル離れた別の養鶏場で10数羽のニワトリが死んでいるのがみつかった。「我々は最悪の事態を迎えようとしている」、記者会見で思わず口をついた山田啓二知事のこの台詞は、ゴールのみえないレースに突入した当時の関係者の絶望感を象徴している。

サツ回りの宿命

「必ず事件になるから、家畜伝染病予防法をよく勉強しておけ!」、大阪の統括デスクから大きな声で電話がかかってきたのはその日の深夜だった。養鶏場の社長は6日間にわたって大量のニワトリが死亡しているのを確認しながら府に届け出ていなかった。届出を義務付けた家畜伝染病予防法に違反する疑いが出てきた。警察も当初から園部署に特別捜査班を設け、府や国からの告発を待ち構えていた。

取材の最大の焦点は、京都府警が京都府などから告発を受けて浅田農産への強制捜査に入るのはいつか、その“Xデー”を掴むことだった。

新人記者はほとんどサツ回り(警察取材)を担当する。サツ記者は、警察官の家を直接訪れ、帰宅や出勤の時間帯に捜査の進展状況について取材する。このいわゆる“夜討ち朝駆け”はサツ回りの宿命だ。事件のないときにも、毎日この夜討ち朝駆けを行って、顔を売り込み、捜査員と信頼関係を作る。そして、事件が起きたときに、日ごろ築いた取材源から独自の情報を聞き出し、特ダネとして報じる。

当然のことながら、そんな取材に喜んで応じる警察官は少ない。その中から情報を教えてくれる人はさらに絞られる。5年目の感覚から言うと、毎回話し相手になってくれるのは10人に1人、ヒントをくれるのは20人に1人、特ダネを得られるのは50人か100人に1人くらいだろうか。何人もあたり、かつ、同じ人のもとに何度も通うことで強固なニュースソースは築かれていく。

鳥インフルエンザ事件は、家畜伝染病予防法を適用するという前例のない事件だった。続報は新聞の一面を飾り、毎回テレビのトップニュースとして報じられた。こうした事件で特ダネを書けるか、他社に特ダネを書かれるかによって社の命運が分かれるといっても過言ではない。

報道各社が熱を上げるにつれ、府警の警戒心は強まった。捜査員の家に押しかけても全く相手にしてもらえない。一言も口をきいてくれない。事件は私が初めて経験する“修羅場”となった。

殺人の片棒を担いだか

今回の事件では、警察の捜査情報の他に、もう一つ大きな取材ポイントがあった。それは養鶏場の社長のウソを暴くことだ。発覚当日、詰め掛けた報道陣に対し、社長は「大量死の原因は鳥インフルエンザだとは思わなかった。対応に問題はなかった」と淡々と話した。その日の記事を書きながら誰もが“社長はウソをついている”と感じた。そして、直後から、報道各社は社長の発言の矛盾を突くために当時の従業員に取材し、社長が鳥インフルエンザを認識していたことを明らかにする証言を求めていった。

朝晩のサツ回りをこなしながら、私も従業員の自宅を何とか割り出し、取材に行った。ほとんどの人が取材を拒んだが、中には何人か応じてくれる人もいた。従業員の間では、通報が遅れたことを認めたうえで「社長は従業員やその家族の生活を守るために通報しなかったのだろう」とか「そもそも、通報した業者を守る法律はない。通報しろとだけいうのは、業者にとってリスクが大きすぎる」といった声が多かった。

マスコミは連日批判を繰り返しているが、国会議員や公務員ならともかく、つい先日まで一つの養鶏場の社長だった人物に対して、どこまで社会的責任を求めるのか、という気持ちが感じられた。従業員の気持ちには少なからず共感できる部分があった。しかし、一方で、他の養鶏業者や飲食店などの被った途方もない損害を考えると、通報をしなかった責任はやはり厳しく問われるべきだと感じた。

新人記者は悩んだ。しかし、その間、報道各社による社長や会社に対する批判はエスカレートの一途をたどった。「社長の父親の会長が妻を伴って自殺した」というニュースが飛び込んできたのはその矢先だった。

その晩、夜回り先の捜査員はぼそりと言った。「会長夫妻はマスコミが殺したようなもんとちゃうんか?」。警察の立場から見ても、報道は過熱していたという。私は答えた。「私もそう思います。会長と奥さんの死に、メディアとしてその一端を担った責任を感じています」。率直な気持ちだった。

私は、NHKを含め、エスカレートする巨大なメディアの渦の中で、現場に埋もれた小さくて複雑な声を伝えることはできなかった。現場で取材していながら、大きな渦に飛び込んで、新たな方向性を見出せない力不足を悔やんだ。

初めて触れたインテリジェンス

捜査が大詰めを迎えるなか、夜討ち朝駆けは激しさを増した。夜中2時まで待っても帰ってこないときには、朝6時に出直した。私も疲れていたが、捜査員はもっと疲れていた。深夜にせっかく会えてもすぐに家の中へ入ってしまった。まったく取材ができなかった。

私は作戦を変えた。捜査員に手紙を書くことにした。現場での悩みをそのまま書いた。従業員の話も書いた。いまの力不足を書いた、“物言う現場”の記者として、実力をつける決意を書いた。手紙は便箋7,8枚に及ぶこともあった。そして、懲りずにまた夜討ち朝駆けにいった。

3月30日夜、捜査員の家にいくと、家族は「もう寝てしまった」とそっけない。仕方なく引き返すと、10分後に私の携帯が鳴った。捜査員だった。

「あんた、いま周りに誰もおらんか?」、わたしは急いで一人になると、神経を研ぎ澄ませて携帯に耳を押し付けた。「あんただけには言うけどな、明日、府と国から刑事告発を受ける。そして即日、強制捜査や。午後には社長ら3人を逮捕する。逮捕者は社長の他に@@と@@。強制捜査の場所は・・と・・と・・と・・・・」。

ペンを持つ手が震えた。1か月間、肉体と神経を削って求め続けた捜査情報のすべてが、あっという間に手元でメモになっていった。うわずった声でデスクに連絡した。デスクは、信じられない、と言った。刑事告発と強制捜査・社長の逮捕が同日とはまったく想定していなかったからだ。

会社に帰ると、ニュースフロアは大勢の人間でごった返していた。デスクは翌日の体制作りのため東京や大阪の担当者と電話のやり取りで手一杯だった。それぞれの現場に向かう記者、カメラマン、車両スタッフ、映像を送る中継車の配備、放送局内で映像を加工する編集マン、それらを束ねるデスク陣。次々と翌日の体制が組まれていった。

翌日の早朝、社長は京都府警に任意同行を求められ、自宅前で報道陣にもみくちゃにされながら車に乗り込んだ。その後、府と国による刑事告発が行われ、浅田農産の本社に府警の捜査員が捜索に入った。夕方には社長が園部署に入り、午後9時過ぎに逮捕の一報が出た。NHKは朝から園部警察署前に中継車をはりつけて、一日中、“予定通り”に進んでいく現場の動きを着実に全国に伝え続けた。

私の原点

記者は、取材を重ねて積み上げた様々なインフォメーションの中から、洗練され、厳選された情報“インテリジェンス”を扱う仕事だ。うっかりすると指の隙間から零れ落ちてしまいそうになりそうな、とれたてほやほやのインテリジェンスが手の中にしっかりとおさまったとき、記者は異様な興奮に襲われる。

いま、世界でこの情報を握っているのは自分だけだ。これからこの情報を自分の手で全国のみなさまにお届けする、という瞬間だ。私は鳥インフルエンザ事件で初めてインテリジェンスに触れ、それ以来、中毒になった。

記者の醍醐味を知ったあの事件。どうしてあの時、捜査員は私に電話をかけてくれたのか。会長夫妻が自殺した夜、もし私が「メディアに非はない」と組織の体面を守るようなことを言っていたら、結果は違っていたと思う。

あの夜、捜査員もわたしも共にひどく落ち込んだ。ひどく落ち込んだ気持ちには、警察官や記者という立場は関係なかった。あの夜、お互いが自分自身の姿を見直そうとしたのかもしれない。そして、捜査員は、まとまりのない私の手紙のどこかに、勇気を持って期待をかけてくれたのかもしれない。

事件を振り返るとき、私はそこで得られた結果よりも、結果に至るまでのプロセスを大事にしている。自信のない新人記者が抱いた思いを、支持し、力強く後押ししてくれる人がいた。いまではその思いが以前よりも整理され、私の取材の軸になっているのを感じる。3年前の3月、激しい無力感や戸惑い、経験したことのない興奮が次々に心の中を駆け巡った。鳥インフルエンザ事件は、記者としての私の原点だ。