◆脳梗塞のt-PA治療 血栓を溶かし血流を再開
「これだけ重症だと命を救えるかどうか。寝たきりは避けられそうにない……」。06年のある夜、国立循環器病センター(大阪府吹田市)内科脳血管部門の峰松一夫部長は、90代の女性患者を前にして思った。名前を呼んでも返事がなく、右の手足はまったく動かない。脳梗塞(こうそく)の典型的な症状だ。だがある薬の点滴を受け、その後意識が戻った。翌朝、自分で朝食を取るまでに回復していた。
女性が投与を受けた薬は「t-PA」。05年10月に脳梗塞の治療薬として承認された。それまで根本的な治療法がなかった脳梗塞。t-PAは、寝たきりになるのを防ぎ、社会復帰可能なまでに回復が望める薬として、期待を受けて登場した。t-PAには、脳内の血管を詰まらせている血栓を溶かす効果がある。血流が再開すれば、虚血状態だった脳の組織が、再び機能を取り戻せるという仕組みだ。
限界もある。血栓が大きいと溶かしきることができない上、虚血部分も広がるため、血流が再開しても機能が戻りにくい。このため薬を使える人は、全脳梗塞患者の3分の1ほどと言われる。それでも承認から2年間で投与を受けた人は、約8300人に上る。従来、脳梗塞を発症して後遺症がなくなるまで回復できる人は一般的に20%台半ばといわれていたが、この薬の登場後は治験に参加した人の40%近くに増加するなど、効果が上がっている。
循環器病センターでも、これまで約170人に投与した。このうち、3カ月後に障害がなく仕事ができるまでに回復した人は47%に上るという。「寝たきりにならずに済み、社会復帰もできるのだから、この薬で運命が変わると言ってもいい」と峰松さんは強調する。
一方で、手放しでは喜べない現状もある。それはt-PAには、発症後3時間以内に投与しなければ効果が期待できないという制限があることによる。3時間以内に投与するためには、2時間以内には病院に着かなければならない。そのためには、患者の家族の素早い119番通報や、救急隊員がt-PA治療を施せる病院を把握しておく必要があるが、こうした点が徹底されていないため、治療までたどり着けない人が少なくない。
厚生労働省研究班(主任研究者・木村和美川崎医大教授)の調査では、全国の3分の1の消防本部がt-PA治療可能な病院の把握ができていなかった。また、t-PA治療が常時可能な病院は、脳梗塞を含む脳卒中治療病院の3割強にとどまる。病院が都市部に集中し、地方に少ない傾向もみられた。峰松さんは「住んでいる地域や、消防と病院の連携がうまくいかないために治療のチャンスを逃してしまうのは問題だ」と指摘する。
t-PA治療のチャンスを広げようという取り組みもみられる。川崎医大と地元の岡山県倉敷市消防局は、救急隊員が患者の症状の該当項目から、t-PAが使用可能かどうかを判断する点数を算出する方式を開発。使用可能となる点数が付いた患者は、対応可能な3病院のいずれかに搬送している。
t-PA導入以前は、病院へ来るのが2時間以内でも12時間以内でも、後遺症の有無に大差はなかったという。ところが今はその時間差が決定的な違いを生むため、診療体制を根本的に変える必要が出てきている。日本脳卒中協会専務理事の中山博文医師は「法律を制定し、市民への啓発や、救急体制や病院、リハビリ医療機関の整備を総合的に進めることが、t-PA治療の普及には欠かせない」と話す。【野田武】
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◆以下のような症状が出たらすぐに119番通報することを勧める(日本脳卒中協会による)
・片方の手足、顔半分のまひ、しびれ
・ろれつが回らない、言葉が出ない、他人の言うことが理解できない
・力はあるのに立てない、歩けない、ふらふらする
・片方の目が見えない、物が二つに見える、視野の半分が欠ける
・経験したことのない激しい頭痛
毎日新聞 2009年10月7日 東京朝刊