2009.10.02
【新版】吉田拓郎が教えてくれた…
あの日の君はとても
コワイ顔をしていました
だけど僕も一歩だって
引き下がるつもりはありません
時間ばかりが沈黙の中で
進んでいくような
それでも結局お互いに
納得は出来ないままで
女と男とは
違う生きものなんだと言いきかせて
黙り込んだままそっぽを向いて
寝るしかなかったのです
深夜になって僕は
そっと起きて水割りを作ってみました
一人で色々考えてみたけど
やっぱり結論は出ないままで
君はその頃寝たふりをしながら
くやしさいっぱいの気持ちで
「どうしてこの男と一緒にいるんだろう」と
考えていた事でしょう
あれからずいぶん時も過ぎ
考え方も変わってきたようだけど
君には君の 僕には僕の
越えられないものがある
昔と何が違うんだろう
年を重ねるって何だろう
人はそんなに変わらないだろう
僕は君の事が好きだから
君とこのままがいいんです
君も僕以外の男は無理でしょう
二人とも欠点が多くて
誇れるものは少ないけれど
お互いの事は二人が
一番良く知っているわけだから
いっぱいの問題を抱えながら
僕たちはこれからもずっと
危なっかしいけどそれなりの
人生を続けて行きましょう
(作詞・作曲/吉田拓郎・「今は恋とは言わない」)
吉田拓郎は今年、60歳を幾つか越えました。たしか63でしょうか…。その生き方は破天荒そのままでした。
1970年代初期、私が中学に入ってまもない頃です。彗星の如く音楽sceneに現れて、しかしTV嫌いでTVには殆ど出ず、AMラジオが彼らフォークシンガーの砦でした。なのに突然、当時の人気番組「夜のヒットスタジオ」に登場したかと思えば、他の歌手が1曲それも1コーラスを省いた持ち時間しか貰えない中で拓郎だけノウノウと48分枠のうち何と15分近くも番組を占拠してフルコーラスで3曲(2曲という説もありますが私の記憶では3曲です)も唄い続けるという無茶苦茶ぶり。それも折角の番組専属バックバンドを無視して持参したギターとブルースハープだけでガナるように唄っては、愛想笑い1つ見せないまま不機嫌そうに姿を消していったものでした。
童顔と長髪の優男にも拘わらず、常に世間や業界に対して挑戦的に憎まれ口を叩き、「俺はLoveーSongしか唄わない」と啖呵を切りつつも、その歌は実に身近な人生の悲しみや寂しさ、強がりや弱さを秘めた繊細な情緒に溢れていたものです。
私生活では毎日のように殴り合いのケンカ沙汰が絶えませんでした。生来のケンカ好きで相手が何人いようと自分からケンカを売ってはタックルを仕掛けてガムシャラにパンチの連打連打がお決まりのパターンだったといいます。当然、全戦全勝とはいかず勝率6割程度。
四角佳子との結婚の引き金になったケンカでは、他人のケンカの仲裁に入る振りをして暴れたものの、運悪く相手が極真空手の使い手で顔面に回し蹴りを入れられて鼻骨と頬骨を骨折しオマケに眼底出血で病院に運ばれたとか。
そんな拓郎を献身的に看病した四角と電撃結婚したものの、あっという間に電撃離婚。仲人役の小室等から呆れられ絶縁の憂き目に遭ったりもしました。
とにかく異常なケンカ好き、ボコボコにやられて血だらけになるのも日常茶飯事でした。それでも業界関係者相手のケンカでは泉谷しげると引き分け(一説には判定負け)、長渕剛には瞬殺KO…こんな武勇伝が語り継がれています。だから幾度も警察の厄介になり、名が世間に売れてからは何度も「吉田拓郎、また暴行傷害の現行犯で逮捕」なんてmediaには叩かれ続け、業界やmedia関係者から疎んじられてきたのです。酒癖は勿論悪いですがシラフでもケンカ上等で、何と口ゲンカならば負け知らずだったとか。矢沢永吉さんもタジタジでした。
当然、女性関係の激しさも並みではなく、四角佳子との離婚から程なく、当時清純派アイドルとして人気絶頂だった浅田美代子と入籍。しかしまた数年で離婚。拓郎は世間から「女癖が悪いヤツ」と集中攻撃され、良識派からは強烈な顰蹙を買ったものです。
そんな無茶苦茶な無頼派振りは20代から40歳頃まで殆ど変わる事もなく、拓郎を嫌いな人間に言わせれば「礼儀知らずのまま天狗になった生意気なガキ」でしかなく、ショーケンこと萩原健一と並んで要は鼻つまみ者、手に追えない「暴力ミュージシャン」の象徴でした。
口を開けば嘘か誠か周りを煙りに撒くような話しかしないヘソ曲がりか皮肉屋か!? 掴み処のないひねくれ者でもありました。その癖、ツッコミは半端でなく過去幾多の芸能人のスキャンダルを暴露しまくりました。桑田佳祐と原由子の関係も拓郎がラジオで暴いた事は知る人ぞ知る秘密です。
拓郎が劇性胃潰瘍で入院。歌手生命は終わったと言われた頃、桑田は拓郎を貶めた「吉田拓郎の唄」を作り大物振りをアピール、「これで拓郎を葬った!」とまで公言しましたが、拓郎は奇跡的に復活。焦った桑田は見舞いにギター、フェンダー社製のテレキャスターを贈ったら目の前でメチャメチャに壊され、その後非公式に歌詞を大幅に書き換えさせられ、コンサートではこの楽曲を封印したというのは業界内では有名な話です。
話が脇道にそれました。
本業の音楽活動ではいち早くプロ意識に目覚めセルフプロデュースに乗り出しました。自ら業界と対立しながら身に付けたノウハウで矢沢さんの独立に貢献し、かぐや姫をプロデュース、ビートボーイズと名乗りビートルズのコピーバンドだったアルフィーを売り出したのも拓郎でした。拓郎のバックバンドでドラムスを担当していた浜田省吾は拓郎と所謂「師弟関係」にあるのですが、浜田のデビュー時には拓郎がバックバンドを務めた事もありました。
最後には自分らのレコード会社まて設立するという異彩を放ち、型破りな行動力で音楽sceneを駆け抜けていきました…。
コワイ顔をしていました
だけど僕も一歩だって
引き下がるつもりはありません
時間ばかりが沈黙の中で
進んでいくような
それでも結局お互いに
納得は出来ないままで
女と男とは
違う生きものなんだと言いきかせて
黙り込んだままそっぽを向いて
寝るしかなかったのです
深夜になって僕は
そっと起きて水割りを作ってみました
一人で色々考えてみたけど
やっぱり結論は出ないままで
君はその頃寝たふりをしながら
くやしさいっぱいの気持ちで
「どうしてこの男と一緒にいるんだろう」と
考えていた事でしょう
あれからずいぶん時も過ぎ
考え方も変わってきたようだけど
君には君の 僕には僕の
越えられないものがある
昔と何が違うんだろう
年を重ねるって何だろう
人はそんなに変わらないだろう
僕は君の事が好きだから
君とこのままがいいんです
君も僕以外の男は無理でしょう
二人とも欠点が多くて
誇れるものは少ないけれど
お互いの事は二人が
一番良く知っているわけだから
いっぱいの問題を抱えながら
僕たちはこれからもずっと
危なっかしいけどそれなりの
人生を続けて行きましょう
(作詞・作曲/吉田拓郎・「今は恋とは言わない」)
吉田拓郎は今年、60歳を幾つか越えました。たしか63でしょうか…。その生き方は破天荒そのままでした。
1970年代初期、私が中学に入ってまもない頃です。彗星の如く音楽sceneに現れて、しかしTV嫌いでTVには殆ど出ず、AMラジオが彼らフォークシンガーの砦でした。なのに突然、当時の人気番組「夜のヒットスタジオ」に登場したかと思えば、他の歌手が1曲それも1コーラスを省いた持ち時間しか貰えない中で拓郎だけノウノウと48分枠のうち何と15分近くも番組を占拠してフルコーラスで3曲(2曲という説もありますが私の記憶では3曲です)も唄い続けるという無茶苦茶ぶり。それも折角の番組専属バックバンドを無視して持参したギターとブルースハープだけでガナるように唄っては、愛想笑い1つ見せないまま不機嫌そうに姿を消していったものでした。
童顔と長髪の優男にも拘わらず、常に世間や業界に対して挑戦的に憎まれ口を叩き、「俺はLoveーSongしか唄わない」と啖呵を切りつつも、その歌は実に身近な人生の悲しみや寂しさ、強がりや弱さを秘めた繊細な情緒に溢れていたものです。
私生活では毎日のように殴り合いのケンカ沙汰が絶えませんでした。生来のケンカ好きで相手が何人いようと自分からケンカを売ってはタックルを仕掛けてガムシャラにパンチの連打連打がお決まりのパターンだったといいます。当然、全戦全勝とはいかず勝率6割程度。
四角佳子との結婚の引き金になったケンカでは、他人のケンカの仲裁に入る振りをして暴れたものの、運悪く相手が極真空手の使い手で顔面に回し蹴りを入れられて鼻骨と頬骨を骨折しオマケに眼底出血で病院に運ばれたとか。
そんな拓郎を献身的に看病した四角と電撃結婚したものの、あっという間に電撃離婚。仲人役の小室等から呆れられ絶縁の憂き目に遭ったりもしました。
とにかく異常なケンカ好き、ボコボコにやられて血だらけになるのも日常茶飯事でした。それでも業界関係者相手のケンカでは泉谷しげると引き分け(一説には判定負け)、長渕剛には瞬殺KO…こんな武勇伝が語り継がれています。だから幾度も警察の厄介になり、名が世間に売れてからは何度も「吉田拓郎、また暴行傷害の現行犯で逮捕」なんてmediaには叩かれ続け、業界やmedia関係者から疎んじられてきたのです。酒癖は勿論悪いですがシラフでもケンカ上等で、何と口ゲンカならば負け知らずだったとか。矢沢永吉さんもタジタジでした。
当然、女性関係の激しさも並みではなく、四角佳子との離婚から程なく、当時清純派アイドルとして人気絶頂だった浅田美代子と入籍。しかしまた数年で離婚。拓郎は世間から「女癖が悪いヤツ」と集中攻撃され、良識派からは強烈な顰蹙を買ったものです。
そんな無茶苦茶な無頼派振りは20代から40歳頃まで殆ど変わる事もなく、拓郎を嫌いな人間に言わせれば「礼儀知らずのまま天狗になった生意気なガキ」でしかなく、ショーケンこと萩原健一と並んで要は鼻つまみ者、手に追えない「暴力ミュージシャン」の象徴でした。
口を開けば嘘か誠か周りを煙りに撒くような話しかしないヘソ曲がりか皮肉屋か!? 掴み処のないひねくれ者でもありました。その癖、ツッコミは半端でなく過去幾多の芸能人のスキャンダルを暴露しまくりました。桑田佳祐と原由子の関係も拓郎がラジオで暴いた事は知る人ぞ知る秘密です。
拓郎が劇性胃潰瘍で入院。歌手生命は終わったと言われた頃、桑田は拓郎を貶めた「吉田拓郎の唄」を作り大物振りをアピール、「これで拓郎を葬った!」とまで公言しましたが、拓郎は奇跡的に復活。焦った桑田は見舞いにギター、フェンダー社製のテレキャスターを贈ったら目の前でメチャメチャに壊され、その後非公式に歌詞を大幅に書き換えさせられ、コンサートではこの楽曲を封印したというのは業界内では有名な話です。
話が脇道にそれました。
本業の音楽活動ではいち早くプロ意識に目覚めセルフプロデュースに乗り出しました。自ら業界と対立しながら身に付けたノウハウで矢沢さんの独立に貢献し、かぐや姫をプロデュース、ビートボーイズと名乗りビートルズのコピーバンドだったアルフィーを売り出したのも拓郎でした。拓郎のバックバンドでドラムスを担当していた浜田省吾は拓郎と所謂「師弟関係」にあるのですが、浜田のデビュー時には拓郎がバックバンドを務めた事もありました。
最後には自分らのレコード会社まて設立するという異彩を放ち、型破りな行動力で音楽sceneを駆け抜けていきました…。
拓郎の放蕩三昧は30をとうに過ぎても絶える事はなく、当時全盛期の小室哲哉に向かって「パクリばかりしていたら天罰が下るよ」…臆面もなく予言めいた憎まれ口を放ちもしたものです。
またもや美人女優の森下愛子と3度目の結婚をし、やっと落ち着いてきたと思われる50代に入って、肺癌に冒され、劇性気管支炎でまたもや再起不能とまでいわれました。拓郎が重度の鬱病だという噂が流されたのもこの頃です。そんな噂をひっくり返し健在ぶりを見せつけたのが2006年のつま恋野外コンサートでした。
そんな荒唐無稽な人生を過ごしてきたからこそ、60という歳を迎えて、拓郎は人生や恋の辛さを恥じらいながらも正直に語れる稀有な存在になる事が出来たように思うのです。
(自由奔放、無頼そのままだった若い頃の吉田拓郎)
私と拓郎は年齢が1回り以上も離れています。高校から大学の頃まで、「今の拓郎の歌を理解するには10年経って今の拓郎と同じ年代にならないと難しい」なんて知った事を言いつつ、あれから30年…、自分もかなり長い季節を経ながら生きてきたからかもしれません。最近は13歳上の吉田拓郎の歌も何故か違和感なく受け入れられるようになりました。
最新アルバム「午前中に…」。
今の自分自身をなんのてらいもなく受け入れて、心のままに唄う事は決して簡単ではありません。
弱い自分も情けない自分もみんな受け入れられる拓郎って、なんて強い人なのでしょう! 常にパワー全開の矢沢さんとは対極にいるようで実はワープで繋がっているような似た者同士なのかもしれません。そういえば吉田さんと矢沢さんは遥か昔から悪友関係です。イメージと違いゲコで女性にウブな矢沢さんをいつも吉田さんはイジイジと苛めていたようです。
松任谷由実の旦那とも親しく、でも奥さんの由実とはロクに話もしない。なのに仲がいいという不思議な関係です。中島みゆきからは「与太者」と呼ばれ、親しいけれど電話ではオシャベリでも実際会うと目も会わさないという…、意外や意外、女性にはシャイなところが拓郎の本質なのです。
でも、そんな拓郎の存在があったからこそ、現在はJーpopという産業界主導の命名で腐ってしまったポップス界ですが、日本のニューミュージックを育てた事実は揺るがないでしょう。
吉田さん、私はアナタの歌を40年聴き続けてきました。しかし、このアルバムの「今は恋とは言わない」。冒頭で紹介した楽曲です。些細なシチュエーションは異なりますが、それでもこの楽曲は私と「彼女」の10年前の姿・関係と…現在の関係をそのままそっくりに歌い挙げられたような気がして思わず鳥肌が立ってしまいました。
そうなんです。
燃えるような「激情」も消え果て、熱い熱い「恋」も静かに醒めていきました。20年の付き合いと、10年間の男と女です。でも激情や恋なんて言葉がナンセンスなくらい、私は今も「彼女」が好きです。「彼女」だって今更、どんな男を好きになれると言うのでしょう!? それが無理な事くらい「彼女」は全部分かっているはず。
腐れ縁なんて言葉は嫌いです。ただ、この拓郎の楽曲がありのままの私と「彼女」を語っているようで…いつも涙もろい私ですが、今度は泣きませんでした。
昔の、昭和中期の糞ガキのように、青っ鼻を腕で擦りながら、妹みたいな「彼女」の袖を引っ張って、「もう陽が暮れちゃうよ、腹も減ったし早く帰ろうぜ!」
俺たちの場所に…。
そんな気持ちになりました。
(吉田拓郎からは生きる余裕を教えてもらった気がします)
(ミュージシャンの誇りからか、吉田さんは常にボーカルトレーニングを欠かさず、歳と共に益々歌が上手くなっているのが不思議です。その点も矢沢さんに似ています)
(了)
またもや美人女優の森下愛子と3度目の結婚をし、やっと落ち着いてきたと思われる50代に入って、肺癌に冒され、劇性気管支炎でまたもや再起不能とまでいわれました。拓郎が重度の鬱病だという噂が流されたのもこの頃です。そんな噂をひっくり返し健在ぶりを見せつけたのが2006年のつま恋野外コンサートでした。
そんな荒唐無稽な人生を過ごしてきたからこそ、60という歳を迎えて、拓郎は人生や恋の辛さを恥じらいながらも正直に語れる稀有な存在になる事が出来たように思うのです。
(自由奔放、無頼そのままだった若い頃の吉田拓郎)
私と拓郎は年齢が1回り以上も離れています。高校から大学の頃まで、「今の拓郎の歌を理解するには10年経って今の拓郎と同じ年代にならないと難しい」なんて知った事を言いつつ、あれから30年…、自分もかなり長い季節を経ながら生きてきたからかもしれません。最近は13歳上の吉田拓郎の歌も何故か違和感なく受け入れられるようになりました。
最新アルバム「午前中に…」。
今の自分自身をなんのてらいもなく受け入れて、心のままに唄う事は決して簡単ではありません。
弱い自分も情けない自分もみんな受け入れられる拓郎って、なんて強い人なのでしょう! 常にパワー全開の矢沢さんとは対極にいるようで実はワープで繋がっているような似た者同士なのかもしれません。そういえば吉田さんと矢沢さんは遥か昔から悪友関係です。イメージと違いゲコで女性にウブな矢沢さんをいつも吉田さんはイジイジと苛めていたようです。
松任谷由実の旦那とも親しく、でも奥さんの由実とはロクに話もしない。なのに仲がいいという不思議な関係です。中島みゆきからは「与太者」と呼ばれ、親しいけれど電話ではオシャベリでも実際会うと目も会わさないという…、意外や意外、女性にはシャイなところが拓郎の本質なのです。
でも、そんな拓郎の存在があったからこそ、現在はJーpopという産業界主導の命名で腐ってしまったポップス界ですが、日本のニューミュージックを育てた事実は揺るがないでしょう。
吉田さん、私はアナタの歌を40年聴き続けてきました。しかし、このアルバムの「今は恋とは言わない」。冒頭で紹介した楽曲です。些細なシチュエーションは異なりますが、それでもこの楽曲は私と「彼女」の10年前の姿・関係と…現在の関係をそのままそっくりに歌い挙げられたような気がして思わず鳥肌が立ってしまいました。
そうなんです。
燃えるような「激情」も消え果て、熱い熱い「恋」も静かに醒めていきました。20年の付き合いと、10年間の男と女です。でも激情や恋なんて言葉がナンセンスなくらい、私は今も「彼女」が好きです。「彼女」だって今更、どんな男を好きになれると言うのでしょう!? それが無理な事くらい「彼女」は全部分かっているはず。
腐れ縁なんて言葉は嫌いです。ただ、この拓郎の楽曲がありのままの私と「彼女」を語っているようで…いつも涙もろい私ですが、今度は泣きませんでした。
昔の、昭和中期の糞ガキのように、青っ鼻を腕で擦りながら、妹みたいな「彼女」の袖を引っ張って、「もう陽が暮れちゃうよ、腹も減ったし早く帰ろうぜ!」
俺たちの場所に…。
そんな気持ちになりました。
(吉田拓郎からは生きる余裕を教えてもらった気がします)
(ミュージシャンの誇りからか、吉田さんは常にボーカルトレーニングを欠かさず、歳と共に益々歌が上手くなっているのが不思議です。その点も矢沢さんに似ています)
(了)