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そして、今夜も旅の空

 人よりも多く旅をしているほうだと思う。

 いろいろなきっかけから旅行が好きになった。幼少時に冒険譚を読み漁った経験、自転車で遠出を始めたこと、また従来よりの珍しモノ好きの性格、ユースホステルとの出会い、人との邂逅の面白さ、歴史散策や文学散歩へののめり込み、食い道楽、また現実逃避癖、遁走の習性、などなど。
 若い頃は本当に旅ばかりしていた。
 そして、そのことを今になって書き残しておきたくなった。

 最初はHPを作る予定だった。いや、途中まで作成した。タイトルは「今夜も旅の空」。ところが、以前書いたように諸般の事情があって完成には至らず、負担のかからないブログで吐き出していくことにした。それがこの、カテゴリ「都道府県見て歩き」である。
 最初に書いた「旅心さそわれて」、そして北海道から書きはじめて、ここまでまる5年。あの頃はまだ30代だったことを思うと、感慨もあるし、またノロマであったとも思う。ただ、書いていて本当に楽しかった。追体験の悦びと言おうか。
 いずれにせよ、これが最終記事である。過去の旅行の話は、まだまだ書き尽くせてはいないので、また何らかの形で様々に顔を出してくるはずだが、とりあえずの中締めとしたい。

 もちろん、僕よりもずっと多くの足跡を残している人はゴマンといらっしゃるし、オマエ程度で旅を語るのはおこがましいと思う人も多いことだろう。けれども、これは数の問題でもない。強いて言えば濃度だろうか。
 今もあの時の、旅のひとコマひと場面を克明に思い出すことが出来る。時に怒涛の如く溢れ出る。郷愁に押し潰されそうになるほどに。

 旅の様々な思い出は尽きることがない。
 思いつくままに。
 白い蝶がまるで紙吹雪のように舞い降りたあの天塩の祝福のとき。
 北海道の羽幌で見た、天売島と焼尻島の間に焼けるように沈む大きすぎる夕陽。
 キタキツネに案内された雄冬の絶景。
 流氷迫るオホーツクの海岸で、夕焼けで真紅に染まった神々しい斜里岳と出会えた僥倖。
 十和田湖で見た天の川。
 本土最南端の佐多岬で野宿中、東から西へとブンと音がするように飛んだ流れ星。
 北アルプスの山々が朝の斜光線に包まれ、上高地が神河内へと姿を変えた瞬間。
 屋久島の限りなく澄み切った水と、森の力漲る巨木。
 波照間島の、初日の出と、西の空に架かる虹が同時に現れた光景。
 夜汽車を待つ人気のないプラットホームから見た、蒼い月が煌々と輝いていた夜空。
 自転車で峠を上りきったときの一杯の水の甘露。
 札幌の生ビール。釧路の燗酒。積丹の一升瓶ワイン。沖縄の泡盛。
 三春の桜。美瑛のひまわり。野尻湖の紅葉。浜頓別の吹雪。
 あのときの空。あのときの風。あのときの薫り。あのときの歌。
 そして、なにより沢山の人たちに出会えたこと。
 
 全てが、奇跡だったように思える。

 色褪せない思い出は、僕の財産であり、他に代替出来ないもの。いつまでも胸に焼き付いて離れない心の中の神話。もしもそんなよろこびを知らずにここまで過ごしてきたとしたならば、俺の人生なんてスカスカだったに違いない。
 そんな追憶の断片をこうしてネット発信で書き残すことが出来たのは幸福だった。昔であればただこっそりと大学ノートにでも書いていなければしょうがなかったであろうに。こんな時代に感謝している。

 まだ僕の人生は終わってはいない。また旅に出たい。思い出を積み重ねたい。そして、今夜も旅の空の下で幸せを噛み締めつつ眠りたい。



 「都道府県見て歩き」完結です。ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。

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僕の旅 番外編・韓国

 このブログでのカテゴリはもちろん「都道府県見て歩き」であり47都道府県へ旅行した思い出話に限るはずだが、前回の番外編カナダに続き、また日本以外の話をするのをお許しいただきたい。

 と書いて、いきなり本筋からそれる話だけれど、何で僕は日本ばかりウロウロしているのかと思う。世界はこんなに広いのに。
 もちろん海外旅行が嫌いなんて思っていない。そもそもほとんど海外経験がないのに嫌いになるはずもない。行きたいところは山ほどある。ツンドラの大なる風景を見てみたい。フィヨルドを見たい。モンゴルの大草原を見たい。マッターホルンも見たい。グアテマラのティカル、ペルーのマチュピチュ、ナスカの地上絵、イースター島のモアイ、ヨルダンのペトラ、エジプトのピラミッド、みんな見たい。インドのヴァラナシに佇みたい。パリを散歩したい。四川で麻婆豆腐を食べたい。等々。
 何が原因で飛び出さなかったのか。いろいろな要因があると思う。金がないからか? いや、今はヘタに日本を旅するよりも格安で海外に行ける。言葉が通じないのが怖いからか? いやそんなのなんとでもなる。もしかしたら面倒臭いからか?
 そうかもしれない、とも思ったりする。本質的には、日本を旅行することの深みにはまってなかなか抜け出せなかった、ということが第一義的だろうとは思うのだが、面倒臭いというのもやっぱりあったのではないか。僕は何かにつけ、手続きというものがズボラなので嫌いだ。旅の計画を立てるのは大好きだがそれはあくまで頭脳内計画であり、実際に何かに申し込んだり予約をしたり、ということはほとんどしない。なので、外面的にはいつも行き当たりばったり旅行と変わらない。
 自分がズボラだから外の世界へ飛び出さなかった、ということも遠因としてあるのではないか、とこの記事を書いていて思った。
 
 しかしズボラであっても、比較的思いつきで行動に起こせる国もある。グアムやサイパンもそうだろう。そして、なんと言っても隣の国、韓国はその最右翼ではないだろうか。
 思えば、カナダに行ったときは面倒臭かった。様々な手続きもそうだが、例えばトラベラーズチェックなども作らなければならない(カードなどそんな頃は持っていない)。贅沢旅行のせいだが、スーツなんかも持たねばならない。ということは、旅行用トランクも借りなければならないし、小さな携帯用アイロンなんかも入手しなくてはいけない(Yシャツなんか着るからだ)。全てが、いつも適当な旅行しかしてこなかった僕にはうざったかった。
 隣の国である韓国に短期間ふらりと行くならば、そんな気遣いはない。ウォンなど日本円を持っていけば現地で簡単に両替出来る。小さなかばんひとつで、気軽に行ける。時差もない。
 というわけで、僕は韓国には何度か行ったことがある。

 ところで、実は最初に韓国に行ったのは、団体旅行だった。それも公的な付き合いであり、実につまらなかった。こんなことは本来記事にはしないのだが、行きがかり上少し書く。15年前くらいだったろうか。
 旅行に日頃の上下関係を持ち込むほど愚かなことはないのだが(だから職場の慰安旅行なんてのも嫌いだ)、2泊3日のスケジュールもお仕着せでしっかりと決まっている。メインは国境の烏頭山統一展望台だった。しかし霧で何も見えない。臨津江(イムジン河)が見られただけでも幸いか。それから民族村。李氏朝鮮時代の風俗を再現したテーマパークだが、こことて自由行動がきくわけでもなく、民族舞踊を見たことくらいしか印象にない。
 あとは概ねソウルにいたが、大部分は買い物の時間となっている。こちらは免税品など全く興味がないのだが、座っているわけにもいかず見ているふりをずっと続けなければいけない。なかなかに退屈な時間である。
 ただ、国立中央博物館にだけは行けたのは幸いだった。ここは、日韓併合時代の朝鮮総督府庁舎をそのまま活用してあり、李氏朝鮮の王宮である景福宮を遮るように建てられている。(これは立派な建物であったがさすがに取り壊され、その後博物館は光化門付近に移転され、のちさらに郊外へと移った)。ここにはあの広隆寺の弥勒菩薩に酷似した半跏思惟像をはじめ、数多くの名品が所蔵されている。これは値打ちがあった。
 夜は焼き肉でビール。そしてギャンブルや女性のいる店。団体旅行というものはこういうものなのだろうか。さらに最終日はロッテワールドである。遊園地は好きだが、何を好きこのんでおっさんの団体がわざわざ海外でゾロゾロとコースターに乗らねばならぬのか。

 人により感じ方はあるだろうが、僕にとってはこういうのはつまらない。なんとかしてリベンジをせねばならぬ。幸いにして当時僕は日本海側に住んでいて、韓国は近い。しばらく経ったある冬、うまく時間のやりくりが出来たので再びソウルへカミさんと二人で出かけた。廉価ツアーに乗っかってはいるものの、今度は泊まるホテルが決まっている以外はフリープランである。小松空港に集合し、着いたらホテルまでは送ってくれる。そこから先は自由。
 前回は、立派なホテルだったが郊外だった。今回は街の真ん中、明洞(ミョンドン)である。チェックインの後、僕たちは早速街探検に出かけた。やっぱり旅は歩かないと。

 ソウルには、観るべき場所が多い。景福宮。徳寿宮。世界遺産でもある昌徳宮、宗廟。ある程度李氏朝鮮の歴史は知っておいた方がより観光に深みが増す。
 そして、とにかく歩く。それも、出来ることなら裏道も行きたい。大都会ソウルもビルばかりではない。向こうの人にとっては何気ない道でも、こちらにとっては十分異国を感じさせてくれる。バスで通り過ぎては味気なさ過ぎる。
 観光客にとっては、市場が楽しい。こないだ焼けちゃった南大門の東に広がる南大門市場などどう歩いても楽しい。迷宮感がまたたまらない。
 ソウルだけでも書くべき名所は山ほどあるのだが、それより何よりこの街で最も楽しみなのは「食」である。韓国料理が嫌いな人を除いて、異論のある人は少なかろう。なんと言っても食い物が最高だ。
 
 韓国といえば焼肉とキムチ、と相場が決まっているようなものだが、試みに街の焼肉屋とおぼしき店に入ってみる。あまり日本語が店頭に書かれていない、しかも混んでいる店。注文は難しくない。「カルビクイ、チュセヨ(骨付きカルビ下さいな)」と頼む。タン塩だのハラミだのとあまり細分化していない。カルビが王様である。
 すると、それだけしか注文していないのにテーブルには副菜の皿が所狭しと並ぶ。これは、知らないとちょっと驚く。各種キムチ(カクテキやオイキムチ、水キムチなど多彩)や各種ナムル、ポックムと呼ぶ様々な炒め物、チヂミなどなど。これらはミッパンチャンと呼ばれ、基本的に無料で供される。中には焼いた太刀魚だのケジャン(ワタリガニの辛味漬)だの、日本で頼めばこれだけで千円くらいとられるんじゃないかと思われるものまで付いてくる。さらにサンチュやエゴマなどが生野菜として山ほど添えられる。これで包んで食べなさいということだろう。
 コンロにはカルビが広げられ、焼かれる。焼ければハサミで切り、野菜に包んで食べる。もう美味くてたまらない。ビールだビール。「メッチュ(麦酒)、チュセヨ」と頼む。ビールをグビグビ飲みつつ、ガツガツ食べる。野菜やキムチなどの小皿はおかわり自由である。無くなればどんどん補充してくれる。文化が違うのだ。僕などは食べ物を残すとバチが当たると言われて育てられてきたが、あちらでは皿がカラになると「満足していない」とみなされる。なので次から次へと運ばれてくる。うわーもう食べられないよ。
 ウォンの相場もあるし物価などは一概には比べられないが、勘定は安い。こんなことを経験してしまうと、日本でちまちました「和牛カルビ1200円(5切れ)」だの「キムチ盛り合わせ600円」だのと注文することが死ぬほど辛く感じられてしまう。

 飲みすぎ、朝は少し二日酔い気味で目が覚める。鍾路にある「里門ソルロンタン」へと向かう。ここは韓国には珍しい老舗であり、当時で開業90年を超えていた。今なら100年以上の店だろう。ここで「雪濃湯(ソルロンタン 牛肉スープ)」をいただく。その名の通り雪のように白いスープの中に、肉とごはん、ククス(麺。冷麦のような感じか)が入っている。以外にさっぱりとしたスープで、これを卓上の塩などで自分が好きなように味付けして食べる。しみじみ美味い。ネギも山のように盛られてテーブルにあり適宜加えるが、それより何よりここのカクテキがたまらなく美味い。これもどっさり盛られて登場、好きなだけ食べていい。キムチもカクテキも細かく切り分けられているわけではなく、勝手に置いてあるハサミで食べやすく切る。
 ソルロンタンだけでなく、トガニタンも注文する。これは、牛のヒザ軟骨を煮込んだスープで、軟骨はもちろんプルプルである。いわゆるコラーゲンたっぷりというやつ。このプルプルを酢醤油につけて食べるのだが、またこれがたまらん。どうしても酒が欲しくなり、朝なのに「ソジュ(焼酎)チュセヨ」とつい言ってしまう。二日酔いだったはずなのになぁ。韓国では焼酎はたいてい2合瓶で出てくる。これをストレートで猪口であおるわけだが、トガニのプルプル、そしてカクテキの滋味深い味に抜群に合う。二日酔いを牛スープで癒しつつ、さらにアルコールを摂取するというえげつない食生活がまた始まった。
  
 昼は市場を歩く。屋台が並ぶ。その中で、豚のアタマがディスプレイされているちょっとした店に入ってみる。指でさして注文すればいい。そのチャプチェ(春雨と野菜の炒め物)チュセヨ。チョクパル(豚足)も美味そうだな。そう言えば、デカい包丁で細かく切り分けて出してくれる。一口食べると、実にコクがあって美味い。またもや「ソジュ、チュセヨ(汗)」。
 スンデ(血入腸詰)や他に様々なものを食べる。寒かったのでスンドゥブチゲ(豆腐チゲ)もひとつ頼む。これがまたしみじみと美味いのだよなぁ。ごはんは付いているのだがキムパ(韓国風海苔巻)もつい頼んでしまう。もうおなかいっぱいだぁ。

 妻が言う。「身体が野菜を欲していないよ。こんなこと珍しい」
 旅行で外食が続くと、どうしても野菜不足になる。食べたいものを優先しているとそうなっちゃうのだろう。ところが、韓国ではそうではない。食事のバランスがいいのだ。ミッパンチャンの存在は大きい。一種類ではなく常にいろいろなものを総合して食べているので身体にいいのだろう。唐辛子もまた新陳代謝に大きく寄与していると考えられる。
 しかし、食事の量は常に多い。夕食は軽めにするか…とその時は思うのだが、まだまだこの地で食べるべきものは山ほどあるのだ。もちろん参鶏湯(サムゲタン)も食べなければならない。冷麺もビビンバも食べなければならない。サムギョプサルも、プルコギも、各種フェ(刺身類)も、各種チゲも…。胃袋がひとつなのが恨めしい、とはよく言う決まり文句ではあるが、韓国旅行では常にそう思う。あれも食べたいこれも食べたい。
 そうして、野菜もたっぷり食べ唐辛子で汗をかいているにも関わらず、体重を相当量増やして帰国するのである。いやはや。
 
 こんなふうに若い頃、数度韓国へ行った。韓国と言っても主体はソウルであり、あちこち回ったわけではない。釜山はもとより、扶余にも慶州にも行っていない。そのうち行こう、と思っているうちにバタバタしてしまい、行けずじまいだった。知らない間にパスポートも切れていた。
 先日新聞広告を見ていたら、韓国ツアーが驚くべきことに2万円台であった。こんなの国内旅行の比ではないほど安い。時間があればまたトガニタンを食べに韓国に行きたい、と思いつつ、全然実現していない。やはり面倒臭がらずにパスポートを取りにいかなければいけないなぁと思う。
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僕の旅 番外編・カナダ

 新婚旅行など、あまり真剣に考えていなかった。日が近づくまで。
 それより、結婚式とか披露宴の方に気をとられていた。僕は当時、転勤で北陸の街に住んでいたのだが、両親はもとより親戚も友人もこの地には居ない。僅かに上司、同僚がいる程度だ。なので普通なら地元の関西で、とすべきだが、結婚相手が東北出身で関東在住ときた。もうバラバラである。紆余曲折あって、結局は僕が今居るところの北陸でとり行うことになった。出席者はほとんどが移動を伴う。
 僕はそんな手配やら準備やらで、空いている時間は全て忙殺されていた。地元には手伝ってくれる人もいない。妻になる予定の人すらいないのだ。何でも一人でやらざるを得なかった。旅行なんてそのうち手が空いたときに考えればいいや、一年以内に行けばいいんだろ、くらいに思っていた。

 しかし、そういうものではないらしい。
 僕はあちこちから脅された。一生に一度のものを、そんなオマエがいつもやってるノープラン旅行と同列に考えるものではない。ハネムーンは夢がないと。適当にすれば一生言われ続けるぞ。等々。
 僕は妻になる予定の人に電話した。どうしようか?
 彼女は言う。やっぱり外国がいい。こんな機会でないと行けないから。条件はまず治安のいいところ。そして、ちゃんと旅行会社のツアーに乗っかった方が安心である。それから綺麗な風景が観たい、と。
 なるほど。僕は外国と言えばすぐ「深夜特急」みたいなものを連想してしまったが、それは確かにハネムーンらしくない。じゃもうこの際、普段は絶対にやらない大名旅行にするか。パスポート申請しておけよ、近々決めるから。

 新婚旅行の定番は、まだまだハワイだったと思う。しかしあまり興味が持てない。大名旅行と言えばヨーロッパだろうが、それは予算的に難しい。
 僕の頭の中には、候補地が二ヶ所浮かんでいた。ひとつはカナダのロッキー山脈。もうひとつはニュージーランドのマウント・クック。どちらも憧れる風景である。熟慮の末、カナディアン・ロッキーに決めた。旅行会社に行き、パンフもらって相談をしてきた。
 夜、妻になる予定の人に電話をする。
 「カナダにしようかと思うんやが」
 「いいわねー。当然ナイアガラの滝?」
 「いや…それは考えてへんかった…」
 「あんたカナダ行ってナイアガラ行かなくてどこ行くのよ!」
 どうも彼女はカナダと言えばナイアガラしか知らないらしい(汗)。ロッキーとナイアガラといえば東部と西部で時差があるくらい離れているのだが、こっちも譲れず、結局「デラックスホテルで旅するナイアガラとカナディアンロッキー・ビクトリア10日間」というとてつもなく長い名称のツアーに参加することになった。DXホテルですか。文字通り大名旅行になってきたな。

 さて、結婚式。とにかく疲れ果てた。もう二回はしたくないですな。
 式は午前中、披露宴は昼に設定したので(遠方の方に配慮して)、全ての出席者を見送って夕刻、一旦うちへ帰り(僕の住んでたマンションにそのまま妻になる人は転がり込んだのでラクだった)、休む間もなくバタバタと着替えて列車に乗る。成田発なので、とりあえずその日は東京まで行った。いつも旅と言えば小さなリュックを背負う程度だが、今回はデカいトランクなんぞ持っている(レンタルだが)。なんせデラックスホテルに泊まるので、夜はドレスアップもせねばならない。大名旅行も大変なのだ。
 
 翌日、成田へ向かうのだが、フライトは実は夕刻に近い時間であり余裕がありすぎ、しばらく東京に居た。なんだか久しぶりにゆったりとしている。
 二時間前には集合ということで、昼には成田へ行く。国際線に乗るのはなんせ初めてであり勝手がわからない。税関を通り出国審査、さまざまな検査の後やっと搭乗となる。
 このまま8時間半雲の上を飛んで、バンクーバーに降り立つ。初めての外国だが、日付変更線を超えたため、なんと当日の午前中だ。体内時計はもう真夜中を指しているのに時間が逆戻りした。モーローとしてくる。ここからフェリーでジョージア海峡を越えビクトリアへ移動する。
 このフェリーから観た風景が忘れられない。岸辺に、いかにもヨーロピアンで瀟洒な家がいくつも見える。映画を観ているようだ。なるほど、英連邦なのだな。ようやく外国にいる実感がわいてきた。ただ、ちょっと小腹が空いたので、船内でサンドイッチを求めたら、パンに薄切りハムがどさっと大量に重ねられて挟まれたものが供された。うーむ、これは英国風じゃなくてアメリカンだな。そういえばここはアメリカ国境に隣接している。
 
 そうしているうちにビクトリアに着いた。街並みが美しい。気品がある。いかにも英国風のたたずまいである(イギリスなんぞ行った事ないけど)。
 州議事堂、クリスタルガーデンなどを経て、バスはホテルについた。ビクトリアが誇るエンプレス・ホテルである。確かにデラックスホテルの名に恥じない。こんな感じなのだが、重厚感溢れるその姿に思わず気後れする。こんなホテル泊まったことないぞ。
 夕食は、きちんとしたレストランなので正装せねばならない。まあ盛装までしなくてもいいのだが、ネクタイなぞを締める。妻になった人は一張羅のドレス(風のワンピース)である。ワインなんぞ頼んで雰囲気を味わう。たまにはいいか。こんなの一生に一度だな、と言うと、妻になった人はえーっと文句を言う。一生に一度は確かに言い過ぎたが、以来15年を過ぎ、やっぱりこういう雰囲気の中での食事は数えるほどしかない。

 翌日は、ビクトリア観光。花の咲き乱れるブッチャートガーデン。ビーコン・ヒル公園。ゼロマイルポイント。その他あちこちへ行く。
 午後からは自由行動となる。ツアー客はみな時差ボケで昼寝らしい。僕たちは、目の前のインナーハーバーから住宅地へと散歩に出る。
 こうして歩くと、外国に来ている雰囲気がふつふつと沸く。ただの家々が並ぶ場所でも、家のつくりが違う。街路樹が違う。マーケットに入ってみる。これもまた楽しい。

 ビクトリアからカルガリーに飛行機で移動する。
 カルガリーという地名を聞けばついダイナマイトキッドとかを思い出してしまうのだが、カルガリーは素通りしてここからロッキー山脈へと向かう。バスに延々乗って、ホテル着。シャトゥ・レイク・ルイーズホテルである。ここも凄い。ロッキーの宝石とも謳われるレイクルイーズの湖畔に建つデラックスホテル(しつこいか?)である。
 ホテルからルイーズ湖を臨む。湖面は深い蒼碧色にきらめく。その向こうには、ロッキーの山稜が聳え、その間を巨大な氷河が迫り来る。こんな風景を目前に出来るとは、全くのところ幸せである。

 翌日は雪が降っている。まだ10月初旬であるというのに。目の前の山塊が白く薄化粧をしている。これもまた良し、か。しかし寒い。 そうしているうちに雪がやみ雲が切れ、晴れた。
 終日、カナディアン・ロッキー観光。巨大な岩の塊である山脈、そしてその山々に囲まれた珠玉の湖たち。美しい。この世のものとは思えぬほど美しい。僕はここに来たかったのだ。
 ボウ・レイク、ウォーターフィールレイク、ペイト・レイク。この湖たちは、氷河の成分が流れ込んでいるため乱反射し、みなエメラルドグリーンに輝く。それらが、雄々しき山々の懐ろにひっそりと佇む。山たちは、天地創造の下、一斉に高く聳え上がり、乱暴に削られた断層もそのままに、以来ずっと静寂を保ち続け、荘厳かつ険しい表情を見せている。すげえ。そしてどこまでも続く針葉樹林。またそれらを切り裂くように降りてくる氷河。それらをぬってアイスフィールド・パークウェイは走る。スケールが尋常ではない。
 アサバスカ氷河に着いた。コロンビア氷原から流れ出している。コロンビア氷原は、北極圏を除くと大陸で最大の面積を誇る氷河である。雪上車に乗り換え、氷河の只中へ行く。クレバスが口を開ける。降り立つと、ひたすら氷の塊である。その氷塊から落ちる水をグラスに受け、ウイスキーを割って飲んでみる。旨い。この氷河の背後に広がる山脈は大陸の分水嶺にあたり、ここから北極海、大西洋、太平洋に水を注いでいる。 
 余は満足である。今日はバンフ・スプリングスホテルに泊まる。このホテルはまるで古城だ。こんな感じなのだが、さすがはデラックスホテルの旅(もういいって)である。実にエレガントだ。

 翌日は終日自由行動の日。僕はどうしてもやってみたいことがあった。つたない英語でコンシェルジュに尋ね、自転車を二台レンタルした。ロッキーのふもとをサイクリングしてみたい。これは夢だった。妻になった人も付き合うと言ってくれた(ここで拒絶されるようならお先真っ暗である)。
 颯爽に走り出す。街を過ぎればもう大自然である。気持ちいい。多少寒いが、時間が経つと晴天となり、すがすがしい。カナディアンパシフィック鉄道駅からバーミリオン湖へ。ボウ滝からトンネル・マウンテンへ。この風景の中を走れるなんて最高である。途中昼に街に戻ってアルバータ牛のステーキを食べたとき以外は、ただ走り続けた。ああなんて幸せだ。サイクリスト冥利に尽きた。目の前を大鹿の群れが横切っていく。
 妻になった人はバテたようだ。すまんすまん趣味につき合わせて。走りすぎて夕食の時間に間に合わなくなりそうになり、慌てた(なんせ食事は正装しなくちゃいけないのでね)。

 名残惜しいロッキーを後にして、カルガリーまで出てまたフライト(移動ばかりだな)。トロントに着く。大都会だ。自然いっぱいのロッキーから出てきたからそう思うのか。いや、ここは考えてみればカナダ最大の都市である。高層ビルが乱立している。その中に、トラディショナルな建物も点在し、緑も多い。そりゃ日本だって都会の中に神社仏閣があったりするから同じか。
 トロント・ウェスティンホテルにチェックインしたあと、街へ出る。
 CNタワーに上る。このタワーは当時、世界で最も高い塔だった(今は抜かれた)。553.33m。447mに展望台があり、足がすくむ。こえぇよぉ。また、スカイドーム(今はロジャース・センター)も覗く。世界初の可動式屋根付き球場であるが、あの頃は日本人大リーガーなんて居なかったもんな。野茂がドジャースに行くのはこの二年後である。
 このツアーは基本的に夕食つきであるが、今日だけは無い。なので食事をしなくてはいけない。ホテル内ではつまんないので、街のレストランに入る。もちろんガイドブックで調べて行ったのだが、こういうのも多少緊張するもので。メニューが英語であるしね。まあ僕のブロークンでも何とか通じたので安心する。もっとも身振り手振りの方が多かったか。チップをどう渡すか、などと悩んだりもしたな。帰りにタクシーに乗ったがそれもまた冒険チックであった。
 
 さて、いよいよナイアガラの滝である。
 トロントからの車中、紅葉が美しい。ロッキーはずっと針葉樹林だったが、やっぱりここまで来るとカエデだ。カナダはメープルの国なのだ。途中、ナイアガラ・オン・ザ・レイクという小さな町に寄る。北米で最も古い街並みを残した町と言われている。なるほど、なんとも美しくも可愛らしい町だ。しばし散策。
 バスは細かく停車してくれる。クルツ・オーチャーズというマーケット。世界最大の花時計。道端の八百屋(ハロウィンが近くデカいかぼちゃが並ぶ)。そして川が急角度で曲がり大渦巻が出来ることで有名なナイアガラ川のワール・プール。そしてバスはナイアガラの滝に到着する。
 大瀑布だ。ちょっとレベルが違う。妻になった人も歓声をあげている。テーブル・ロックまで行くともう水しぶきが凄い。あまりにも巨大すぎて何がなんだか分からないくらいである。そこから、ゴミ袋みたいなビニールの合羽が配られ、トンネルを抜けてジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズへ。歩いて滝に最も近づける場所だが、シャワーかスコールか何かもうよく分からない。ただ、迫力は凄い。
 戻って、スカイロン・タワーでランチ。楼上からは滝が一望である。
 このあと、ついに遊覧船「霧の乙女号」に乗って滝壷近くまで行く。さっきみたいなチャチなゴミ袋カッパではなく、しっかりとしたフード付きレインコートが配られた。近づくにつれ、轟音が響き渡る。大声を出しても話も出来ないほど。そのうち目も開けられなくなる(じゃなんのために来たのか)。もはや、怖い。水が大量に落下するとここまで迫力があるものなのか。
 そして、よく見るとやはり美しい。虹がたくさん架かっている。やはり来てよかった。

 もう旅も終わりに近づいた。翌日、トロントからバンクーバーへと戻る。懐かしきロッキー山脈を見下ろしながら。
 着いて、市内観光。花が咲き乱れるクイーン・エリザベス公園。ギャスタウン。スタンレー公園。ライオンゲート・ブリッジ。プロスペクトポイント。ソフトクリームをなめながら散策する。ちょっとお釣りをチップとして残す。こんなスタイルも慣れてきたが、明日は帰らねばならないのが寂しい。ホテルはハイアット・リージェンシー。デラックスホテルも、着飾って食事するのも最後である。
 名残惜しいので夜の街へ出る。夜景が美しい。大名旅行は我々にはそぐわないのでは、と思っていたが、いや、楽しかったよ。

 帰る日の朝。ダウンタウンをぶらぶらし、雑踏を歩き、初めての海外旅行を惜しむようにうろついた。後ろ髪引かれる思いで、午後の便でカナダを離れる。帰りは日付変更線のせいで翌日の午後になっていた。なんだかソンした気分。

 あれからずいぶん経ってしまったな。遠い昔を思い出しながら、新婚旅行記を書いてみた。
 
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僕の旅 沖縄県

 「沖縄病」なるものの存在はよく知られていると思う。
 ある日、沖縄に2泊3日で旅行に行く。誘われただけでそれほど期待していなかったのに、あまりにもかの地が素晴らしすぎて魅了されてしまった。帰って来ても、楽しかった沖縄のことだけが思い出される。毎夜沖縄の夢を見て、起きているときも沖縄のことばかり考えてしまう。また旅行に行く。帰ってきたら沖縄の夢ばかり見て、また出かけてしまう。この無限ループ。気が付けば毎月沖縄に行っている。もう住みたい。全てを投げ打って移住する。ざっとこんな感じだろうか。類似疾病に「北海道病」なるものがあるが、沖縄病の方がたいてい深刻な状況になる。

 僕も沖縄はかなり好きな方であると思うが、ここまでには至っていない。幸いというべきか。例えばもしも僕が億万長者になって一生遊んで暮らせるようになったと仮定しても、沖縄に移住することはないだろう。ただ、那覇に別荘は欲しいなと思う。ワンルームマンションでいい。んで、一年に四回くらい行く。トータルで一年のうち3ヶ月くらい居られれば満足だと思う。あくまで旅人のスタンスは崩したくはないし、泡盛とオリオンビールをこよなく愛する僕は、これ以上居ると確実に肝機能に問題が出てしまう。

 僕はこの程度の沖縄好きであるので、あまり偉そうには語れない。思い出でも書くことにしよう。
 最初に沖縄へ旅に出たのは20歳のときである。何故沖縄に行こうと思ったのかについては、ただ一点の目的しかなかった。
 大学に行って長期のモラトリアムを手に入れていた僕は、その大半を自転車による旅行に費やしていた。その自転車旅行の目的は、簡単に言ってしまえば「日本のはしっこまで自力で走ってみよう」ということに尽きた。観光旅行とは少し趣きが異なる。もちろんその時々で美しい風景や名所があれば通りすがりに立ち寄ることはあっても、あくまで目的は「宗谷岬」であり、「佐多岬」だった。
 そうして陸続きでの最北端と最南端に行ってしまった後、次の狙いとして浮上してくる場所がある。日本で行ける限りの端っこ。日本最西端の与那国島、そして有人島として日本最南端の波照間島。彼の地に立って、日本を感じてみたい。
 ただそれだけの気持ちだった。沖縄についての知識は全く持っていない。そうして、自転車もオフシーズンである2月、沖縄(というより与那国島と波照間島)に行こうと思い立った。自転車で行くわけでなし移動に何週間もかかるわけでもない。3月になればまた帰ってきて自転車旅行をしよう。まだ行けていない四国が宿題として残っているから…そんなことを考えつつ那覇行きの船の切符を学割で買った。
 この時点では、せいぜい10日くらいのつもりでいる。この旅が2月はもとより3月の末まで延び、僕にとって最長の旅行になるとはこのとき毫も思っていない。

 2月といえばまだ冬。雪がちらついていた。しかし行く先は南国と聞いているので厚いコートなど着るわけにはいかない。重ね着で寒さをしのぎつつ神戸の埠頭に向かった。夕刻出航。那覇新港まで約40時間の船旅のスタートとなる。
 船は悪天候のため少々遅れ気味ではあるものの、揺れに対する耐性があるのか酔うこともない。翌日2時頃には鹿児島佐多岬沖を通過。夏にここまで自転車で走ったことを思えばこんなにも早く…感慨もひとしお。南へ向かうにつれ、だんだんと暖かくなっていくのが体感出来る。
 2日目夜半過ぎから船は奄美の島へと順次寄港する。船は直行便ではない。名瀬、沖永良部、徳之島、そして与論を過ぎてようやく沖縄。朝に着くはずがお昼を遥か回って、那覇に入港。
 那覇に長く居るつもりは無かった。翌日の夜には石垣行きの船が出るので、その中継地点としか考えていなかった。しかし、港から街に出る途上で観る風景すら僕には珍しい。生えている木が違う。屋根が違う。古本で購入した文庫本サイズのガイドブックしか携行せず、あとは伝聞程度の知識しか無かった僕にとって、それは眩暈がするほどの異文化だった。これほど胸の高鳴りを覚えたことも記憶に無い。
 僕は、少し腰を据えることにした。これは観て廻らねば損だ。

 そして僕は、那覇を拠点として歩き始めた。
 首里。琉球王国の王都。まだ首里城が復元される前で、比較的のんびりしていた頃だった。園比屋武御嶽、龍潭、弁才天堂、円覚寺。本土で類似したものは無い。観るもの全てが珍しく強い印象を残す。守礼之門で記念撮影。この古都は、戦争で多くを失ったと聞く。金城石畳道はその中でもわずかに残った戦前を偲ばせる遺構であり感動する。玉陵の圧倒的な迫力には、古墳好きの僕も襟を正さざるを得なかった。この荘厳さは何だ。
 南部へ。バスを乗り継ぎひめゆりの塔。観光化されてはいるものの、胸が打たれる。健児の塔まで歩く。その荒涼とした世界に戦争の悲惨さを感ぜずにはいられない。摩文仁の丘からの美しい展望を見るにつけても、感じるものが多い。
 同宿者とレンタカーを借りてみる。嘉手納飛行場、ムーンビーチ、東西植物園へ。今にして思えばチョイスが実に沖縄ビギナーであるとは思うが、こういった経験が後に沖縄の歴史や文化を学びたいという欲を産み出したのだと思っている。だが、印象に残る場面もある。アメリカナイズされたコザの街。英語看板の氾濫にクラクラした覚えがある。今のコザよりもさらに先鋭的であったような。
 車は名護から今帰仁城へと向かった。当時は修復中であったのだが、「万里の長城を思わせる威容に圧倒」と日記に記している。僕は後年グスク廻りをするが、その第一歩となった。印象が今も鮮烈である。
 また、盛んに街を歩いた。農連市場や公設市場で、見たこともない食材を発見して驚く。そして、迷路のような小道にわざと入ってみる。土地の人が「すーじぐわ」と呼ぶ小道は、実に多くの発見がある。石敢當って何だろう。ウタキって何だろう。いろんな疑問を持つ。暇そうなおばぁに訊ねてみたりもする。しかし意思の疎通が出来ない場合も多く、書店に入って郷土本を何冊か買う。どんどんのめりこんでいくのが自分でも分かる。
 沖縄料理も食べに行く。20歳のビンボー旅行であってさほどの贅沢も出来ないのだが、安食堂も多いので助かる。らふてぇ。ゴーヤチャンプル。クーブイリチ。等々初めて食すものばかりであり、こんなに旨いものかと目を見張る。沖縄料理は口に合わない人も多く、行く前から「食べるものが不味くて…」という話をよく聞いていたのだがとんでもない。それに初めて呑んだ泡盛がまたしみじみ旨く、酔うにつれ沖縄の魅力の深さに埋もれていく。そばもたまらなく旨い。
 そうして、祭りを見たり、呑んだり騒いだりして幾日かが過ぎた。このままでは居ついてしまう。また帰りもあるからと自らを納得させ、夕刻、石垣行きの船にに乗り込んだ。

 揺れたが船旅は楽しい。船上で夜が明けると、天気は快晴でありかなり暑さが増す。宮古島に途中立ち寄る頃にはTシャツでなければ居られなくなる。日も落ちた頃、石垣島に入港。
 一泊した翌日、高速艇で西表島へ向かう。どこまでも透き通る輝く碧色の海。そして、亜熱帯の神秘の島。ああ八重山はまた違う世界だ。僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
 この西表で過ごした日々のことを大いに語りたいのだが、話が長くなりすぎてしまう。それに、どこで話しても外したことがない大爆笑間違いなしの鉄板話も多く存在するが、それを書くには僕の描写力の欠如もあり、また登場人物に名誉毀損で訴えられる可能性もあったりしてうかつに書けない。惜しいが筆を抑えることにする。
 西表島は島全てが見所だが、ヒナイサーラの滝は特に印象に残る。是非行くべきところだ。西表版那智の滝、というべき瀑布。
 最近はカヌーで行ったり、ツアーも入っているらしいが、当時はそんなものがなく歩いて行った。干潮の時を狙って、膝下くらいの海の中を歩いてヒナイ川の河口へ。そこからはぬかるみの中草原のような地域を歩き、川にそってジャングルに分け入り、小一時間歩くと滝が見え、そのまま歩くと滝壷へと到達する。そして山を登って滝上へ。植生もマングローブからサキシマスオウまで亜熱帯の様相を呈している。頂で見る風景は日本とはとても思えない。密林と青い海が広がる。
 海で泳ぐのもいい。マスクとフィンを着けてシュノーケリング。熱帯魚やサンゴがことさらに美しい。出てきたときは雪が降っていたことを思えば信じられないが。
 この旅行で、西表島でやった僕の最大のイベントは、西表島徒歩縦断である。西表は周回道路とて無く、何かにチャレンジするにはうってつけの島である。
 同宿者と連れ立ち、まず浦内川を遡る遊覧船に乗る。植生といい雰囲気といいまさにジャングルの様相の中、船はゆっくりと川を遡り船着場に。そこからは遊歩道を歩いて、西表最大の景勝地であるカンピラ、マリウドの滝へと向かう。迫力のある滝を見て後、普通は引き返して船に乗るのだが、僕らはそのまま島の中心部に向かって歩き出した。山道はさほどでもないのだが、ルートを間違えれば遭難する。慎重に歩を進めて、約7時間をかけて山向こうの古見の集落にたどり着いた。徒歩縦断完成である。
 そうしているうちに瞬く間に日は過ぎ、様々なことを体験し、何もせず浜で寝ているだけの日があったりして、そろそろ先に進まねばと思い名残惜しい西表を後にした。八重山諸島は西表島が最大だが、それだけではない。そもそもの目的である最西端、最南端も行かねばならない。

 石垣島に戻って、まずは宮良殿内その他の市内観光。石垣島は見るところが多い。最南端の市はもはや夏で、歩くとじっとりと汗が滲む。昼過ぎにバスに乗り、島東岸のサンゴで有名な白保の向こうにあるYHに投宿。
 翌日は石垣の北部を徒歩で歩く。同宿者と連れ立ち、まずは北端の平久保崎へ。灯台を見た後徒歩で南下。東岸の石垣牛群れる牧場を縦断するような形で歩く。途中風葬跡などがあり、人骨も散乱している。独自の文化の片鱗だ。小高い丘に登るとサンゴ礁のリーフがことの他美しく、絶景と言えるだろう。約8時間歩いて、YHへと戻る。
 八重山諸島は、どの島へ行くにも石垣島を経由しなければならない。以後も、あちこちへ行く度に石垣港がお馴染みとなる。

 さて、いよいよ与那国島へと向かわねばならない。目的の最西端である。これについては以前記事にしたので参照してもらいたいが、ちょっと厳しい旅だった。
 もちろん与那国島は最西端の碑だけではなく歴史ある島で景勝地も多いのだが、どうしても最西端に立つと嬉しい。幾度も記念撮影をした。あとは、酒を呑んで過ごし、また石垣へと戻った。

 最南端も行かねばならぬのだが、他にも行きたい所がある。次は黒島へ。
 石垣港から約40分。人口200人に牛2000頭といえ牧場の島であり、最初上陸した時は殺伐としてなにもない島という印象を持ってしまったのだが、歩き出すにつれ徐々に良さがわかった。人も見ない真っ直ぐな道を歩くにつれ、その牧歌的な雰囲気が心に沁みるようだ。町は島の真ん中にあり、キレイな瓦屋根の素朴な美しさが今も脳裏に蘇る。東筋を過ぎて灯台へ。人気もない海を見ながら、様々なことに思いが巡らせる。旅の醍醐味だ。当時は観光化もされておらず、とかくいい印象の島だった。

 また石垣島に戻り遊んだ後、いよいよ波照間島への船に乗る。
 波照間は最南端の碑以外何も見るものはないと言われ、当時は日帰りで行く人が多かった。この出航する船が約4時間かけて島に行き、一時間半停泊のあとまた石垣に帰る、その停泊中に最南端まで走り、そして来た船に乗り込むパターンが多かった由。それでは島を何も観ずに終わってしまうので、泊まると3日後まで船便は無いのだが、島での滞在を選んだ。(現在ではもちろん高速艇が就航している)
 もちろん、結果的にはそれが良かった。「何もない島」という評価が多い波照間島だったが、そんな島に滞在できるほど贅沢なものはない。以前にも記事にしたことがある。
 島に着くと、まずはやはり最南端の碑へと行く。島の南端(当たり前)に位置する高那海岸は波が激しく打ち付ける人気のないところ。そこに、素朴な碑が建っている。与那国島よりも荒涼としていた為か、感傷的になっている自分を見つけていた。思いが駆け巡る。ほんの2年前まではこんなところに立つなど夢にも思わなかった。今現実として居る自分をどう解釈していいか判らないまま佇む。
 それにしてもいい島である。島には当時食堂も無く(今はいろいろ施設があるが)、民宿泊は1泊3食が基本だった。海岸に遊び、昼寝し、サトウキビ畑の中を彷徨い、数多くない道を散歩して日が暮れる。夜は宴会。同宿者と泡盛を酌み交わす。酔いがまわるにつれ皆解放的になり、うちあけ話をする人、歌う人、にぎやかな光景が広がる。南十字星が見える。
 そんな日々。小さな悩みや抱えているものはみんな彼岸のことのように思えてくる。
 それ以上やることはない。波照間はサトウキビが特産であり、他のどこよりも糖度が高いと聞く。製糖工場に遊びに行き手伝ったら、土産をいっぱいもらった。
 島に遊んで4日目、船が来て名残惜しい波照間を去った。

 八重山の真珠、竹富島へも行った。星砂の島。
 石垣島からはあっという間の距離であり、小さな島で日帰りが相当だが、もう波照間でのんびり旅にすっかり馴染んでしまい、4日ほどをぼんやりと過ごした。美しく保存された街並みは、ある意味博物館的ではあったがそれはそれ、滞在するうちにどんどん素朴な良さが伝わる。観光客が多いがそれも昼間だけであり(石垣日帰り客が多い)、コンドイ浜で波と興じ、夜は泡盛、また時間を忘れたゆたうように過ごした。

 徐々に、僕は何もしなくなってきた。石垣島でまた遊び、さらに西表島に再び帰ったりした。これは、下手をすればもう旅行ではなく放浪に近い。そのことにはたと思い当たり、沖縄本島行きの切符を買った。これが本土内の旅であれば、例えば周遊券などの期限などもあって旅を終了せざるを得ない外的要因がある。しかし、ここでは自分の意思を強く持たないと旅を終わらせることが出来ないのだ。
 翌日、買い物をして午前の船で石垣島を後にした。

 翌朝、那覇に到着。2月に始めた旅も、そろそろ4月の声を聞く。大学も開講する。帰らなくてはいけない。なに、また来ればいいではないか。
 土産物を物色し、本土にはその頃殆ど売っていなかった泡盛を大量に買い込み、大阪新港行きの船に乗る。たくさんの思い出を抱えて、遠ざかる那覇の街を見ながら再訪を誓い、旅を終えた。

 以来四半世紀。再訪の衝動は常に襲ってくる。そしてまた出かける。もう何度足を運んだことか。後に社会人となり所帯も持ったが同じことである。いつも沖縄の空を思う。
 もはやこんなのんびりと船便で行くことも叶わず、飛行機でビュンと行ってしまうが、行けば、そこで流れている空気は同じである。街も以来変貌を遂げ、外見は変わってしまった場所や島もあるが、そこに沖縄があってくれる限り、肩の荷物を下ろせる地であることには違いがない。また空港に駆けつけひとっ飛び、那覇の空港に着いてA&Wでルートビアのイッキ呑みをして一息つく自分を今も夢想している。
 

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もしも孝明天皇が攘夷論者でなかったら

 最終的に徳川幕府を倒した尊皇攘夷というスローガンを考えるに、つくづく子供の寝言だと思う。
 いきなり挑発的な事を書いたが、何回考えてもそう思ってしまう。これに比べれば、まだ全共闘の共産主義革命闘争の方が心情的に僕には理解できそうに思える。これは、その後の歴史の流れを知っていて、なおかつ当時の情勢を神の視点から見ることが出来る現代人であるからそう言えるのだということは百も承知である。
 それでも、当時の人間の思考力・判断力が現代人より劣っていたはずはあるまい。それが証拠に、革命側の指導者層は尊皇攘夷が空論であることは十二分に認識していた。「あのときは、ああでなくてはいけなかったのだ」という井上馨の言葉がそれを端的に表している。にもかかわらず、とにかく時の為政者である幕府をただ困らせて弱体化させ自藩の影響力を強めようとするために、そして後には幕府を倒そうとするために尊皇攘夷という旗印を用いたということ。これは、政治手法としては卑怯であったと僕は思っている。こういうやり方は嫌いだ。
 つまり、黒船によって恐慌状態が日本にもたらされた。その危機意識は熱狂に繋がる。パニックと言ってもいいのではないか。その熱狂を、正確な情報を与えずにうまく利用した、ということである。一種の情報操作である。操作される側はたまったものではない。とっくに攘夷など終わった明治維新後にまでその洗脳は残った。何故横井小楠が暗殺されねばならなかったのか。マインドコントロールというものは誠に恐ろしい。
 こういう政治手法は、よく考えれば常套手段である。嫌なものだ。ヒトラーの扇動にどうしてドイツ国民が熱狂したのかということは、現代の歴史を知る視点から見れば実に分かりにくいのだが、危機意識が熱狂を生んでしまうのだろう。現代政治においても、こういう状況は散見される。郵政選挙とかそうだろう。

 そんなことはともかく。
 スローガンであるために「尊皇攘夷」とついひと括りで考えてしまうが、これは本来「尊王」と「攘夷」は別のものである。
 尊王論はもちろん儒教由来であるが、平田国学からも「日本民族固有の精神」に立ち返るべきであるとする思想が生まれ、その象徴として天皇の存在を支柱とすべきであるという思想に辿り着く。日本は神国でありその大元は天皇である。これはつまりナショナリズムだろう。
 また攘夷論は夷人排斥であり、優しく言えば、鎖国によって平和が謳歌されたこの国に外国勢力が入ることによってそれが乱されるので排除せねばならない、ということ。また言葉を変えれば、夷によって神国である日本が穢されるので足を踏み入れさせてはならない、ということ。排外思想であり、これも国粋主義と言える。どちらもナショナリズムが根にあり統合されてしまった。
 この尊皇攘夷論は水戸学が発展させたものであると通常は考えられている。徳川斉昭が「弘道館記」において最初に「尊王攘夷」とひと括りに使用したと言われ、その大元は藤田東湖である。この時点での「尊皇攘夷」を子供の寝言などと言うつもりは毛頭ない。天保年間であり、外国の脅威は伝えられてはいたものの、まだペリーの黒船による恫喝外交よりも15年も前のことである。高邁な理想論と解釈も出来る。
 東湖の父である藤田幽谷が唱えた「尊王敬幕論」、そして松平定信が言う「大政委任論」は、幕府の正当性の証明だった。幕府の権力行使の根拠は、朝廷が幕府に政権を委任されているからである。これによれば、朝廷の権威が高まれば高まるほど幕府は安定する。尊王論が倒幕に結びつくことは予想されていない。
 攘夷論が展開・発展したのは会沢正志斎の「新論」によってであると考えられるが、水戸学を論じていては先へ進まないのでひとまず措く。

 尊皇攘夷論は、本来倒幕論ではない。しかし、これが幕府の屋台骨を揺るがすスローガンに発展してしまう。それは何故だろうか。黒船の危機感はやはり大きいだろう。それに対して弱腰外交をしたと判断された幕府に対しアクションは生じても、それは幕政改革論で事足りるわけであり、そうあるべきである。そこに何故尊王攘夷論が突出してくるのか。
 それは、孝明天皇が存在したからである、と端的に言ってしまうことが出来るのではないかと僕は思う。
 もっと突き詰めれば、尊皇攘夷とは孝明天皇のことである。尊王論と攘夷論が結びつくのも、孝明天皇という存在があればこそである。尊王論の具体的対象者である孝明天皇が、攘夷論を奉じ翻さなかったからこそ、尊王=攘夷となった。この時代の最大のキーマンは井伊直弼でも水戸斉昭でも吉田松陰でも西郷隆盛でもなかった。孝明天皇こそが思想の具現者であり、全てを集約した人物だった。
 もしも孝明天皇が、最初から開国を是認していたならば。いや、最初からでなくとも、幕府の、当時の日本の立ち居地を鑑みて、頑なに開国を拒絶し続けなかったとしたら。
 尊皇攘夷という思想に矛盾が生じてしまう。現実と乖離して、幕府を弱体化させるための手段としては全く通用しなくなってしまう。水戸学の思想のひとつに留まってしまっただろう。孝明天皇が「何が何でも攘夷」という姿勢を崩さなかったがために、最終的に尊皇攘夷が倒幕運動にまで結びつく結果を生んだ。この意味で、孝明天皇は幕末史において最大の存在だった。

 それでは、何故孝明天皇が攘夷に固執したのだろうか。
 これについては様々な意見が跋扈し、定説はない、と言ってもいいのではないかと思うが、その中でも通説に近いものとして孝明天皇が「病的な西洋人嫌い」であったからだ、とされる説がある。生理的嫌悪感が天皇を攘夷に固執させたとする。
 もうひとつの柱としては、天皇としての責任感が攘夷論者にさせた、との意見。実は江戸時代初期から始まった「鎖国」という制度も、以来200年以上経っていつの間にか日本古来よりの伝統であるように浸透してしまい、その国是を覆すことはアマテラスをはじめとする神々や神武以来の歴代天皇に申し開きが出来ない、と考えたことから攘夷を翻せるはずもなかった、ということ。
 決め手がない以上反論などないが、孝明天皇の西洋人嫌いがどこからの由来かが分からない。一般的認識として、南蛮紅毛人は肉を喰らい血を飲むとされ、当時は獣のような認識であったとも言われる。絵画でも相当気持ち悪く描かれる。ただ、それは情報の無い一般庶民であればさもありなん、であるが、孝明天皇はそこまで無知であっただろうか。

 弘化3年、父仁孝天皇薨去により16歳で即位した孝明天皇は、早々8月に幕府に御沙汰書を発令する。内容は、外国船来航の噂を聞くので海防を堅固にせよ、というものだが、これが天皇の初勅である。これは5月に米国のビッドルが浦賀に来航したことを受けてであると思われるが、実に情報入手が早い、と驚いてしまう。朝廷は政治の事など蚊帳の外ではなかったのだ。
 にせよ、朝廷が幕府に政治的発言をすることは大政委任論から言っても前例に乏しい。しかも外交問題である。この朝廷、そして天皇の強気とも思える行動はどこから来ているのか。
 藤田覚氏は孝明天皇について著書「幕末の天皇」等で、豪胆な性格であると論じている。そして、それは祖父である光格天皇の遺伝子もあるのではと推測されている。
 光格天皇についてはjasminteaさんの考察が詳しいので参照していただきたいが、さらに孝明天皇は紫衣事件で名を残す後水尾天皇を尊敬していたともされる。そうした逸話、並びに後の違勅調印で「逆鱗」という文言を残すなど相当に気の強い人物像が一面では確かに浮かぶ。だが、僕などは豪胆と言えるほどの強気の人物であったかについては多少の疑問も持ってしまったりもするのである。

 孝明天皇は、あの通商条約調印問題が起こった安政5年、メシも喉に通らないほど悩んでしまう。一種のノイローゼであったとも言われる。気弱とまで言ってしまっては失礼かもしれないが、優しい性格であったのかもしれないなとも思う。あの時は一種の板挟み状況だった。攘夷は貫徹したい。だが、攘夷路線は戦争の可能性も孕み、民に犠牲を強いることにもなってしまう。そうして、孝明天皇は揺れるのである。皇統意識は十分に持ち合わせてはいたものの、いざ最終決断を迫られると辛い。なので、自ら攘夷を先頭きって言わず、勅は「御三家等広く意見を求めてもう一度考えなさい」という、最高裁の差戻し判決みたいにして出す。もちろん大政委任の幕府にそうはっきりと言えないことは分かるが。
 さらに朝廷内でも独裁者にはなれない。天皇という立場は確かにそういうものではあるのだが、孝明天皇が即位したときの関白は鷹司政通だった。父仁孝天皇の時代から30年以上も関白を務めた大ベテランであり、孝明天皇も鷹司関白の前では子供同然であるとまで言われた。その鷹司関白が開国論者である。これでは孝明天皇が揺れ動くのもしかたのないことである。

 話がそれるが、朝廷が幕府の奏上以上に情報を知りえていたのは、公家の多くが有力大名と姻戚関係を結び、そこからも情報を得ていたことがある。例えば三条実万室は土佐山内家からであり、近衛忠煕室は薩摩島津家からだった。そして、鷹司政通室は水戸徳川家であり、あの斉昭は義弟にあたる。水戸斉昭からは、書簡により相当量の情報が鷹司関白に伝えられていた。
 斉昭からの情報は当然のことながら攘夷が基調となっていた。だが、鷹司関白はそれに惑わされることなく開国を唱えた。これは不思議なことである。一つには鷹司関白の時勢を見る目が優れていたということもあろうが、それよりも幕府権力を恐れていたこともあるのではないだろうか。幕府に逆らって承久の乱の二の舞だけは避けなければならない。そういう意味で鷹司関白は十二分に老練な政治家だった。
 ここで着目しなくてはいけないのは、鷹司関白が斉昭からの書簡をほとんどそのまま孝明天皇に見せていたということである。斉昭の書簡は攘夷色で染められている。このことが、青年孝明天皇の皇統意識からくる責任感を強く刺激したということは言えるのではないか。頑なな攘夷論を押し通そうとする孝明天皇の意識の萌芽であるのかもしれない。
 鷹司関白は孝明天皇を教育しようとしていたとも考えられる。斉昭攘夷書簡だけでなく、例えば「おらんだ風説書」なども孝明天皇に見せていた。そうして様々な情報や意見を与え、英明君主として育て上げようとしていたとも読み取れる。だが、まだ年若いナイーブな孝明天皇にはもしかしたら刺激が強すぎたのかもしれない。同時に皇統意識も強く刷り込まれた青年君主である孝明天皇は、以後尊皇攘夷の具現者となっていく。この「未曾有の国難」の時期に自分が巡り合ってしまったことを憂いながら(これは想像)。
 孝明天皇の頭の中には、様々な心配が渦巻いていただろう。
 まずは、鎖国が続いたことにより外国に対する免疫が無い。異国は怖い存在である。アヘン戦争のことも知っていただろう。そして、米国の政治手段に対する反発もある。ペリー以降のアメリカのやり方は完全に威力外交であり、自分が正義であると思うことを押し付けてくる。今も昔もアメリカは変わらない。そして、既に和親条約以降、通商が内々で行われていた。水や食料、燃料だけではなく様々なものが異国へ流れ出ていく。物価の高騰などの経済的問題もあるが、日本から物が無くなってしまうかもしれない恐怖も感ぜられただろう。そして、国の意見は全くまとまっていない。水戸藩はじめ反対論が頻出している。
 このような状況下で、自分が条約調印にお墨付きを与えてもいいのだろうか。自分が日本国の大変革を認めてもいいのだろうか。
 そして、孝明天皇はその揺れ動く心を抑えつつ、傍から見れば豪胆とも言われることをせざるを得なくなったのではないだろうか。つまり、幕府の答申差戻しである。もう一度よく考えてはくれないか、と。

 この差戻し判決の時には、鷹司関白は辞任していた。年齢も70歳を過ぎ、疲れてもいたのだろう。孝明天皇が開国論の鷹司関白を罷免したとの説もあるが、むしろ慰留している節もあり、この調印問題以外では孝明天皇は鷹司関白を信頼しつづけていた。そこまで厳しい人事を孝明天皇は行わないだろうし独断も出来なかったと考えられる。
 だが、後任の九条尚忠は、井伊直弼、長野主膳に籠絡されて開国論者となっていた。またもや孝明天皇の意思が伝わらない構図が生じた。老中堀田正睦が上洛し調印の勅許を迫る。堀田は、天皇の心配する「人心の折り合い」つまり意見統一については、現在は諸大名にも意見が頻発はしているものの、最終的には幕府が責任を持つのでご心配なく、と宣言する。そして、板挟みの九条関白は、天皇の攘夷の思いを加えつつ、「この上は関東において御勘考あるべく様、御頼み遊ばされたく候事」と末尾に付けた勅答案を作成した。
 これはつまり、朝廷側は心配で攘夷を考えてはいるけれども、最終的には関東(幕府)に任せますよ、という文言である。つまりは勅許は出せませんが委任しますよ、ということ。これで幕府の顔も立つのである。
 この勅答案について孝明天皇がどう考えたのかについては分からない。ただ、揺れ動く孝明天皇は不承不承でも賛成はしたのだろう。少なくとも調印が自分の責任ではなくなる。そして、朝議はこの方向で一致を見た。
 もしも、このままの形で勅答がなされていたら。
 幕府は、「勅許」ではないにせよ「朝廷黙認」の形で調印を進めただろう。そうすれば反対派は「天皇が反対してるじゃないか」「違勅調印だ」という声は上げにくい。後の尊皇攘夷=倒幕運動にも大いに影響が出ただろう。そして、朝廷の権威も以後のように上がったかどうか。結局大政委任以上のことが言えない朝廷は倒幕の旗印にはなりにくい。ひとまず反幕の動きは鎮静化してしまう。井伊直弼が出てくる必要も(継嗣問題はともかく)多少薄れたのではないだろうか。
 しかし、この勅答案はひっくり返る。その種は孝明天皇が蒔いた。
 孝明天皇は、関白以下朝廷上層部に留まらずもっと広く意見を聞いて結論を出すべきだとの意思を伝えていた。それを受けてか新任議奏の中山忠能は、条約反対の意見書を7名の公卿連名で提出する。さらに、88名の公家が無断列参して勅答案反対のデモを起こす。
 これには岩倉具視が絡んでいたようだが、つまりは朝廷内下克上である。この圧力を恐れ、九条関白は最終的に調印反対の勅答を出さざるを得なくなるのである。ついに朝廷が幕府に反対し攘夷を標榜した。尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末の最初の一歩だった。
 この88人列参奏上事件は、朝廷内の身分秩序を破壊するきっかけとなった。三条実美ら過激攘夷公卿がこの流れから登場し、それが後に長州破約攘夷派や土佐勤皇党と結びついていく。孝明天皇が蒔いた種ではあるが、その流れは孝明天皇自身を置き去りにしてしまうのである。

 さらに孝明天皇は次の「豪胆」な一手を打つ。戊午の密勅である。しかし、これも孝明天皇の意思が一人歩きした結果であると言える。朝廷を尊皇攘夷派が席巻し、水戸藩がそれに結びつき勅が発動した。孝明天皇の意を汲んではいるものの、主体はもはや天皇には無かった。そして、その反動で安政の大獄。規模は異なるものの鷹司政通の恐れていた「承久の乱」の再現である。この後、水戸藩は勢力を失ってしまう。変わって突出したのが吉田松陰門下による長州藩の尊皇攘夷派であり、井伊直弼暗殺により急速に求心力を失った幕府に襲い掛かる。
 ここまでくると、完全に孝明天皇は概念上の存在と化してくる。その巨大化した孝明天皇=尊皇攘夷という概念は、凋落の一途を辿る幕府と反比例するかのように勢いを強め、「偽勅」なるものが横行する。尊攘派過激公家が尊攘志士と結びつき「天皇の意思」をバックに幕府を圧迫、ついに将軍家茂を京都に呼び付け期限付き攘夷を約束させるのだ。幕府は窮まった。
 ここに至り、孝明天皇はついに「いいかげんにしろ」という意思を示す。それが、八月十八日の政変である。長州藩及び過激尊攘公卿は京都政界から追い落とされた。
 しかしながら、これも孝明天皇の主体的行動であるとも言い難い。尊攘派と公武合体派の政争であり、薩摩藩そして会津藩と、当時孝明天皇が最も信頼を寄せていた中川宮(青蓮院宮)が結託した結果である。孝明天皇の本意は、おそらく自分の名で過激なことが次々と行われていくのを憂いてはいたのだろう。だがこの政変がまた反動を生み、禁門の変へと繋がっていく。
 
 孝明天皇の意思はどこにあったのだろうか。確かに攘夷は実現したかった。ただそれは、争いを望んでのことではなかったのだ。同時に、幕府への大政委任も崩したくは無かった。倒幕など露ほども望んではいない。
 結局のところ、孝明天皇の意思は全て「現状維持」に端を発していると言えよう。攘夷も、今まで国内だけで平和を謳歌してきたことを崩されたくなかっただけであったとも取れる。孝明天皇の攘夷は現状維持の裏返しであったのだ。全ては古法のまま推移すればそれでいい。皇統意識は十分に受け継いでいるものの、それを発展させようという野望も無かった。大政委任を最後まで崩そうとしなかったことからもそのことは知れる。
 孝明天皇はその後、一橋慶喜と会津松平容保に信頼を寄せ傾斜していく。慶応元年9月に長州再征に勅許、そしてついに10月には通商条約に遅ればせながら勅許を下す。この時点で、尊皇攘夷という思想は崩壊したことになる。
 もっとも、過激尊皇攘夷の長州においても、下関攘夷戦争の敗北によって既に事実上は開国論へと転向している。薩摩も薩英戦争に敗れて内々では攘夷は引っ込めている。しかし、尊皇攘夷=倒幕の動きはまだ表向きは連なっており、旗印となっている。
 攘夷はともかくとしても、孝明天皇は全く幕府を否定しない。尊王論で倒幕運動を継続するためには、孝明天皇は大きな壁となる。

 慶応二年正月に薩長同盟。薩摩藩は7月、征長軍解兵の建白をするが、孝明天皇はこれに反対する。ここに至って、孝明天皇は完全に薩長の敵となった。
 そしてこの年の12月。孝明天皇崩御。享年36歳。
 この後、重石が取れた倒幕運動は一気に加速していく。将軍慶喜による大政奉還も蹴散らし、薩長は武力討幕へと邁進する。このような急激な変革は孝明天皇が存命であれば間違いなく反対したはずで、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍となることも難しかったとも言える。
 そのことから、孝明天皇は毒殺されたとの説が当時からささやかれていた。現在でも毒殺説は根強い。ただ、証拠が無い。泉涌寺にある孝明天皇陵を発掘して検死でも行わない限り真相は闇の中である。宮内庁がそんなこと許可するわけがない。
 もしも毒殺が行われたのであるとすれば、それは倒幕勢力がやったことに間違いはないだろう。薩長は、孝明天皇の思想を利用するだけ利用し、邪魔になったら消した、ということになる。
 もちろん単に天皇は病死したのかもしれないが、倒幕派はさらに死後もその思想だけは利用し続けたとも言える。草莽の志士たちはそれに踊らされ、いつまでも尊皇攘夷が旗印だと信じていた。最初にも書いたが、こういう政治手法は嫌いだ。
 あくまで尊王攘夷で倒幕を成し遂げた明治政府は、その攘夷論を正式に引っ込めたのは明治になってからである。明治2年に政府は開国和親を国是とした。それまでは詭弁攘夷を続けていたとも言える。また、尊王論はさらに盛んで、その影響は最終的に明治憲法に盛り込まれて終戦まで続いた。現在もまだその影響力は残っているとも思われる。

 孝明天皇は、もしかしたら怨霊になったのではないか。古代であればともかく、明治の世にそうはっきりと史実としてあるわけではないが、中川宮(青蓮院宮)の日記によれば、明治天皇の枕元に「鐘馗ノカタチノヨウニ」現れ続けたという。これだけでは亡霊であり祟ったわけではないが、古代であれば例えば大久保利通の死などは祟りであると正史に記された可能性もある。日本史上最後の怨霊は実は孝明天皇であったのかもしれない。
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もしも安政の大獄が無かったら

 安政の大獄の直接の原因は「戊午の密勅」であろうと考えられる。だが、それは膨らみきった風船を刺す針と同じことであっただろう。それまでに積載された事象があった。
 少し整理してみる。
 前回書いたように、井伊直弼を中心とする勢力と水戸斉昭を中心とする勢力に、様々な対立軸があった。その中で、日米通商条約調印に関する開国・攘夷の問題と、幕府継嗣をめぐる南紀派と一橋派の問題を中心に状況を見てみる。時間は、ペリーによって日米和親条約が結ばれ、そしてアメリカからタウンゼント・ハリスがやってきて、米国総領事として今度は通商条約の調印を幕府に迫っている時である。
 もう和親条約の締結は終わっている。ここに及んで通商条約は、現実的にはもはや拒否出来ることでは無かった。ただ、この条約は実は関税自主権もない不平等条約であり、簡単に結んでもいいものでは無かったとも言える。しかし、アメリカの圧力はいかんともし難かった。戦争だけは避けたい。
 しかし反対論は多い。通商をすれば、日本に売る物資は無くただ一方的輸入に留まり日本がやせ細る、侵略の糸口になる、アヘン戦争の二の舞となるのでどうしても駄目だという攘夷論。
 さらに、もっと単純な反対論もある。和親条約は漂流民の救助や、さらには燃料、食料、水などの補給を要求するものであり、人道的にも納得がいき、さらには開いた港だけで事足りるために異国と付き合うという感覚が希薄だった。だが、通商条約となれば、異国ともっと深く付き合わざるを得なくなり、夷人が上陸し、神の国たる日本が穢されてしまう、という主張。攘夷の感覚とはそういうものだろうか。
 それらの反対論を抑えるためもあってか、幕府は朝廷の権威を借りようとする。天皇の勅許をもって通商条約を結び、反対派を押さえ込もうとしたのだ。
 幕府の権威もずいぶんと落ちたものだが、これが失敗の元であった。幕府首脳は、勅許など簡単に得られると思い込んでいたのだろうか。そして、政局は京都へ移る。朝廷にうんと言わせなくてはいけない。激動の安政五年が始まる。
 
 ここで「京都入説」なる行為が行われる。本来は朝廷への窓口は幕府一本に絞られており、幕府の使者以外が朝廷へ直接説諭工作をするのは御法度であるのだが、各有力者もこの時は大いに(建前上は秘密裏に)朝廷工作を行った。
 その朝廷工作における論点は、当然条約調印問題に絞られて然るべきであるのだが、ここにもうひとつの対立軸も登場する。それは前述した将軍後継者問題である。紀州家茂を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派。これも天皇の勅をもって解決しようとする動きが生じたため、京都入説は二つの論点を持つこととなってしまった。これが、糸を縺れに縺れさせる。
 整理してみる。
 まず、入説を受け入れる側の朝廷。これは、基本的には調印問題は否である。攘夷論が席巻している。もちろん中心たる孝明天皇が全く開国を受け入れていない。継嗣問題については白紙である。これは基本的に幕府の問題であって、朝廷が継嗣を決めるなどということはこの時点では考えていない。
 次に幕府。老中首座の堀田正睦が京都へ来た。つまり首相が直接説得にあたるわけであり、政局が京都へ移動したというのも大げさではない。堀田は「蘭癖」とも言われた開国論者である。そして、サブに川路聖謨と岩瀬忠震。両者とも幕府の外交官僚のエースだ。どんな細かな説明もこなす。基本的には調印に勅許を得るのが目的であり、継嗣問題にはあまり関わらない。
 ここからは、外野の京都入説である。
 彦根藩井伊直弼。この時点ではまだ大老ではなく譜代大名のトップである。国学者長野主膳を送り込む。論点は、調印問題は開国派であり幕府の説諭を助ける。継嗣問題では南紀派。関白九条尚忠に食い込む。
 越前藩松平春嶽。片腕である英才、橋本左内を送り込む。調印問題は開国派であり、幕府、彦根藩と同目的である。継嗣問題では一橋派。内大臣三条実万を筆頭に公卿多数、青蓮院宮など有力宮家にも食い込む。
 薩摩藩島津斉彬。調印問題には開国派であったが深く関わらず、継嗣問題に尽力する。一橋派。左大臣近衛忠煕の妻は島津家から来ていて、天璋院篤子は忠煕の養女になって後家定に輿入れしているため縁が深い。斉彬は書簡で入説し、西郷隆盛も送り込む。
 水戸藩徳川斉昭。調印問題は攘夷派であり、幕府と異にする。継嗣問題では当然実子である一橋派。前関白(太閤)鷹司政通は義兄(妻が斉昭の姉)にあたるが、それほどの強い食い込みは見せていない。
 京都在住の尊皇攘夷派。梅田雲浜や梁川星巌、頼三樹三郎ら。調印問題は当然攘夷、継嗣問題は一橋派。
 主なところはざっとこのくらいだろうか。
 入説の方向性、強弱は多少異なる。調印問題については、朝廷側は当時開国派は太閤鷹司政通くらい(後に変節する)でほぼ攘夷。取り付く島もないと考えた越前橋本左内は、ほぼ入説を継嗣問題に絞り、ほとんどの有力者を賄賂ではなく弁舌によって一橋派にしてしまう。幕府使者の川路聖謨も取り込んでしまう。これでほぼ南紀派は関白九条尚忠と武家伝奏くらいとなり内勅降下が具体化したが、その関白九条尚忠が土壇場で一人でこれを引っくり返す。この左内の敗北は、営業経験のある人なら辛さが分かるかと思うが(余計な話だな)。
 だが調印問題は関白九条尚忠ではどうにもならず、岩倉具視らが扇動して公卿88人の調印反対デモを起し、勅許ももちろん降りなかった。堀田正睦は悄然として江戸に帰ることになる。

 この後を時系列的に。
 4/27井伊直弼が大老となる。と、直弼は大目付土岐頼旨、勘定奉行川路聖謨、目付鵜殿長鋭、京都西町奉行浅野長祚を立て続けに左遷。皆阿部正弘に引き上げられた英才たちである。浅野長祚など何故左遷なのか全く分からない。掘割問題を引きずっているとしか思えず、直弼の公私混同振りが少し見える気がする。
 6/1継嗣内定の発表。ただ家茂決定とはまだ言わない。そして6/19条約調印。続いて内閣改造を行い、堀田正睦、松平忠固を罷免。後任にイエスマンを据える。違勅調印と継嗣問題で水戸斉昭、松平春嶽、尾張慶勝らが登城して直弼に抗議するも取り合わず、家茂を継嗣と発表する。さらに7月に入ると直ぐ、斉昭、春嶽、慶勝、一橋慶喜らを不時登城のことで謹慎、隠居などの処分とする。恐怖政治だ。同時に、将軍家定死去。
 一橋派並びに攘夷派は当然怒る。京都では水戸藩がついに暗躍し始める。越前、薩摩藩も動く。攘夷志士梅田雲浜らも動く。そしてついに、島津斉彬が兵を率いて上洛、というところまで来る。越前藩もまた呼応して出兵となる運びだった。
 もしもこれが実現していたら歴史は大きく変わったはずだ。
 おそらく兵力を背景に、幕政改革の勅が出ていたに違いない。さすれば、井伊直弼も独断専行は出来まい。同調する雄藩が続く可能性もある(土佐藩や佐賀藩、宇和島藩など)。そして、圧力によって幕政改革が行われる。それは橋本左内の構想通り、将軍家茂は変わらずとも後見職に一橋慶喜、大老に春嶽、斉昭、斉彬が国務大臣、佐賀藩鍋島閑叟が外務大臣。その他雄藩による内閣の誕生となった可能性が高い。そして幕府は左内の構想に沿って富国強兵の道へ邁進する。産業の近代化は、既に薩摩や佐賀藩に雛形がある。そして、いずれは統一国家へと進むことになっただろう。薩長による倒幕、明治維新より以前に近代化日本が誕生することも夢想とは切り捨てられない。
 だが、島津斉彬はこのクーデター直前、7/16に死ぬ。
 暗殺説が根強いが、このタイミングではそういう説も出るだろう。日本は変わり損ねた。
 この薩摩藩の上洛は、4年後に島津久光によって実現する。そして慶喜は将軍後見職、春嶽は政治総裁職(つまり大老みたいなものか)となった。左内の構想通りのようだが、この4年間で世の中は劇的に変わってしまっていた。時すでに遅し、と言えばいいのか。そもそも、4年後に橋本左内は居ない。そして幕府が自ら主導して維新を実現出来る程の力を相対的に失っていた。

 話がそれた。
 斉彬の死去を受け、武力を背景とした改革が頓挫したため、水戸藩は次の手を打つ。「戊午の密勅」の降下だ。8/8、水戸藩に勅諚が下賜される。幕府派の関白九条尚忠を外して事が運ばれたため、密勅と言われる。内容は、違勅による無断調印を責め、どういうことか説明せよ、そして攘夷に邁進せよ、公武合体を強化せよ、ということでさほど驚くようなものではない。例えば以仁王の令旨とは相当違う。しかも、同様の勅を2日後の8/10には幕府にも降下している。
 ただし、幕府の頭越しに水戸藩へ先に直接下賜したという所に問題があった。しかも、上記内容を水戸藩は諸藩に廻覧せよとの副書が付いていた。幕府としては面目丸潰れといったところだろう。
 井伊直弼は怒り、安政の大獄がスタートする。
 8/16新京都所司代酒井忠義が上洛のため出発。9/3老中間部詮勝が出発。間部が京都に着く前に、梅田雲浜が逮捕。直弼の懐刀長野主膳が摘発の主体となっている様子が伺える。そして、次々と逮捕、処分が続いていく。
 主だった処分対象者は以下。
 公卿側は、鷹司政通、輔煕、近衛忠煕、三条実万が辞官、謹慎、そして落飾。落飾とは出家だ。他、青蓮院宮の隠居永蟄居など多数。公卿家臣らも、飯泉喜内が死罪、小林良典が遠島など多数。水戸藩では家老安島帯刀が切腹、京都留守居役鵜飼吉左衛門、藩士茅根伊予之介が死罪。吉左衛門子息の幸吉は晒し首という苛烈さである。
 そして、京都での扇動者頼三樹三郎は死罪。梅田雲浜は獄死した。梁川星巌は逮捕前にコレラで死去。さらに、越前橋本左内、長州吉田松陰が死罪となる。西郷隆盛も逃げてなければ危なかった。勤皇僧月照と入水自殺を図り、西郷は蘇生したが公的にはこの時死んだことになっている。ので、助かった。藩の方で遠島。
 幕府内部でも、岩瀬忠震、永井尚志は禄を召し上げられ永蟄居。岩瀬は2年後に病死している。憤死だ。他にも幕臣に処分者多数。
 井伊直弼再評価論も知っている。だが、やはり独裁者と言わざるを得ない。足利義教に擬しては行き過ぎだろうか。

 橋本左内という若きリーダーの下、岩瀬忠震ら英明幕臣、江藤新平ら佐賀の秀才が並び立つオールスターキャストの新政府というものをやはり見てみたかった。個性派ばかりで衝突もあるだろうが、彼らが作る日本は、また大久保利通が作る日本とは一味違っただろう。惜しい。

 さて、吉田松陰である。松陰は、なんでこの大獄に連座したのか本当に分からない。処分者は主として一橋慶喜を擁立しようと実際に奔走した、井伊直弼の政敵(もっと突き詰めれば長野主膳の敵)ばかりである。ところが、松陰だけは少し毛色が違う。結局、梅田雲浜との関係を疑われ取調べを受け(なんせ黒船に乗って国外飛翔しようとした前科持ちだ)、その部分はシロだったものの、自分から別件の老中間部詮勝暗殺計画などを滔々と喋ってしまいクロ判決、斬首である。
 誘導尋問に乗ってしまったようなものであるが、口が滑らなければ松陰は生き延びていただろう。取調掛もまさかそんな計画など関知していなかったのだから。

 吉田松陰のifは山ほどあるのだが、新たに記事を書くよりもこの場で少し簡単に考えてみたい。何故かと言えば、逃げである。吉田松陰という人物が僕にはよく分からないのだ。難しすぎる。何冊本を読んでも分からない。そもそも何で、あの佐久間象山を師として、国禁を犯してまでアメリカやロシアに渡って先進技術を学ぼうとした人が、尊皇攘夷の巨魁とされるのか。それには水戸学から勉強しないと理解が及ばないと思われ、荷が重過ぎる。
 さて、吉田松陰が安政の大獄に連座しなかったとしたら。
 長州藩へ還れる可能性もあるが、それでも、良くて蟄居生活は免れまい。野山獄に再び収監されることも考えられ、松下村塾は閉鎖だろう。ただ、久坂玄瑞や高杉晋作との交流はずっと続くかと。普通に考えれば、長州過激尊皇攘夷派のリーダーとして君臨すると考えられる。
 しかし、だ。長州藩の尊攘派のその後の激流は、松陰の死をきっかけに成立したのではないのか、との考え方もしてみる。弟子が過激に走り出したのは松陰が処刑されて後のことである。それまでは比較的慎重で、松陰の「狂気」とは距離を置こうとしていた節もある。松陰の死、ということが起爆剤となり、久坂玄瑞がその狂気の部分を継承し、「松門党」のようなものが結成されていったのではないか。
 長井雅楽の「航海遠略策」にせよ、さほど松陰の主張と差異が見出せない。長井は松陰と仲が悪かったとされるが、松陰の大攘夷的思想と航海遠略策には多少の方法論の違いなどがあるかもしれないが、結局は同じことであり、さらに言えば航海遠略策の骨子は後の坂本龍馬の主張とも近く、さらには明治維新の富国強兵・殖産興業も筋道は同じである。つまり「正論」だった。これを葬ったのは、久坂以下の松門党である。
 久坂らは、航海遠略策の中に「謗詞」があるとして朝廷工作を行い、これを引っ込めさせる。しかし、その謗詞とは「昔を思い国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」という文言が、昔の国家朝廷と現在とを比較し誹謗しているという、いわば「言いがかり」みたいなものであり家康の「国家安康・君臣豊楽」のいちゃもんとさほど変わりはない。ここには、長井に対する怨恨のようなものが内包されているのではないか。長井は、松陰を庇うことなく幕府の松蔭江戸償還令を伝えた、松陰の仇。それが「藩論」である航海遠略策を葬り、長州藩に過激尊皇攘夷思想で突き進む道を選ばせ、ただ破約攘夷を唱え、唱えるだけでなく外国船に砲撃を加え、それが八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、連合艦隊下関攻撃、第一次長州征伐と続き追い詰められて最終的に暴発して倒幕へと連なっていく。
 これらは、松陰の死によってその思想(死去した時点の過激思想)が神格化され一人歩きしてしまった結果であるような気もする。
 松陰はまだ若かった。変節という言葉は穏当ではないが、その考え方も徐々に変貌する様子が見て取れる。生きていれば、もう少しその考え方にも発展が見られたかもしれない。その晩年は倒幕論者となったが、松門党の思想が破約攘夷一辺倒のまま推移したかどうかは疑問だ。
 そして何よりこの流れの中で、長州藩の人材は次々と失われた。周布政之助、長井雅楽の両巨頭をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田彦麿、入江九一らも皆死んだ。木戸孝允はよくぞ生き残ったとも思うが、他は前原一誠や伊藤博文、井上馨や山県有朋らだけが残った。
 松陰の刑死によって、大きく運命が変わったということも考えられるのではないか。あくまで可能性ではあるが、また違った維新というものも浮かび上がってくるのである。大久保利通の独壇場だけではない明治政府というものが。

 ただ、明治政府の成立には、尊皇攘夷思想というものが強烈に関わってくる。尊皇攘夷無くして倒幕は在り得たか、というifを考えざるを得ない。だがそれを考えるには紙面が尽きた。文字制限もあるのでまた改めて書いてみたい。

 
 
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もしも井伊直弼の大老就任が無かったら

 徳川幕府は倒れるべくして倒れたのか。その問いには、そうだろうとしか言いようが無い。
 世界史の情勢を見れば、あれ以上封建制の社会が日本で続いていくことは難しかったと考えられる。いかに極東の国であったとしても世界の流れには抗うことは出来なかっただろう。確かに、日本と比べ清朝や李氏朝鮮はもう少し生命を永らえたが、日本もその態で封建制とその中心である徳川幕府があと4、50年命脈を保ったとしたら、列強の中で植民地化、或いはそれに近い歴史が刻まれていた可能性も少なくはない。
 だが、徳川幕府及び封建制社会が倒れ中央集権制の政府樹立は必然であったとしても、それが薩長によって幕を下ろされなければならなかった必然性はさほど強くなかったのではないだろうか。結局は薩長による革命戦争によって政権奪取がなされ明治政府が誕生するのだが、方法論はまだいくつも道があったのではなかったか。
 徳川幕府は天保の改革以来、確かに疲弊していた。そこへペリーがやってくる。鎖国という祖法(と考えられていたもの)は否応なしに変更せざるを得なくなる。その中で、幕政改革がまた声高に叫ばれ始めた。このままではいけない。国としてどういう方針を採って列強と対峙していくのか。開国か、それとも攘夷か。あるいは第三の方法か。
 ペリー・ショックによってそうした論議(多分に思想論かもしれないが)が巻き起こる中、「倒幕」という考えはまだ表には出てこない。ベクトルはまだ「幕政改革」によってこの危機的状況を乗り越えようとする考えが多数であったと考えられる。これが「倒幕」に移り変わるのはいったいいつの事か。
 いろいろ考えていくと、どうもそれは井伊直弼が大老に就任して後のことではなかったか、とも思えてくる。

 井伊直弼の大老就任によって歴史はどう動いたか。
 ペリー来航時の幕府は、老中阿部正弘を首班とする内閣だった。アヘン戦争などによる列強の帝国主義の恐怖は既に伝わっており、そしてこのペリーによるアメリカの開国要求に対し阿部は、挙国一致内閣で乗り切ろうとする。具体的には、開国は避けられぬ状況下にあって、攘夷論者と言われる御三家で水戸藩の徳川斉昭を取り込み、さらに譜代の有力大名であった松平春嶽や外様の島津斉彬とも連携し、さらに大胆な人材登用で有能な官僚を配置して国難を乗り切ろうとした。これにより、筒井政憲や川路聖謨、岩瀬忠震などの人材が登場し、大久保一翁、永井尚志、また勝海舟らも連なって後に表舞台に出てくる道が出来る。
 逆に言えば、幕政秩序を崩したとも言える訳で、譜代大名中心幕政から外様大名の侵入も許し、また身分の壁も低くなってしまった。
 日米和親条約調印後、阿部正弘は死去する。享年39歳。心労によるものか、若すぎる死だった。
 この阿部正弘がもしももう少し長生きすれば、井伊直弼がどうなったかは興味のあるところだが病死はしょうがない。幕閣は堀田正睦が首班となる。

 ここらへんから、話がややこしくなる。対立軸が数多く出てくるからだ。
 対立軸その一。守旧派と改革派という軸。
 阿部正弘は幕政秩序を崩した、と前述した。これが我慢ならない一派も当然存在する。特に水戸の徳川斉昭の幕政参与は、従来の幕政を担ってきた譜代大名と当然ぶつかる。斉昭は水戸学をバックにした強烈な攘夷論者であり(そう言い切っていいかどうかは判断が難しいがここではとりあえずそうする)、開国を推し進めていた幕閣とぶつかり、松平乗全・松平忠固両老中更迭という結果となる。これに譜代大名は反発する。その筆頭は、譜代の名門中の名門である井伊家当主、直弼である。
 対立軸その二。将軍後継の問題。一橋派と南紀派という軸。
 ペリー来航時の将軍は12代家慶。直ぐに亡くなって後を家定が継ぐ。この家定は、虚弱体質だったと言われている。一説には判断能力も無かったとされ、脳性麻痺だったとも言われる。このことはアメリカ側からの史料からも伺えるが、そうではなかったとの説もあり、TVドラマの影響で家定聡明説を言う人も多い。だが、それはどちらでもいい。家定は将軍就任時30歳だったが、実子が無く後継を持ってこなくてはならなかった。
 その継嗣となる候補は二人居た。一人は、御三卿一橋家の慶喜であり、もう一人は御三家である紀伊の家茂。簡単に言えば、血筋は家茂が近いがまだ若年(子供である)。年齢的にもまた英明さでも慶喜が勝るが血筋は遠い。その対立である。一橋慶喜側には、阿部正弘(既に死去)、松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭。南紀家茂側には直弼を筆頭とする譜代大名と大奥。慶喜は斉昭の実子であり、斉昭は大奥改革を唱えておりその反発もあった。
 対立軸その三。攘夷派と開国派。この話は実にややこしい。
 これは前述したように攘夷の水戸斉昭と開国の直弼という単純化はなかなかしにくい。斉昭は攘夷であるが内面では打ち払いは無理と考えており、直弼は開国を推し進めるが実は心情的攘夷であったとされる。ただ、水戸藩としては攘夷論を大前提にしていて、藩士はその方向で動く。直弼ら譜代は開国は規定路線でありそう動かざるを得ない。さらに、ここには朝廷が絡んでくる。時の天皇である孝明天皇は、徹底した攘夷論者である。この孝明天皇をめぐる勅許問題が、話を実にややこしくさせる。
 さらに第四の軸として、彦根藩の運河開削反対問題がある。これは敦賀と琵琶湖北岸間に掘割と新道を造り、若狭から物資を直接京都に運びこむ事が出来る計画であり、これが実現すれば近江国そして彦根藩は経済的に大打撃を受けることになる。なので井伊直弼は大反対をする。そして、開明的幕府首脳及び官僚と対立構造が生まれる。これは国家的対立軸ではないが重要な問題となっていく。

 ここでは攘夷・開国の話はひとまず措く。対立軸を第一、第二に絞る。特に一橋派と南紀派の対立を見る。
 家定の継嗣は、一橋慶喜が実は規定路線であったとも言える。12代家慶の次は慶喜と既に考えられていたとも言われ、家慶ですら実子の家定が薄弱であることを懸念し慶喜を養子に、という案もあったとされる。これは実現しなかったがその次は慶喜、となるはずだった。ましてや国難の時期である。英明君主を望むのは至極当然だろう。
 しかし、水戸斉昭の幕政への参与が実子、一橋慶喜の障害となった。これ以上斉昭に牛耳られては困る。将軍の親ともなればその権力はいかばかりのものになるか。譜代大名や斉昭嫌いの大奥は何とか巻き返したい。しかし、慶喜を推すのは松平春嶽や島津斉彬ら雄藩であり、阿部正弘もそう考えていた。彼ら有力者に対抗馬を立てたい。それが、井伊直弼の大老就任であったと考えられる。結局、話を単純にすれば徳川家茂の将軍就任と譜代大名らの既得権保守(あくまで単純に言えばだが)のために、井伊直弼は大老になった。
 直弼は大老になると、権力をいかんなく発揮する。家茂を将軍とし、朝廷の勅許なしに諸外国と通商条約を結び、さらに一橋派を弾圧した。安政の大獄である。
 この独裁的政治が、桜田門外の変に繋がり、現役大老の暗殺により幕府の権威は地に落ち、皇女和宮嫁下による公武合体策も虚しく「倒幕」の動きが生じて、幕府崩壊、明治維新に繋がると考えられる。強引な手腕が逆に幕府の命脈を縮めた。

 井伊直弼が出てこなければ、独裁者として君臨しなければ、対立軸はあるにせよ一橋慶喜の14代将軍就任の目が強かったということも出来る。そして、大老は松平春嶽。そうなれば、幕末の風景は相当に変わったはずだ。
 では、井伊直弼が出て来れない可能性はあったのだろうか。

 井伊直弼は、実は井伊家13代藩主直中の、何と14男なのである。普通なら井伊家当主になれるはずもない。ここにifがある。
 井伊直中は、21人の子をもうけた。男子だけで15人。
 長男直清は庶子でありまた病弱であったため(結局21歳で死去)、三男直亮が嫡子となり、後に第14代藩主となる(二男、四男、五男は早世)。細かく書くと、六男中顕は家臣中野家養子となる(後に井伊姓に復す)。七男直教(久教)は岡藩中川家の養子となり藩を継ぎ、八男直福(政成)は挙母藩内藤家を継ぐ。九男勝権は多胡藩松平家を継ぎ、十男親良は家臣木俣家の養子。十一男直元は、兄である三男直亮の養子となる。つまり、井伊家の継嗣である。十二男義之は家臣横地家の養子、十三男政優は、挙母藩内藤政成(つまり八男直福)の養子となり継ぐ。
 ここまでは、直中の子は順調に片付いている。多くは他家の養子となり藩主となり、また家臣となり井伊家を支える立場になった。さて、残るは十四男直弼、十五男直恭である。ところが、元服前に直中死去。直弼17歳、直恭12歳が残された。この二人は「部屋住み」という立場になる。喪が明けて直弼は元服するが、井伊家は兄直亮が藩主となっており、父直中の庇護もなく捨扶持でその後15年を過ごすことになるのだ。
 ただ、チャンスはあった。直弼20歳の時、弟直恭と共に江戸に呼ばれ養子縁組の口を探すことになる。ここで他家の養子となれれば、わずか300俵の部屋住の立場から脱却できる。江戸滞在は1年に及んだ。
 だが、弟直恭は延岡藩内藤家を継ぐことになったのだが、直弼には養子の声が掛からなかった。原因は分からない。直弼は「一生埋れ木で朽ち果てる覚悟」をして失意のまま彦根に戻ることになる。
 この時点で、兄である藩主直亮には子がなく、養子のやはり兄直元(当時26歳)にも子が無かった。もしかしたら直弼は井伊家後継のためのスペアとして残されたとの推測も出来ることは出来るが、年齢を考えればまだ直元の子供を諦めるには早く、残すのなら弟直恭(当時15歳)の方が適う。直弼自身も「埋れ木の覚悟」を決める程の悲壮感を持っており、やはり単にお声掛りが無かったのだろう。就職活動に失敗したのだ。もしも、ここで直弼が他家に首尾よく養子に迎えられたとしたら。後の大老井伊直弼はなかったことになる。
 ただ、養子の口が無かったと言っても、直弼がすぐ継嗣になったわけではもちろん無い。直元はまだ若い。30歳の時に、女児をもうけている(結局早世したのだが)。直元にもまだまだ継嗣が生まれる可能性があったのだ。
 直弼は27歳の頃(直元33歳)、長浜大通寺へ、法嗣が絶え住職が空席となったために迎えられようとしたことがある。これは具体化し直弼もようやく捨扶持の不遇から脱却できると乗り気になった。しかし、この話も頓挫する。これは、直元の健康がすぐれず結局まだ継嗣も生まれなかったために井伊家がストップをかけたのだとする説もあるが、直弼は相当惹かれたようである。もしも直弼が出家して大通寺の住職に納まったとしたら、これも後の大老井伊直弼は無い。
 この話は、約4年もすったもんだしたあげく、井伊家が大通寺に正式に断ることで決着が着く。その時直弼31歳、直元36歳。そして翌年、直元が死去、直弼が井伊家継嗣と正式に決まる。

 もしも直弼が他家の養子になったり、出家したりしていたとしたら、井伊家はどうなったか。この場合、直弼が戻ったり還俗したり、ということはまず無かっただろう。どこかから別に養子を迎えていたに違いない。例えば、六男中顕は井伊姓に戻っており、井伊筑後となっている。直元の兄の中顕が継ぐことはないが、中顕には二人男子がおり、一人はまた挙母藩内藤家に養子に入り、一人は家督を継いでいる。このうちどちらかが井伊家宗家を継ぐ、なんてことも考えられる。他にも血筋を辿ればいくつかパターンは考えられるだろう。何も直弼でなければならないということは無かったはずだ。
 父直中は15人の男子を残したのに、兄である直亮、直元両者に後継者が生まれなかったのも必然ではあるまい。直弼が養子に行けなかったのもまた必然ではない。数奇な運命の中、直弼は井伊家藩主となり、そして時代がその直弼を大老にまで昇らせた。
 この「部屋住み15年」という、エネルギーを満杯に充填した直弼が、壮年で藩主になりその積もり積もったパワーを思う存分発揮してしまう。そのパワーは、表層上は幕府の権力強化に見えて、内実は幕府の持てる力を削ってしまった。

 もしも井伊直弼が、例えば大通寺の住職になるなりして、幕政の中心に座ることがなかったとしたら。家茂擁立を図る南紀派はかなり苦しかったに違いない。
 この時点で、幕政は阿部正弘が死に、堀田正睦が老中首座。彼は、当初南紀派的発言をしていたがこの時は一橋派に傾いていたと考えられる。斉昭と対立して一度は老中を罷免された松平忠固は幕閣に戻ってはきているものの、老中というものは基本的に合議制であって独走は出来ない。溜間詰の譜代大名は南紀派だが、外野に過ぎない。最も奔走していたのは紀州藩付家老の水野忠央だっただろうが、これも基本的には外野である。
 もちろん、継嗣を決定するのは将軍家定であるのは間違いないのだが、家定がどこまで自分の意思を持っていたかは分からない。家定の意思を左右できるのは大奥であり、大奥は水戸斉昭嫌いと水野忠央らの工作で南紀派だったが、これだけでは継嗣決定の決め手にはならない。家定の絶対的意思表明が必要だった。しかし外野勢力は直接、将軍である家定工作をするわけにはいかない。
 外野と言えば、それは一橋派も同じである。一橋派の主体は、水戸斉昭や松平春嶽、島津斉彬らであり、南紀派よりもさらに外野だった。継嗣決定はまず将軍家定の内意であり、それを左右するのは大奥であるから、一橋派も大奥工作を実施した。具体的には島津斉彬の養女である天璋院篤子を家定の室としたが、大奥の意思は南紀派で動かない。なので一橋派は朝廷を抱き込もうとする。勅許による継嗣決定である。松平春嶽は橋本左内を京都へ送り込み、島津斉彬も西郷隆盛をもって工作にあたった。これは、日米条約問題も複雑に絡んでややこしいのだが、一橋派は左内の活躍でかなりの線まで追い詰める。しかし、関白九条尚忠が南紀派に抱き込まれギリギリのところで阻止された。
 歴史ではここで、井伊直弼の登板があってそれら一橋派の工作を一気に反故にして家茂擁立となるのだが、それがなければまだ平行線を辿っていた可能性が高い。どちらに転んでいたかは分からないが、天皇の内勅が左内らの工作により「英明・人望・年長」である継嗣を望むとされていたのを、ただ継嗣を速やかに決定しろ、と肝心の一橋慶喜を指す部分を削らせたのは関白九条尚忠であり、尚忠に工作したのは直弼の腹心である長野主膳である。直弼がいなければ慶喜継嗣の内勅が下り、これをタテに一橋派は慶喜擁立を決定付けていた可能性がある。もうすぐ家定は死去する。14代将軍徳川慶喜が生まれていた可能性も高い。

 井伊直弼は「日本開国の父」とも言われるが、直弼でなければ条約は結べなかったかといえばそうではあるまい。確かに慶喜の父水戸斉昭は攘夷を標榜しているが、そんなダダをこねられる状況ではなかったはずだ。ことに、大老に松平春嶽が就任していれば、まず違いなく調印は行われていると考えていいだろう。春嶽の頭脳は、天才・橋本左内に負っている。開国、西欧の技術導入、国力増強路線へと幕府は進むことが予想される。
 この時点で攘夷を強く訴えるのは水戸藩と朝廷、特に孝明天皇であろう。長州藩はまだそれほど尊皇攘夷色は濃くない。問題は水戸藩だが、斉昭も老体だ。水戸学というのは難しくて素人の手には負えないが、ここで水戸藩さえ取り込めれば、あとの抵抗勢力は弱い。朝廷も、後に長州藩長井雅楽の「航海遠略策」には賛同している。国内が異国勢力に蹂躙されるようなことが無ければ、さほど問題は生じないだろう。
 幕府の有能な開国派官僚たちは、井伊直弼による弾圧も無くまだまだ活躍し続けると考えられる。倒幕の必要性がなければ雄藩はそれを支える立場にもなり得る。そして、この幕府は徳川慶喜によって発展的解消し、郡県制をしき中央政権政府にと生まれ変わる。それは過渡的に大統領制かもしれないが、封建制が幕を下ろせば民主政府は流れの中で生じる可能性も高い。橋本左内が首班となる内閣が生まれる可能性もある。明治維新の富国強兵・殖産興業といった方向性とさほど変わりはないだろう。そして、日本の人材は失われること無く豊富に残っている。
 実際は、安政の大獄に始まり幕末の嵐の中で多くの有能な人材が失われ、最終的には明治に薩長の政府が成立する。新政府の中核が山口県と鹿児島県出身者で占められるという事態を「歪んでいる」とは一概には言えない。ただ、惜しい。他にも新生日本を担うべき人材は多数居たはずなのだ。そういう日本の精鋭を集めた政府をふと夢想したりする。安政の大獄などの弾圧、天誅などのテロリズム、幕長戦争や戊辰戦争などの内乱は本当に必要だったのだろうか。

 本当は尊皇攘夷のことも書きたかったのだが筆が進まなかった。機会を改めてまた記事にしたいと思う。
 
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RCサクセション「あの歌が思い出せない」

 忌野清志郎さんの訃報は旅先で聞いた。
 癌であることは公表されていたけれども、こんなふうに足早に逝ってしまうとは思わなかった。5月2日。憲法記念日の前日。第九条、戦争放棄の条項に対して「この条項はイマジンの詩じゃねーか、自慢しよーぜ」と言われていた。その言いようがいかにも詩人の清志郎さんに相応しかった。ちょっと早すぎる。僕は、RC及び清志郎さんの音源に全て接しているというわけでもなく、追悼の意をネットに書き込む資格があるのかどうかも分からないが、ショックであることには変わらない。
 RCサクセションの記事を以前書き出したことはあったのだが、書ききれず長い間オクラ入りさせていた。草稿時の日付を見ると2006年になっている。3年も放置していたのか。なんで書けなかったのかと言えば、生意気に思えたからである。世の中には清志郎さんを慕っている人は多い。人生の師であるとまで言う人も身近に居る。そんな中で僕が書くなどおこがましいことだと思い、もう少し熟成してからと考えていたのだが、そうしているうちに清志郎さんが亡くなられてしまった。
 2009年5月現在、ネットにはたくさんの追悼記事が溢れている。それに紛れて、僕も昔書いた拙い文章に少し手を入れてアップしようと思う。

 RCサクセションを最初に聴いたのは、やっぱり「雨上がりの夜空に」だったかと思う。中学生だった。その時は、見栄を張らず正直に言ってさほど強い印象は持たなかったように憶えている。フォーク少年だった僕がようやくロックに目覚めた頃だったのだが、ロックと言えば洋楽ばかりで、日本のバンドにはさほど興味を持っていなかった。邦楽で言えば、同時期に例えばP-MODELであるとか、ヒカシューとかのテクノ系が出だした頃で興味はそちらに向いていた。
 訳知り顔の友人が現れる。「RCって実はフォークなんやぞ」と。
 実はフォークってどういう意味だといぶかしむ僕に彼は一本のカセットテープを貸してくれた。彼の兄は大学生で音楽に造詣が深いので時々情報をくれる。そのカセットテープは、後から知ったのだがアルバムではなくシングルを編集して録音したものだった。私家版ベストだな。
 「ぼくの好きな先生」「キミかわいいね」「上を向いて歩こう」そして名曲「スローバラード」などが録音されていたのだが、その中に「あの歌が思い出せない」が入っていた。
 僕は当時かぐや姫が大好きで、山田パンダさんの歌う「あの唄が想い出せない」はよく知っていた。やさしくやわらかなパンダさんの声で奏でられるこの曲は好きだった。その曲と同じものである。
 かぐや姫のLPのクレジットを見ると「作詞:忌野清志郎/作曲:武田清一」となっている。そうか、この曲はかぐや姫のオリジナルではなかったのだな。こっちが本家なんだ。
 後に知ったのだが、この曲が世に出たのはかぐや姫の方が先であり、RCのはそのあとのセルフカバーという形になる。デビュー以来売れなかったRCであり、かぐや姫のファーストアルバムに先に採用してもらったということか。
 武田清一さんという人を僕は全然知らなかったのだが、後にこの人は「日暮し(「い・に・し・え」で有名)」を結成された方らしい。
 このことはよく知られていることで言わずもがななのだが、そもそもRCサクセションの原型は中学校の時に結成された「ザ・クローバー」というバンドである。メンバーは清志郎さんと破廉ケンチ、小林和生氏。完全にRCの初期メンバーである。そして高校進学によりバンドは一時解散、清志郎さんとリンコさんは先輩だった武田清一さんとバンドを結成、これが「リメインダーズ・オブ・クローバー(Remainders of Cloverつまりクローバーの残党)」である。ここで武田さんが出てくる。後に武田さんが離れ破廉ケンチ氏が再び合流して三人で結成されたのが「Remainders of Clover Succession(継承の意)」であって、つまりRC SUCCESSIONである(以上、なぎら健壱「日本フォーク私的大全」より)。なお、このバンド名については「ある日作成しよう」という言葉をもじったという説もあるが、これも清志郎さんが言ったことであり冗談にせよ間違いということもないだろう。
 
 さてその「あの歌が思い出せない」。今まで知っていたかぐや姫バージョンとは全く印象が異なった。そして、かぐや姫ファンには誠に申し訳ないが、圧倒的にRCの方が感動した。

  この街角 一人で何のあてもない ついてないよ ぼくに雨もふりだした

 もちろんパンダさんのもいいということは繰り返しておかなければならないが、僕には(あくまで僕にとっては)RCの歌声がより琴線に触れたということだろう。
 タイトルは、かぐや姫の方が詩的である。「歌⇔唄」。「思い⇔想い」。ここには清志郎さんの含羞が込められているようにも思う。「想い」なんてオイラには気取り過ぎじゃん、みたいな。
 歌詞も一部異なる。
 かぐや姫「君はいつもどうして今日も生きてるの/わからないよ僕は信じたいのに」
 RCサクセション「君は何を信じて今日もそこにいるの/わからないよ僕は信じたいけど」
 どちらが本当のオリジナルであるかは知らないけれども、こういう別バージョンというのはよくあること。例えば小椋佳は「白い一日」を井上陽水版と少しメロディを替え、「俺たちの旅」は中村雅俊版と歌詞を一部替えている。
 ただ、文脈、文章の意味はかぐや姫版はよく分からない。君はいつもどうして今日も生きてるの、ではどこか不自然ではないか。君はいつもどうして今日'を'生きてるの、であるなら話は分かるのだが。またもしかしたら、君は(僕は'いつも'君について考えるんだけど)どうして今日も生きてるの、の省略形であるのか。後者であるとすれば、つまり「君はどうして今日も生きてるの」が主文であり、相当にキツい一言ではないか。まさか死ねと言うはずも無し…。
 「どうして」の解釈が難しいのだろう。これを「なぜ?どんな訳で?」と読んでしまうからややこしくなる。「どういうふうに?」であるなら、助詞の「も」でもかまわない。君は、いつも(の日常を)どんなふうにして今日も(昨日も、そして明日も)生きているの、ということで、別れてしまった彼女への追想と断ち切れない恋慕の感情が浮かび上がる。文脈から言ってこれが正解だろう。ただ、ややこしい。
 RC版の方がすっきりしている。「君は何を信じて今日もそこにいるの」と歌い、後段の「わからないよぼくは信じたいけど」とも合わせて、価値観のズレが別れに繋がったことも浮かび上がる。
 かぐや姫がまさか勝手に改変したわけじゃないだろう。どっちも清志郎作だと考えられる(詳しい事情をもちろん知っているわけではないので詳細をご存知の方は教えて欲しい)。そして、かぐや姫版には当惑が、RC版には後悔の念が僕には感じられる。どっちがいいのかな。でもRCは、君は何を信じて…と歌い、僕にはそちらの方が強烈に響く。
 細かい重箱の隅をゴタゴタと言ってしまった。そんなことはどうでもいいことなのだろう。

  曇った街並み 僕には歌う歌もない 君がいつも歌ってた あの歌が思い出せない

 この部分、清志郎節が映える。言葉のひとつひとつを刻み付けるような。切なさが胸に沁み入る。大切なものを失ってしまった空虚さ。寂寞の思い。降り出した雨に傘を差すことも忘れているのではないか。

 忌野清志郎という人は本当に歌うその言葉に力を持たせる。このパワーはいったいなんだろう。
 話はそれるが、清志郎という人は「日本語ロックのさきがけ」とも評される。そもそも洋楽に日本語を乗せる事は本来難しいはずで、音楽に詞を乗せる場合、一音符一音節で通常は当てはめるものだが、一音節でひとつの単語を乗せられる欧米言語に対して日本語は基本的に一音節一文字である。構造が異なるため、洋楽の旋律に日本語を乗せると雰囲気が出にくいし意味も伝えにくい。
 例えばシャンソンだと「C'est une chanson qui nous ressemble…」とフランス語で歌えば極上であるのに「か・れ・は・よ〜 枯葉よ〜」と一音符一音節の原則に忠実に歌えばとたんに間延びしつまらなくなる。♪ひとつにC'estを充てられる仏語と'か'しか充てられない日本語。
 だから、思いや雰囲気を込めようと思えば、吉田拓郎のように細かくたたみ掛けて情報量を増やしたり、桑田佳祐のように英語風に歌ったりになってしまう(しかし桑田さんの歌って清志郎さんの対極にあるような気がするなー。これはこれで好きだけれど)。
 洋楽のひとつの極みであるロックンロールを容易く歌おうとすれば、どうしても歌詞に英語が混ざった方が耳馴染みがいいのだ。けれども清志郎さんは、徹底して日本語を遣う。清志郎さんの紡ぐ詩は、外来語や決まり文句のような簡単な英語(I Love youとかベイベ〜)以外は、分かりやすい母国語だ。あのライブのいつもの台詞「愛し合ってるかーい」ですら、敬愛して止まないオーティス・レディングの「We all love each other」を訳したもので、完全に自家薬籠中のものにしてしまっている。
 言葉を大切にしている人だとつくづく思うし、詩人だと思う。
 そしてさらに、言葉ひとつひとつが実に聞き取りやすい。滑舌がしっかりしているのか、子音を大切に発音しているのか。聴いていて歌詞が聴き取れないなんてことがない。こんなにはっきりと発音する人は、あとはポルノグラフィティの岡野昭仁君くらいかなぁ。しかもこんなに聴き取りやすいのにものすごく個性的な歌唱法であるのはどういうことか。
 身体の奥底から搾り出すように叫び言葉を刻む。言霊を表現できる人。本当に稀有なボーカリストだ。

 話がずいぶん脱線してしまったが、そんなこんなで僕はRCの「あの歌が思い出せない」が大好きな歌になった。
 この歌はアルバムに収録されず、「ハード・フォーク・サクセション」という初期のベストには入っていたらしいのだが廃盤となっており、僕の音源は長らく、例の友人のテープのコピー、つまりダビングのダビングで相当音質の悪いモノラル版だけだった。だが、近年これが「HARD FOLK SUCCESSION」としてCD化されたのは有難いことだった。幻の歌ではなくなったのだ。
 
  君はいつも やさしく僕を抱いてくれたけれど

 この最後の言葉も、清志郎さんが歌うと何だかいい。パンダさんは大人だが、清志郎さんはどこか少年ぽいところがある。それが、女性の母性本能をくすぐって思わず抱きしめたくなるこの主人公に似合う。男は、好きな女を抱きしめたいと願うけれども、時には抱いて欲しい時もあるんだ。いつもは突っ張って突っ張って生きている男も、それだけじゃ生きていけないんだよ。
 本当の弱い自分を見せることの出来る数少ない、もしかしたらたった一人だったかも知れない人。抱いてくれる人ってのはそういう人のはずだ。その人を失ったら、そりゃ雨にも打たれるだろうよ。忘れる事など出来ないはずのあの歌も、今は思い出せない。忘れちゃったんじゃないんだけど思い出せないんだよ。
 何と痛切な叫びなのか。

 その痛切な思いを伝えてくれた清志郎さんが逝ってしまうとは。_お別れは突然やってくる。
 _空がまた暗くなる。_でも、風の中に君の声が聴こえる。どうか安らかに。合掌。
 
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僕の旅 鹿児島県2

 鹿児島県は広い。沖縄本島に接する与論島までが鹿児島県。ところが奄美には僕は残念ながら行った事がない。つい沖縄まで行ってしまうためであるが、今後機会は訪れるだろうか。機会と言えば喜界島もあるな(オヤヂ)。
 鹿児島の島々で足を踏み入れたことがあるのは、種子島と屋久島だけである。
 ちょっと旅行記風に書いてみたい。

 ある長い休みの前日の夕方。僕は妻を乗せ、鹿児島に向けて車を走らせた。夜行バスでも一夜で到着するのだから行けないことはないだろう。しかしなかなかにこれは疲れる。今では無理だろう。1000kmくらいあるからなぁ。ほとんど休まず走り続けて朝の屋久島行きフェリー出航にギリギリ間に合う。出航と同時に泥のように眠る。
 屋久島には一度行ってみたかった。若い頃からそう思っていたのだが、機会を逸するうちに世界遺産登録、さらに「もののけ姫」の公開によってかなりメジャーな旅先となり、一度は躊躇したのだが、ここで行っておかないとさらに開発が進み後悔するのではと思い、重い腰を上げたのだ。今から8年くらい前になる。
 フェリーは約4時間で屋久島宮之浦港に入港。曇り空だが、ひと月に35日雨が降ると言われる屋久島では上等だろう。結局この旅では、5日間屋久島に滞在して雨は1日(正確には半日)だけだった。運がいいと言うべきだろう。
 手始めに屋久杉に逢いに行こうと、ヤクスギランドへ。屋久島では樹齢千年以上の天然杉だけを屋久杉と呼び、それ以下は「小杉」である。なんとも豪勢な。ヤクスギランドとはまた遊園地みたいな名称だが、山深い森の中にある大木密集地に歩きやすいように遊歩道を設置した場所である。車を走らせ、標高約1000mまで上る。
 指定園内に入る前に、もう巨木が姿を現す。紀元杉。推定3000歳だ。でかい。そして雄雄しい。高さは20m程か。太い幹の上部には他の植物が着生して、木の上にひとつの庭園があるようだ。バベルの塔か、ラピュタを彷彿とさせる。
 歩き出す。千年杉、仏陀杉、母子杉、天柱杉と屋久杉の中でも巨大なものには名前が付けられている。いずれも原始の風景の中に神々しく聳え立つ。僕は言葉を失っていった。
 車ではるばるやって来ているので、夜はパーキングキャンプとなる。これは正解だった。
 屋久島は、基本的には登山がメインとなる。宿に泊まれば、朝5時に出発して登山口までバスかタクシー。これは大変だ。車で寝起きすれば、登山口に泊まって夜明けと共に行動が可能。非常に有効だった。
 夜は漁港や町の魚屋、スーパーでとれたての魚を購入する。包丁も俎板も持参してきているので、魚をおろし刺身で。名高い首折れ鯖も地元では廉価だ。飛び魚は小骨が多く難渋したが、これも新鮮で美味い。カメノテは味噌汁にする。酒は、屋久島の芋焼酎「三岳」。これを屋久島の天然水で割る。屋久島の水は、山の中の小川や湧き水はほぼ飲料化。美味い。至福という言葉はこういう場面で使用するのではないか。

 白谷雲水峡へ行く。ここは、弥生杉などの巨木もあるが、渓谷に存する原生林として名高い。照葉樹や常緑樹が混在し、川と豊富な降水によって苔が繁茂し、全てを緑色に覆いつくす。倒れた杉も、岩も木々も皆深緑色を纏う。5時間程度の山歩きだが、全てが湿った場所であり足元はあまり良くない。
 森に深く分け入ると、その緑がさらに色濃くなる。森が生きているのが分かる。幾重にも植物が重なり合い深い静けさを形成する。ただ森が呼吸する音だけ。こんなところは今まで見たことがない。ふと、来てはいけない場所に来てしまったのではと錯覚する。神秘とか神聖とか、そういう言葉では表現しにくい、人を拒絶するかのような深まり。どう例えればいいのだろう。かつて西表島を縦断したときに見た密林とも違う。ここを知れば、他のどこの森林も乾いて見える。それほどウエットな空間。
 その深い緑のクライマックスは、山小屋を過ぎてさらに上ったところに広がる。分かってはいてもやはり驚く。この光景はいったいなんだろう。視界に入る全てのものが濃い緑色で埋めつくされる。深遠な静寂と美。だがその美しさには畏怖感を伴う。
 妻がいつもの赤いキャップをかぶって森の前にぽつねんと立っている。その赤がこの緑だらけの空間に異様なアクセントとなっている。なんだこの色彩は。圧倒的な緑に襲われる。呑み込まれてしまうのではないか。僕はなんだか徐々に怖くなってきた。しかしこの場を離れがたい。
 この場所は、僕たちが訪れて後、「もののけ姫の森」という立て札が立った。宮崎駿氏が映画のモデルにしたのだという。ただそのネームバリューのために、旅行者はこの場所だけを目指してしまうようになり荒廃を誘発し、結果立て札は外されたと聞く。確かに緑が最も濃い場所ではあるが、ここだけを見て引き返すようでは確かにもったいない森であり、賢明な処置だろう。白谷雲水峡にキャッチフレーズなど必要ない。
 その先の辻峠を経て、太鼓岩と呼ばれる景勝地で素晴らしい眺望を満喫し、楠川歩道を経由して引き返す。

 屋久島の象徴と言えば縄文杉だろう。昭和41年に発見されたこの古大木は、推定7000歳とも言われる。屋久島はそれが全てではないが、やはり見に行かざるを得ない。
 その日は縄文杉への表玄関である荒川登山口で車中泊をしていた。バスの終点であり登山客が居なければ人っ子一人居ない深い山の中。夜は恐ろしいほどの静けさだったが、明け方になれば次から次へと車が到着する。みんな縄文杉を見に行くのだ。当時でもこの人出だったのだが、現在ではその頃の三倍も登山客が訪れ年間10万人にもなると言い、車両乗り入れ規制も行われるとの話。
 せっかく登山口で泊まったのに、ゆっくりと朝食を食べていたら多くの人が先に行ってしまった。僕らもそろそろと歩き出す。往復約22kmであり急がずともいいが日が暮れるまでには戻らねばならない。
 ただ登山と言っても、前半はトロッコ軌道を歩く。かつて屋久杉搬出のための森林軌道で大正時代に施設されたものらしい。軌道はまだ現役であり、線路上を歩くのでまあStand by meである。平坦だがこれが8km続き、その先は軌道を離れて本格登山となる。
 ここからは屋久杉も数多く登場する。翁杉を過ぎしばらく行くと、ウィルソン株に到着する。周囲14mという巨大な切株だ。
 これは、秀吉の命によって伐採されたという。方広寺建立のためと言われる。その方広寺は何年も経たぬ間に倒壊し焼失したが、切株は今も残っている。内部は空洞化し、祠がある。水が湧いているため中で寝転がるわけにはいかないが、10人くらいなら余裕で寝られる広さに見える。トトロでも大丈夫だろう。
 登山道は整備され、歩くのに苦にはならない。標高を増す毎に、大いなる屋久杉たちが目前に出現する。大王杉が姿を現した。縄文杉発見以前は屋久島最大の杉とされていたかつてのシンボル。その名の通りの威容。仰ぎ見るととてつもなく大きい。
 そして、クライマックスとしての縄文杉の下へ到着。
 この巨木についてはもう言い尽くされているのでそれ以上の言葉を見つけ出せないが、とにかく圧倒的だ。また形がいい。25mもの高さを誇っているのだが、それに負けないほど幹が太いため、いかにもどっしりとしている。他の杉よりも木肌がゴツゴツとしてすらりとしてはいないため、いかにも老木の貫禄がある。なんと言うか、人格を感じさせる。ここは屋久島最大の観光スポットであるためぽつねんと一人で見ることなど叶わないが、一人きりで対峙すれば言葉を発してくれそうな錯覚に陥るだろう。
 心ゆくまで拝謁し、山を降りる。
 
 合間合間に屋久島を観光してまわる。
 屋久島は、一島全てが世界遺産というわけではない。島内のおよそ20%の森林がそのように指定されている。西部林道は、その中で唯一世界遺産の範囲が海岸線まで伸びている場所である。ここはその名の通り林道であり、道も狭く観光バスなどはやってこない。なので、ヤクシカやヤクザルがどんどん下りてくる。ヘタにスピードなど出せない。ゆっくりと動物と戯れながら行く(と言ってもちょっかいを出しては生態系が壊れるので眺めるだけだが)。このあたりは実に峻険な地形で、屋久島の最大の特徴である植生の垂直分布が色濃い場所なのだが、学者ではないのでよくわからない。ただ、ここにはガジュマルなどの亜熱帯植物もいる。沖縄みたいだ。山の中はあれほど杉が勢力を持っていたのに、ここから見上げれば屋久島の特色でもある照葉樹林が繁茂する。垂直分布とはこういうことか。
 いくつか大きな滝もある。大川の滝は実に巨大である。また、千尋の滝の迫力は凄い。あちこち滝は見てきたがこれはその中でも白眉と言っていいだろう。
 フルーツガーデンに寄って果物を食べたり、漁村を歩いたり、栗生浜(どうバカは知ってますね)で遊んだり、楽しいことは山ほどある。また温泉もあちこちに湧く。楠川温泉、大浦温泉、尾之間温泉。日替わりで堪能する。泉質は尾之間が好ましかったが、最も好きだったのは湯泊温泉である。海岸にある露天風呂で、オープンすぎて女性にはどうかと思うが、ぬるめでいつまでも入っていられる。開放感は抜群だ。海岸にある露天風呂は平内海中温泉の方が高名だが、干潮の前後2時間しか入浴できない。潮が満ちれば海中に没してしまう。僕が入ったときには、逃げ遅れた魚たちが茹だっていた。

 そうして疲れをとりながら山歩きを続けていたのだが、妻がとうとうギブアップしてしまった。実はこの時妻はちょっとした病気に罹ってしまっていて体力が続かなかったのだが、それは後に分かった事で、この時はただ疲れが溜まったとしか思わなかった。いかんともし難いので僕は半日だけ自由時間を設定し、一人で登山を敢行した。
 本来、屋久島最高峰(つまり九州最高峰)である宮之浦岳に登るつもりだったのだが、それは丸一日を要してしまうため、目的を屋久島第三峰の黒味岳に切り替えた。これなら、急げば5時間くらいで制覇出来る(これは当時の僕の体力が勝っていたのでこの時間。今なら8時間くらいかかるかも)。
 例によって登山口で泊り、夜明けと共に歩き出す。まだ誰も登山道には居ない。迷わないようにだけ気をつけて駆け足で飛ぶように登る。空気が澄み渡り呼吸が心地いい。
 しばらくすると山小屋が見えてくる。ようやく人の姿があった。誰も居ない山道は多少怖い。この小屋近くに、淀川という清流がある。何故淀川という名称なのか解せない程に美しい川だ。あちこちで川を見たけれども、間違いなく僕の中では美しさ1位。まるで絵のようだ、と書いてしまえば陳腐に過ぎるが、この澄み切った清さをなかなかに表現するのは難しい。もちろん直接すくって喉を潤す。美味い。
 しばらく淡々と山道を歩くと、急に視界が広がる。小花之江河だ。ここは日本最南端の高層湿原である。湿原好きの僕を十分満足させるに足る山上の庭園。少し歩くともうひとつの湿原である花之江河に到着する。
 ここは登山道の分岐点であり、混雑とまではいかずとも他の登山口から来るハイカー達も増えてきた。皆一様に最高峰である宮之浦岳を目指すのだろう。僕もその人々に紛れて登山道を行く。が、しばらくすると黒味岳分岐が。ここで折れるのはどうやら僕だけのようである。一人敢然と登りだす。
 ここからは黙々と登るのみであるが、高山のため木々も姿が減り剥き出しの岩が多くなる。足場はさほど悪くないものの十分な注意が必要となる。堕ちても誰も助けてはくれないだろう。後続のハイカーは居ないようであるし。
 傾斜が厳しくなり、植物も見えなくなった頃、山頂に着いた。標高1831m。山頂は巨大な岩の塊だった。居るのは僕一人。遥か下に先ほど通った花之江河が箱庭のように見える。振り向けば宮之浦岳の威容。口永良部島まで見える。晴れてはいないが霧もなく恵まれた。山頂に一人というのは始めての経験である。天上天下唯我独尊という言葉が何故か浮かぶ。満喫して下山する。
 満足して屋久島を後にする。この後は種子島へと渡る。

 種子島では、うって変わって観光旅行風に行く。
 もちろん種子島には千座の岩屋や馬立の岩屋などの景勝地、マングローブやアコウの大木、坂井の大ソテツなど、宝満神社、たねがしま赤米館と見所には事欠かない。車であるのをいいことに貪欲に観て回ったのだが、この島の目玉はやはり鉄砲と宇宙センターである。
 種子島と言えば鉄砲。鉄砲と言えば種子島。日本の戦国時代の様相を劇的に変え、織田信長、豊臣秀吉に天下を取らしめた当時の最先端の武器。その最新兵器が日本に最初に伝来したのがここ種子島と言われている。言われている、と書いたのは、もしかしたらもう少し以前にも鉄砲が日本に入ってきていた可能性があるからだが、史上ではここが最初であり、大量生産のきっかけとなったのは間違いないだろう。
 その伝来地とされる島の南端門倉岬に立つ。ここに中国のジャンク船が漂着し(漂着ではなくしっかりとした訪問であったかもしれないのだが)、そこに乗り合わせていた三人のポルトガル人が鉄砲を日本に伝えた、ということになっている。
 ところで、南蛮人など日本人にとってはほぼ接触の無かった時代、会話も出来るはずがない。この場の接触は、このあたりの主宰だった西村織部丞と、船に乗り合わせていた明の儒生との間で、筆談でなされた。織部丞に漢文の素養があったということも当時の種子島の民度の高さを伺わせるが、一方の、一般には通訳として解される明の儒生、名を五峰とされるが、この五峰は、「王直」のことだとする説が有力である。
 歴史好きであれば王直という名にピンとこられる方もあると思うが、もしも王直であったとすれば、これは漂着などではなく明確に鉄砲を売り込みに来たのではないかとも想像したりして。
 王直は、いわゆる「倭寇」の大頭目として知られる。倭寇は日本人が海賊化した者と一般には認識されているが、この頃は密貿易者の総称となっており何も日本人ばかりではない。王直は当時の大貿易商であり、長崎の福江島(五島列島)にも屋敷を持っていた。僕も五島に行った際にその屋敷跡を訪ねた事がある。
 海岸へ下りてみる。おそらくこのあたりに船が着き、西村織部と五峰(王直かもしれない)が、砂浜に杖で文字を書いて会話をしたと思うと感慨が深い。僕も流木を拾って砂に「鉄炮如雷光」などと書いては悦に入っていたが、隣で妻はやはり死んだ魚のような目をしている。興味無いかなぁ。
 船は西之表に曳航され、鉄砲が領主の種子島時尭に渡る。そこからこの二挺の鉄砲を複製せんがための研究が始まり、火薬の調合に苦労し、当時日本に無かったネジという螺旋のカラクリを会得するために刀鍛冶八板金兵衛が娘若狭を南蛮人に差し出すという悲劇も伝承として伝わる。
 僕たちも島一番の街である西之表に行き、種子島開発総合センター(鉄砲館)をまず訪れて勉強し、種子島氏墓地、赤尾木城跡、鍛冶屋集落跡、八板金兵衛屋敷跡、若狭の墓などを訪れた。種子島時尭の銅像が立っている。この第14代島主は鉄砲伝来の時にまだ16歳だったと言う。二挺の鉄砲を購入するのに二千両払ったと伝えられる。豪儀と言うか足元を見られたと言うか。ただこの二千両で日本の歴史が変わったことも確かである。というのも、時尭はケチ臭い人物ではなく、その苦労して複製したノウハウを簡単に外部に伝えた。したがって直ぐに紀州の根来衆や堺の商人がこれを学び、近江の国友鍛冶も翌年には生産を始めている。これがもっと隠蔽体質のある大名に伝えられたとしたらどうなったか。また、薩摩島津氏が鉄砲を完全独占していればどうなったか。ifの想像は尽きない。
 
 さて鉄砲はそのくらいとして、種子島宇宙センターへと向かう。日本最大の宇宙開発基地だ。
 ロケットの打ち上げは地球の自転速度をも利用するため赤道に近いほど有利とされる。建設計画時は、日本で最も赤道に近い沖縄や小笠原がまだ日本に返還されておらず、種子島に設置された由。広大な施設のため、車を走らせあちこちの発射場を見て回った。また宇宙科学技術館という施設があり、様々な模型や展示物で日本のロケット開発並びに宇宙について楽しく学習が出来る。
 僕はここに一つの目的があった。
 僕の祖父は模型技師だった。その事は以前にも書いたことがあったが(→広島県の旅)、ここにも祖父が作ったジオラマがあるはずである。しかも、そのジオラマの製作現場を僕は見ている。小学校に上がるか上がらないかくらいの頃、父に連れられて祖父の勤める会社に見学に行った。祖父はその頃定年間近で、おそらく孫に職人としての姿を見せたかったのではないか。
 祖父は、宇宙基地全景の縮尺模型を作っていた。盛り上がった基盤に緑色の粉を撒いて接着させ巧みに山を造形している。

 「何をふりかけてんのん?」
 「これはオガクズを緑色に染めたもんだ」

 そんな会話の記憶が僕の片隅にある。じいさんも死んでずいぶん経った。
 そのじいさんの作品を見るのを楽しみにしていたのだが、施設をずいぶんくまなく見てもそれらしきものが無い。僕は訊ねてみた。宇宙センター全景の模型があると思うのですが…。
 すると、何年か前に外され今は無いとのこと。そうか。確かに30数年前のもので、基地も開発がさらに進み古くなってしまったのだろうな。ぐずぐずせずもっと早くに来れば良かった。じいさんすまん。見損ねてしまったよ。

 そして、心残りはあるものの、充実した屋久島・種子島の旅を僕は終えた。
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