2009.09.24
【改訂新版】盧山初雄と松井章圭/強さや個性が敵を作る矛盾
盧山初雄という人間を改めて「武道家」として、また「組織の長」として好きになりました。というより敬愛したというのが正しい感情かもしれません。
正直言って極真会館時代(大山倍達の存命中から)の盧山には「破天荒」というか気儘な印象が強くありました。決して悪い意味ではありません。組織という鎖に縛られず自らの信念や正論に自由に従うおおらかさと言ってもいいでしょう。しかし時にそれは組織内に於て異端と見なされる事にもなり兼ねません。
私はここで、盧山が松井極真体制から離れた背景に触れるつもりなどありません。あくまでも「人間」としての盧山初雄に対して抱いた印象を私は語っているのです。
ただ自由奔放は時に正義にも悪にもなる事を忘れてはならないでしょう。
人間の「個性」とはそんなものだと私は思っています。
例えば私が「好む」松井章圭の個性が、別な視点から見る人間には「好まざる」ものになるように…。私の立場から見れば松井の個性も好きだし、異種ながら盧山の個性も好きだという事に過ぎません。同時に逆の評価もあるという事なのです。
先日も私は松井にたしなめられました。もう何度目か分かりません。
「コジマさんの影響力は大きいからこそコジマさんを支持する人間だけじゃなくコジマさんが嫌いだという敵もいる事を忘れてはいけないですよ」
私は松井に「館長も同じでしょう」と減らず口を叩きはしましたが、松井の言葉はまさに真理です。
同じ人間に対しても、その個性が強ければ強い程、味方も敵も増える。否、敵の方が圧倒的に多くなるのが現実なのです。
私は盧山初雄の潔さが好きです。
繰り返しますが、長い間、私は盧山に対して、気楽さ、奔放さ、豪胆さのイメージしか持ってきませんでした。あくまで「組織」というシガラミの中にあっての盧山に対する印象です。武道家としての盧山には良くも悪くも「古式」に恭順な、また自らの信念に忠実かつストイックな求道者として憧れてきた事は言うまでもありません。
あくまで「組織人」としての盧山が有する奔放さや豪胆さが、ある面から我儘さ、無責任に映る事も少なくなかったと感じます。しかし、盧山は自らが主宰する極真館の長(館長)に就いて以来、大きく変わったと私は思いました。四苦八苦しながらも…。
思えば1995年前後に勃発した極真会館分裂騒動は筆舌に尽くせない程に酷いものでした。人間の持つ欲望、嫉妬、打算…全ての醜さが渦を巻いて嵐になって吹き荒れました。
その渦中にあって松井章圭は一歩も退かず、決して逃げませんでした。そんな「強さ」に私は惹かれたのです。また盧山もまた、身を棄てて松井の盾になり続けました。
正直言って極真会館時代(大山倍達の存命中から)の盧山には「破天荒」というか気儘な印象が強くありました。決して悪い意味ではありません。組織という鎖に縛られず自らの信念や正論に自由に従うおおらかさと言ってもいいでしょう。しかし時にそれは組織内に於て異端と見なされる事にもなり兼ねません。
私はここで、盧山が松井極真体制から離れた背景に触れるつもりなどありません。あくまでも「人間」としての盧山初雄に対して抱いた印象を私は語っているのです。
ただ自由奔放は時に正義にも悪にもなる事を忘れてはならないでしょう。
人間の「個性」とはそんなものだと私は思っています。
例えば私が「好む」松井章圭の個性が、別な視点から見る人間には「好まざる」ものになるように…。私の立場から見れば松井の個性も好きだし、異種ながら盧山の個性も好きだという事に過ぎません。同時に逆の評価もあるという事なのです。
先日も私は松井にたしなめられました。もう何度目か分かりません。
「コジマさんの影響力は大きいからこそコジマさんを支持する人間だけじゃなくコジマさんが嫌いだという敵もいる事を忘れてはいけないですよ」
私は松井に「館長も同じでしょう」と減らず口を叩きはしましたが、松井の言葉はまさに真理です。
同じ人間に対しても、その個性が強ければ強い程、味方も敵も増える。否、敵の方が圧倒的に多くなるのが現実なのです。
私は盧山初雄の潔さが好きです。
繰り返しますが、長い間、私は盧山に対して、気楽さ、奔放さ、豪胆さのイメージしか持ってきませんでした。あくまで「組織」というシガラミの中にあっての盧山に対する印象です。武道家としての盧山には良くも悪くも「古式」に恭順な、また自らの信念に忠実かつストイックな求道者として憧れてきた事は言うまでもありません。
あくまで「組織人」としての盧山が有する奔放さや豪胆さが、ある面から我儘さ、無責任に映る事も少なくなかったと感じます。しかし、盧山は自らが主宰する極真館の長(館長)に就いて以来、大きく変わったと私は思いました。四苦八苦しながらも…。
思えば1995年前後に勃発した極真会館分裂騒動は筆舌に尽くせない程に酷いものでした。人間の持つ欲望、嫉妬、打算…全ての醜さが渦を巻いて嵐になって吹き荒れました。
その渦中にあって松井章圭は一歩も退かず、決して逃げませんでした。そんな「強さ」に私は惹かれたのです。また盧山もまた、身を棄てて松井の盾になり続けました。
私も盧山初雄や松井章圭のように強くなりたい! 強く生きたい!
芦原英幸に魅了されたのもやはり彼が超人的に強い人間だったからです。また音楽家・実業家としての矢沢永吉に惹かれたのも同じ理由です。
でも無理でしょう。私にはそんな器量はありません。
誰かが近くにいてくれない…私は戦えない人間です。私の本性は強がりだけで独りでは戦えない弱虫なのです。
自分が弱いから強さに憧れる…。しかし一方で自分が弱いからこそ時に歌の中に弱さを見せる吉田拓郎が好きにもなるのです。
吉田拓郎も矢沢永吉に負けない強い人間ではあります。ミュージシャン・実業家として最初にMajorに牙を向いたのは吉田拓郎である事は歴史的事実です。
でも、徹底して攻撃一辺倒(本当に強く攻撃的なのだと思いますが)の矢沢永吉に対して、吉田拓郎の強さは「強さの裏にある弱さ」、つまり「自然体の強さ」と言えるでしょう。
また強さや攻撃性をアピールしながら、つい本性である弱さを露呈してしまう長渕剛の歌に涙してしまうのもそんな理由からだと理解しています。
三瓶啓二を批判しながら、どこかで未だに本気で憎めないのもそこに理由があるのだと思います。今でも、三瓶を「兄」のように思って三瓶グループの末弟を気取っていた頃を無性に懐かしく思う事があります。三好一男も柳渡聖人、小林功も、ある時期私の「兄」でした。私は1度も三瓶とケンカも言い争いもせず、ただ私が松井章圭を支持すると公言した時から三瓶の敵になったと理解しています。
松井を応援する事が即、三瓶の敵になるとは夢にも思いませんでした。三瓶グループが松井を敵視していた事実は知っていたし、ある時期私も彼らの「一味」だったのですから。とはいえ、そこまで極端なものとは思いませんでした。
それにしても、人間は本当に不思議な生き物です。
憧れ惹かれながらもどこかで反発し、嫌悪したつもりでいるのにフッとした時に愛情を覚えてしまう。矛盾だらけの生き物なのです。
それは「人間のサガ」というより私の個性なのかもしれません。「筋」だ「仁義」と言いながら、「情」に流され易いロクデナシな人間が私です。
しかし…人間は悪事を働きながら善行を施し、善人て呼ばれる者が悪に手をつける生き物なのです。
イエス・キリストが磔の刑に服する時、「絶対に師を裏切らない」と口を揃えて断言した11人の弟子たちは、みな逃げ去ってしまいました。
やはり私は盧山初雄や松井章圭、また芦原英幸や矢沢永吉にはなれそうにありません。
何故なら、彼らはある意味、イエスの弟子より「強い」人間たちなのだから…。
(了)
芦原英幸に魅了されたのもやはり彼が超人的に強い人間だったからです。また音楽家・実業家としての矢沢永吉に惹かれたのも同じ理由です。
でも無理でしょう。私にはそんな器量はありません。
誰かが近くにいてくれない…私は戦えない人間です。私の本性は強がりだけで独りでは戦えない弱虫なのです。
自分が弱いから強さに憧れる…。しかし一方で自分が弱いからこそ時に歌の中に弱さを見せる吉田拓郎が好きにもなるのです。
吉田拓郎も矢沢永吉に負けない強い人間ではあります。ミュージシャン・実業家として最初にMajorに牙を向いたのは吉田拓郎である事は歴史的事実です。
でも、徹底して攻撃一辺倒(本当に強く攻撃的なのだと思いますが)の矢沢永吉に対して、吉田拓郎の強さは「強さの裏にある弱さ」、つまり「自然体の強さ」と言えるでしょう。
また強さや攻撃性をアピールしながら、つい本性である弱さを露呈してしまう長渕剛の歌に涙してしまうのもそんな理由からだと理解しています。
三瓶啓二を批判しながら、どこかで未だに本気で憎めないのもそこに理由があるのだと思います。今でも、三瓶を「兄」のように思って三瓶グループの末弟を気取っていた頃を無性に懐かしく思う事があります。三好一男も柳渡聖人、小林功も、ある時期私の「兄」でした。私は1度も三瓶とケンカも言い争いもせず、ただ私が松井章圭を支持すると公言した時から三瓶の敵になったと理解しています。
松井を応援する事が即、三瓶の敵になるとは夢にも思いませんでした。三瓶グループが松井を敵視していた事実は知っていたし、ある時期私も彼らの「一味」だったのですから。とはいえ、そこまで極端なものとは思いませんでした。
それにしても、人間は本当に不思議な生き物です。
憧れ惹かれながらもどこかで反発し、嫌悪したつもりでいるのにフッとした時に愛情を覚えてしまう。矛盾だらけの生き物なのです。
それは「人間のサガ」というより私の個性なのかもしれません。「筋」だ「仁義」と言いながら、「情」に流され易いロクデナシな人間が私です。
しかし…人間は悪事を働きながら善行を施し、善人て呼ばれる者が悪に手をつける生き物なのです。
イエス・キリストが磔の刑に服する時、「絶対に師を裏切らない」と口を揃えて断言した11人の弟子たちは、みな逃げ去ってしまいました。
やはり私は盧山初雄や松井章圭、また芦原英幸や矢沢永吉にはなれそうにありません。
何故なら、彼らはある意味、イエスの弟子より「強い」人間たちなのだから…。
(了)