松平保定さん、右は家紋の会津葵
松平保久さん
菅家一郎さん、後ろは当時の会津若松城
お殿様とは、今の日本人にとって、どんな存在なのだろう。例えて言うなら「へそ」みたいなものではなかろうか。
歴史的役割はすでに終えているが、地方によっては心のよりどころ、中心に位置し続ける。
そんな物語を、まずは福島県の会津から始めよう。
◇
昨年2月16日夜のことだ。
TBSの歴史クイズ番組で流れた出題が、会津の人たちの心を逆なでした。
「明治元年の戊辰戦争の際、会津若松城に籠城(ろうじょう)した人たちが城を明け渡した、とんでもない理由とは?」
正解がなんと「糞尿(ふんにょう)が城にたまり、その不衛生さから」。
会津若松市役所には翌朝から「おもしろおかしく史実をねじ曲げている」「抗議すべきだ」と怒りの声が多く寄せられた。
旧会津藩28万石の9代藩主、松平容保(まつだいら・かたもり)が京都守護職となって幕末の表舞台に登場して以来、会津の人たちは時代の荒波に翻弄(ほんろう)され続けた。
最後は朝敵扱いされ、薩長新政府軍の猛攻の前に、籠城すること1カ月。城下では白虎隊や婦女子の自刃など数々の悲劇が起きた。死者は数千人……。
人々の心に深く沈殿した、いわれなき屈辱と悲惨な記憶は、時として激しく噴き上がる。
録画テープを取り寄せた市長の菅家一郎(かんけ・いちろう)(54)も「会津人への侮辱だ」と声を震わせ、TBS社長に抗議文を送りつけた。
4月8日、TBSは非を認め謝罪放送を流す。後日、社長が定例会見の場でも謝罪した。
糞尿騒ぎの2カ月間。東京で暮らす会津松平家の長男、保久(もりひさ)(55)はじっと成り行きを見守った。容保のひ孫で、現在、NHKエンタープライズのプロデューサー。
謝罪放送の翌日、こんなメールを市長あてに送った。
「松平家の一員としても非常に不快に思っておりました。市長はじめ市民の皆様も同じ思いを持ち、実際に行動を起こして頂いた事に深く感動し、うれしく思っております……」
菅家はさっそく市役所のホームページで公開した。
抗議の先頭に立った一人、会津若松商工会議所会頭の宮森泰弘(みやもり・やすひろ)(65)は振り返る。
「振り上げた拳を、あのメールでようやく下ろすことができた。我々の先祖は、松平家とずっと一緒に生きてきた。今でも精神的なシンボル」
◇
2代将軍徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の子で、藩祖の保科正之(ほしな・まさゆき)が会津に入封したのは、366年も前。3代藩主から松平姓となった。
藩士の子弟に会津魂を育んだ7カ条の「什(じゅう)の掟(おきて)」は、今でも子どもたちに教えられている。「うそを言うてはなりませぬ」「弱い者をいじめてはなりませぬ」……。最後の一節が「ならぬことはならぬものです」。
ところで、「殿様」が糞尿騒ぎを知ったのは、随分あとのことだった。
保久の父で、13代当主の保定(もりさだ)(83)は「息子がそんなメールを出したことも、僕は知らなかったよ」と話す。
2年前、磐梯山と猪苗代湖に臨むマンションに、妻と2人で移り住んだ。近くに藩祖の墓がある。
東京で生まれ育ち、大学を卒業して、農林中央金庫に29年、勤めた。
あまり知られていない話がある。
保定は定年退職後、人柄を見込まれ、「靖国神社の宮司に」と打診があった。辞退したが、「どうしても」と要請された。
靖国神社は、戊辰戦争での新政府軍側の戦没者を慰霊したのが、その始まりである。
3カ月、悩んだ。他の神社ならともかく、最終的に断った。
「薩長がまつられ、賊軍とされた会津の戦死者がまつられていないのに、会津人としてお受けするわけにはまいりません」
ならぬことは、ならぬ。会津は戊辰の残照の中にある。
(このシリーズは文を加藤明、写真をフリー大北寛が担当します。文中敬称略)