捷号陸軍作戦 レイテ・ルソン決戦/暫定作成


昭和19年10月17日 マッカーサー将軍指揮下の米軍がレイテ湾の小島スルアン島に上陸、台湾沖航空戦の直後であり、ダバオ誤報事件(9/10)もあったので断定しかねる向きも一部にはあったが、大本営はこれを米軍の本格的進攻と判断、10月18日夜「捷一号作戦発動」を命令した。

元来レイテ決戦は海空主力で実施する計画であり、第14方面軍(司令官 山下奉文大将)はルソン決戦を準備しておりレイテ島には地上決戦の計画はなかった。しかし台湾沖航空戦の大戦果を信じていた大本営及び南方軍は、この米軍の動きを過失と判断、海空の援護のないまま上陸した敵地上部隊を撃破する好機ととらえ、地上決戦を実行するように命令した。

これに対し第14方面軍では、現地の空襲の状況や情報主任参謀・堀少佐の分析などから敵空母壊滅の実感はなく、海上決戦(比島沖海戦)の成否、海上輸送の不安などからレイテ島決戦には反対したが、22日、南方軍寺内元帥はその実行を命令、山下大将は第35軍(司令官 鈴木宗作中将)に対しレイテ決戦を電命した。

レイテ島の作戦

昭和19年10月20日 米第6軍は、レイテ島に1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸した。
日本軍は第16師団(牧野四郎中将)など約2万が配備されているに過ぎず、師団司令部のあるタクロバン正面は手薄で敵上陸第1日で通信網を寸断され集積物資の多くを失った。しかしこの戦況は上級司令部には伝わらなかった。

大本営と南方軍は上述のように台湾沖航空戦を信じており、比島各地からの陸上兵力のレイテ投入を督促するとともに乗船中の第1師団と台湾の第68旅団を第14方面軍に増加した。当初、レイテ担任の第35軍も台湾沖航空戦の戦果を信じており、軍主力をカリガラ付近に集結させ、オルモック方向に攻勢をとる計画で逐次兵力を部署した。
米軍の進出は以外にも早く、11月上旬戦場はカリガラ、リモン付近に移る。米軍は着実に戦力を増強し航空、戦車、砲兵の総合威力を遺憾なく発揮しつつあり、一方日本軍も10月31日 第1師団(片岡薫中将)は無傷でオルモック湾に上陸した。しかし海上交通が危険のため第2陣以降の増援部隊は空襲により兵力・物資の大部を失い、兵力は最大75000名にまで達したが、戦力は逐次低下した。
地上決戦のため兵力、補給品を送る船舶の運行確保が必要で、このため地上部隊はこれを妨害する敵飛行場への攻撃が必要となるというガダルカナル作戦そのままの推移で、第26師団(山県栗花生中将)はブラウエン飛行場に対し攻撃を開始した。道のない山越えの前進で12月5日から空挺による挺進攻撃(和号作戦)を実施したが、大勢を変えるまでには至らず、12月11日にはオルモックをも奪還され、攻勢の持続は不可能となった。

12月15日 米軍はミンドロ島に上陸、サンホセに飛行場を設定し戦場はルソン島へと移りつつあった。
12月19日 レイテ島の残存部隊は西北角のカンキボット山地に集結、持久戦の態勢に移った。
12月25日 大本営と南方軍は第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結した。

ルソン島の作戦

レイテ島決戦に敗北した日本は、海空決戦戦力を失い、日本本土と南方資源地帯との海上交通路は途絶した。

12月15日 米軍がミンドロ島に上陸し、第14方面軍はレイテ決戦を完全に諦め、ルソン島での作戦に臨むこととなった。しかしルソン島から多くの兵力・軍需品をレイテ島に送り出した後での再度の決戦は望み得ず、本土決戦の準備を稼ぐためになるべく多くの米軍を拘束するよう長期持久作戦を行うことを決定した。
すなわち第14方面軍はルソン島指揮下の兵力を3分し、其々の地域で「自活自戦 永久抗戦」で米軍を牽制・拘束に努めることとしたのである。
ルソン北部の主力(5個師団のちに6個師団)をもってバギオを中止にした北方拠点を尚武集団と呼称、マニラ東方山地には2個師団をもって振武集団とし、クラーク西方山地には陸海航空部隊と第1挺進団からなる建武集団が配置された。この3大拠点を堅固に占領し永久抗戦の態勢を整えようとした。

在ルソン部隊 総計28万7千名
尚武集団 北部拠点 山下大将直率 152000名
振武集団 中南部ルソン担当 横山静雄中将 105000名
建武集団 クラーク西方拠点 塚田理喜智中将 30000名

昭和20年1月9日 米第6軍は空母12隻を含む大艦隊でリンガエン湾から上陸を開始した。

日本軍は陸上・海上の挺進攻撃を繰り返しいたが結局大きな成果を期待することはできず、沿岸を守備した第23師団(西山福太郎中将)は23日頃には各所で分断された。第58旅団(佐藤文蔵少将)からの部隊と戦車第2師団の中核旅団(重見伊三雄少将)は夜間反撃作戦を企図したが、装甲・砲力に劣る九七式中戦車ではM4戦車を撃破することはできず、多くの戦車を失い敗退した。

この間米軍2個師団はマニラに向かって突進し、1月下旬頃建武集団を突破、2月3日首都マニラ市内に突入した。

マニラ攻防戦

ルソン島防衛に際し、首都マニラをどうするかが第14方面軍で問題となり、一般方針としてマニラを戦場としないこととし市中から軍の退去、軍需品の各拠点への輸送に努めた。山下大将の真意はマニラの非武装都市宣言だったが大本営は認めなかった。さらに海軍・航空部隊にマニラ死守論があり、その実行には徹底を欠いた。

マニラ市街には第31根拠地隊司令官・岩淵三次少将指揮下のもと、海軍マニラ防衛部隊を中心にした約1万名(他に野口大佐指揮の陸軍部隊)がいた。戦車も重砲もなく、小銃は3名に1挺という状況下応急陣地で激しく抵抗した。 2月3日 4箇所からマニラ市内に侵入した米軍との間に激しい市街戦が約3週間にわたって展開された。国会議事堂、市役所、中央郵便局をはじめ主要な建造物はことごとく破壊され、マニラは焼け野原と化した。
2月26日 我が守備隊の大部分は戦死、岩淵少将は残った部下を司令部を置いた農商務省ビル地下室に集め恩師の酒を酌み交した後に自決、以降残存部隊が抵抗を示したものの3月3日 マニラ市街戦は終了した。

岩淵部隊救出に向かった振武集団の一部は、米軍と衝突して多数の損害を生じ、救出不成功のままもとの陣地に反転した。ほぼ同時期、板垣大佐指揮のコレヒドール島も陥落、3年前には我が重砲をもって制圧した要塞島も敵手に渡った。

3集団の作戦

尚武集団の拠点北部ルソンは、大部分がけわしい山岳地帯で持久戦闘に適し、真中にあるカガヤン河谷の平地は穀倉地帯であり自活自戦の長期戦に適する地域であった。方面軍主力はサラクサク、バレテ峠に守ってこの拠点に立てこもり逐次圧迫を受けながらも、最後にはプログ山を中心に複郭陣地を占領して終戦まで戦いぬいた。

建武集団は100余の混成部隊で編成され、クラーク飛行場の使用を拘束妨害する任務をもって西方拠点を占領していた。しかし海没部隊、臨時挑発部隊、軍艦を失った海軍部隊、航空隊関係等雑軍のそしりは免れず、戦闘力は不十分であった。昭和20年1月末にはリンガエン湾から南下した米軍に第1線陣地を突破され、また背後から上陸した敵の挟撃を受けピナツボ山のふもとに戦線を収縮して最後の抵抗を行った。

振武集団はマニラ湾及びマニラ付近の航空基地の使用妨害を主任務とし、主力をもってマニラ東方山地に東方拠点を占領していた。マニラ陥落後は各所において敵に突破され陣地が崩壊し、山中に圧迫された。5月1日から第41軍と呼称されたが6月末には組織的戦闘力は喪失、爾後東方山地の広大な地域に分散し自活自戦を継続し終戦に至った。