サラェボ事件から開戦まで

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サラェボ事件から開戦まで

(直前外交)

サラェボ事件から開戦まで

ヨーロッパの安全保障

1914年のヨーロッパは5大国(列強)が君臨していた。他の国は、すべて5大国のいずれかによりかかり安全保障を維持していた。

そしてこの5大国、イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリアで国境をめぐる紛争は、今から考えると奇妙だが、仏・独間のアルザス・ロレーヌを除くと存在しなかった。そしてフランスはその領土を失って46年になり、武力でこの地を奪回することはしないことで与野党間に合意ができていた。

ヨーロッパ諸国は、アメリカ両大陸・中近東・極東を除き分割を終了し植民地化していた。もちろん植民地をめぐり紛争は絶えなかったが、それを原因としてヨーロッパで戦争が起きることはなかった。

オスマン帝国の老衰は明らかでその継承をめぐるクリミア戦争はあった。しかしそれはヨーロッパの中心からは遠く離れた戦争だった。

ヨーロッパのオスマン帝国の分割ではバルカン半島の小国が互いに争った。バルカン戦争が2次にわたって戦われたが、5大国いずれも干渉することなく終了した。ヨーロッパは共通の文化と類似の宗教にたち王族は互いに通婚し縁戚だった。貴族的な外交官が活躍し、たとえ紛争があっても未然に終了させた。

当時、イデオロギーの対立もなかった。たしかにフランスだけは共和国だが、共和制の輸出などとっくにあきらめていた。そしてロシアを除けばすでに専制的な君主制はなく、いずれも立憲君主制のもと内政では議会政治家が有力となりつつあった。

この5大国のなかで軍事同盟が存在した。すなわち露仏同盟と独墺同盟である。同盟条約自体に自動参戦条項があるわけではない。しかしこの同盟関係は地勢上重要な結果をもたらした。すなわちもし戦争になればドイツは二正面作戦を余儀なくされる。

露仏同盟独墺同盟

ロシアは長大な戦線をかかえる、またオーストリアはセルビアまたはイタリーとの戦線も予想されるなどの問題はあるがドイツの抱えた問題よりは小さくみえた。この地図上単純な事実が各国の参謀本部を拘束した。

イギリスはこの露仏・独墺の対立にたいし一応中立の立場で対処した。もちろん執拗に建艦競争を挑むドイツにたいし反感があり、英仏協商にもとづく友好関係がフランスとの間にはあった。しかし紛争の調停では中立的に対処、とくにオーストリアとの友好関係は維持した。

英仏協商  英露協商

そしてこの同盟間の対立を5大国の君主・政治家がとくに重要視したわけではない。同盟は普通、戦争を抑止する目的で結ばれる。対立が戦争を引き起こす。しかし同盟と対立があり戦争がないときが平和だとも言える。

1914年はバルカン戦争が終了、特別に平和な年になることが約束された。ドイツはラインラントの観光を解放したくさんのアメリカ人がライン川の川くだりを楽しんだ。フランスでは首相の妻が殺人事件を引き起こしその話題でもちきりだった。ドイツの資本家はイギリスへの投資を開始し、共同事業会社が発表された。

ではなぜ1914年8月戦争が起きたのか。

 外交が失敗し軍事作戦計画が暴走したからだ。それまでサラェボ事件に続く7月危機を上回る危機は発生した。しかし外交が戦争を防いだ。ところがこのときに限って、誰もが望まないヨーロッパ戦争が突然発生した。こういった大事件では必ず、社会体制・不正義などをあげ不可避だったという議論が出る。人間は見ることのできる少数の当事者が失敗して大事件を引き起こしたと信じるより不可避な偉大な力が働いたと思いたがる。

 近世の国家間の戦争で不可避だといえるものはない。攻撃された側で手段がない場合はもちろんある。第1次大戦ではセルビアとベルギーが該当する。しかし攻撃した側のオーストリアとドイツには責任者がまちがいなくいた。そしてロシアが先頭にたち総動員という大国として過激な前軍事行動にでたことも忘れてはならない。これにも責任者がいた。しかしこの時、誰も大国間の全面戦争は望まなかった。この戦争はおそろしいことに要路の人間のハズミ・失敗・見込み違いで起きたのだ。すなわち偶然で。

1914年7月危機(日を追って)

ウィーンの対応

オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨゼフT世は運命の日,1914年6月28日ですでに83歳の高齢であった。暗殺された皇太子フランツ・フェルティナンドは甥で、貴賎結婚をしたことを理由に仲は悪かったと伝えられる。

閣議は開かれたが結論は出ずまた閣議そのものに権能がなかった。これは今後の意志決定で独、墺、露の君主国に共通して見られるが各閣僚は君主に責任を負っており、意思決定が閣議等で行われることはまずない。しかしこれは君主が万能を意味しているわけでもない。

人事は左右したことはあるにせよこの三国の君主ともひどく民主的(?)で結論を出すに当たって責任閣僚の意見を遵守している。オーストリアの場合責任閣僚は外相のベルヒトルトだった。この男は後日、英首相のロイド・ジョージに馬鹿者と評されるが如く外観・社交性にすぐれるが先見性・決意に欠けていた。しかしオーストリアの責任閣議(戦争参事会)はベルヒトルトが主宰しそのイニシアチブで進められて行く。

ベルヒトルト

サラェボ事件の半年後、ハンガリー首相ティサが皇帝にベルヒトルトは任に堪えないと申しでた所、皇帝の回答は次のようだった。「私は毎日ベルヒトルトに同じ事を言っているが何故か彼だけが分からないらしい」と。 暗殺事件の外交処理を一任されたベルヒトルトはまず陸軍参謀総長のコンラート・ヘッツェンドルフに相談した。

コンラートはもともと好戦的な男ではあるが、今回は陸軍の動員について、部分動員は難しく全面動員以外は不可能との回答した。これも以降獨・露・仏で全く同じパターンがくりかえされる。即ち動員は前もって計画されたもの以外は不可能だと言うのである。全面動員とすれば二正面作戦、対露・対セルビア動員と言う事になる。

この各国の総動員計画がこの戦争の前提になったことは疑いない。独・墺・仏・露の4国はいずれも数百万人を超える総動員計画をもっていた。但し当時でも日・英・米の3国はそれに相当するものをもっていない。この総動員計画とは徴兵制度とは違う。日本の場合は総動員計画のない徴兵制度でむしろ特異である。そしてこの4国の徴兵制度は建前として18歳以上男子全員が対象で甲種合格で戸主を除くなどという余裕は全くない。(ロシアは例外がある;またロシア・オーストリアは制度を厳格に運用できていない。)

18歳以上の男子のほぼ全員が2年程度の訓練を受けその後予備役に編入となる。大学生のうち有志は軍事教育を受け予備士官となり名簿に記載される。訓練後希望すれば下士官となりまたその後も予備役下士官となった。ところが平時は海外領土部隊を除き各師団とも将校・下士官中心で充足されていない。これを動員下令を以って予備役等を召集し一挙に戦時編制にするのが動員だ。

日本の旧陸軍の場合平時でも充足連隊を混成し一応そのままの形で動けるようになっていた。要するに総動員というのは市民生活を根本から変える大イベントであり、実際行われた規模で第1次大戦以前全く試みられていない。演習もなりたたない。

現在でも仏・露は総動員計画を形だけにせよ保有している。また日・英・米は大陸の陸軍に匹敵する規模の総動員の必要が認められなかった。これは地勢的に島国のためだ。島国は敵に動員をかけられても、スピードを競う必要がない。

大陸陸軍4国独・仏・墺・露は総動員となれば予備役を役所に総動員令を掲示することによって召集する。というより日常訓練で予備役は総動員となれば、どこへ召集されるか承知していた。駐屯地から集結地まで特別列車が準備された。このために総動員となるとドイツでは延べ100万台以上の鉄道車両が必要だった。

ベルヒトルトはここのところの事情が最後まで分からなかったふしがある。少なくとも政治家の要請に応じた戦争を自国ができると最後まで錯覚していた。

ハプスブルグ帝国は病んでいた。原因はその帝国そのものにあった。帝国内に11の民族(ユダヤ民族を入れれば12)を抱え、指導民族としてドイツ・ハンガリー(マジャール)両民族が当る体制だった。しかしドイツ民族の国民国家として隣にドイツ帝国が存在し、かなりの帝国内のドイツ人はドイツ帝国との合邦を望んでいた。

さらには人口の60パーセントを占めたのはスラブ系諸族で分離独立を狙っていた。ベルヒトルトはこの事件でセルビアを吸収しようとはあまり考えなかった。それは、ただ帝国内でスラブ人の比率を上げるに過ぎなかった。また内陸にあり諸民族が混在するその土地はいかにも魅力がなかった。もちろん帝国として民族浄化という手段はとれない。目的としてベルヒトルトに残されたのはセルビアを辱めることだけだった。しかし他国に恥辱を与えるというので外交を行っても意味はなく、ここに戦火に訴えるという選択肢がうまれてくる。

このベルヒトルトは初めからオーストリア・セルビア局地戦争をねらっていたようだ。有能な官僚として次に、ハンガリー首相ティサに相談した。ティサの意見は局地戦争にも反対でドイツの了解をとれと言うものだった。この提案はベルヒトルトにとり渡りに船だった。なにしろ責任がドイツに移行すると。

ティサ

1914年7月5日、ドイツ帝国皇帝、ウィルヘルム二世はポツダム(ベルリンの近郊)でオーストリア大使に謁見した。ウイルヘルム二世の反応は強硬で、オーストリアはセルビアに対し断固たる態度をとるべきで、ロシアが介入すればドイツが面倒をみる、とまで言った。

これは後世からみれば暴力的かつ利他的な印象だが大国の国王に準ずる人間がテロに会ったとすれば、無理のない反応だといえた。しかし立憲君主であるウィルヘルム二世は午後、首相のベートマン・ホルベークに相談した。いままでウィルヘルム二世の強硬外交にしばしば諫言を行ってきたベートマンが何故か皇帝より強硬な対セルビア策を主張した。

6年前1908年、小さな紛争が露・墺間であった。すなわちコンスタンチノープルの自由通航権を露に認める、(墺がトルコに対して圧力をかける)代わりに墺がボスニア州とヘルツェゴビナ州を併合すること、を露が認めるという内容の秘密協約を結んだ。

ところが墺はいつもやる得意技であるが、両州を併合しただけで、自由通行権の方は履行しなかった。このため露は激昂したが独は墺側にたち軍事圧力をかけ、露は屈服のやむなきに追い込まれた。日露戦争の直後で露に対抗手段はなかったのである。この事件はロシア側の判断にも影を落とすことになる。

ボスニア危機

ベートマンは今回もドイツの圧力でロシアは簡単におれると考えた。ベートマンはピアノでベートーヴェンを演奏するなど当代の知識人として評価されていた。たしかにベルヒトルトの競馬観戦や英外相グレイの魚釣りと比較すれば高尚にみえる。ドイツの方針はオーストリアの強硬姿勢に無条件に支持する、言わば白地小切手を与えることに決した。

しかしベートマンはまさかあのオーストリアがその小切手を呈示するとは考えていなかった。
ベルヒトルドはだんだん不安になってきた。確かに一戦を交える事は覚悟していたものの誰かが止める事も予期していた、また期待もしていたのだ。

ベルヒトルトはともあれ時間をかけることにした。次の対セルビア政府への外交手段はなんと約15日かけた7月23日の裁判権の介入を含む最後通牒の手交だった。このタイミングはフランス大統領ポアンカレのペテルブルグ訪問終了に合わせ、内容は実質、宣戦布告を行うためのものだった。

しかし7月5日ではフランツ・ヨゼフ皇帝の了解も得られていないし、また軍の動員は全く予定も内容もたっていなかった。すなわちわがベルヒトルトは外交手段、たぶんに脅迫手段として宣戦布告を利用したのだ。

オーストリアの内側では

ただこの男は自分の判断に責任をもつことがない。すなわちどのような案、計画についてすべて反対、もしくは賛否を明らかにしていない。この恐るべき恫喝外交で何を目論んだか、局地戦争、欧州全面戦争、または脅迫による外交解決か、謎である。いちばんありうるのは、自分のやったことの結果を意図して見ないようにしたのではないか。ただ自分を強い男と見せたいために。とにかく、ここで第二の引き金がひかれた。

サンクトペテルブルグの対応

ロシア皇帝にしてギリシャ正教の守護者、ニコライ二世は、フランス大統領ポアンカレがその戦艦フランスでクロンシュタット軍港を去った時、傍らの駐ロシア、フランス大使パレオログにこう語った。「サラェボの事件が拡大することはない。ウィルヘルム二世はああ見えて慎重だし、フランツ・ヨゼフ皇帝はただ今のままで何も変わらずに死にたいと思っているだけですよ」と。

ニコライ二世は唯一の公子アレクセイが血友病という難病で生まれてきたことを最大の悩みにしており、この時も公子は直前に転倒し重度の痛みのため出席できなかった。しかもこの事情は公表することができなかったため、余計に心労となっていた。

ニコライ二世と皇太子アレクセイ

ニコライ二世はこの時点で他の4強国の君主、首脳にくらべ最も権力が集中していたといえる。逆に言えば他4国は権力が分散していたのである。とくに政治と軍事が英国を除けば分離していた。第2次大戦では独、露、英、米ともほぼ唯一人の首脳に権力が集中していたのに比べると奇異な感じを与える。もっとも日本のみ例外であるが。

ニコライ二世は信仰心に篤く、謙虚で、信義を重んじ、また4ヶ国語を巧みに操るなど平均以上の知力はあったと考えられる。しかし事蹟をみると奇妙に洞察力にかける、即ちある事から次の結果を導く力に欠けているのである。これが最後に彼および全家族の生命が、ボルシェビキに奪われる直接の原因となった。

7月23日まで、ニコライ二世は自ら動くことは全くしていない。同盟国のフランスに対してもなんらの相談もしなかった。そして8月1日のドイツによる宣戦布告まで事実上一人で、その後の世界史の殆どに影響を及ぼす決定をおこなった。

オーストリアのセルビアに対する最後通諜を受けロシア外相サゾーノフは早速対応案に取り掛かった。

1. セルビアに軍事介入を約束
2. オーストリアに対し直接交渉
3. オーストリアに対して部分動員

乃至はこの3点を組み合わせることが考えられた。しかし1.についてはセルビアに対し義務を負いすぎている、2.については2国間交渉を複雑化させるとの弱点があり結局3.に絞られた。

ニコライ二世は何もしないと言うのは余りにも対オーストリアで弱気にすぎると思った。1908年の屈辱が頭を離れなかったのだ。         

しかしここでサゾーノフとニコライ二世は決定的なミスをおかす。軍部に相談しなかった。当時ロシアの軍部は二派に別れた派閥が存在した。スコムリノフ陸軍大臣派と宮廷軍人派である。このため意思疎通が困難だった。

ニコライ二世がオーストリアにたいする部分動員を決定すると、軍部とくにヤヌシュケビッチ陸軍総参謀長は部分動員をすると全面動員を著しく遅らせ取り返しの付かない不利を招くと主張した。ロシア内部ではこの論争が7月30日まで続く。

パレオログ日記

ニコライ二世はサゾーノフとヤヌシュケビッチが一致して全面動員を主張しても、最後に至るまで部分動員を譲らなかった。しかし最後まで反対はできずそして7月31日に全面動員を決した。そしてドイツ皇帝ウィルヘルム二世に軍を動員しても絶対にロシアから攻撃することはないと電報を送った。すなわちロシアの動員は戦争開始を意図したものではなかった。

しかしドイツはなんの躊躇もなく8月1日に総動員を発令し翌日宣戦布告をロシアにおこなった。
この間のロシアの対応は理解できるが、ドイツの作戦方針すなわちシュリーフェンプランを念頭におくと、洞察力が欠落していたと言わざるをえない。このシュリーフェンプランは既に漏洩されており骨子は知られていた。ロシア参謀本部は二正面作戦となったドイツが始めにフランスを攻撃する事はある程度承知していた。それに従った作戦計画:第19号計画もあった。

ただこのシュリーフェンプランの鍵はロシアの動員速度が遅いことにあった。ゆえにロシアの動員を放置すれば、計画が成り立たなくなる。このためロシアが動員すれば自動的に、ドイツはフランスに飛び込んでしまう。ここの所の理解がニコライ二世に欠けていた。

当然軍の一部は承知していたろうが、当初自国に49日間本格的攻撃がなくまた場合によれば英国も味方になるとなれば短期間の勝利が可能と判断した公算が強い。またどのヨーロッパの将軍達も「攻撃は最大の防御なり」と信じていた。もっとも動員が宣戦布告を意味する、を認めれば動員が外交手段として使えなくなり、大国ロシアとして認める事はできなかっただろう。

ロシアの誤算

このロシアの動員決定(戦争開始のつもりではない)が第三の引き金を引いた。

ベルリンの決定

7月5日にオーストリアに白地小切手をあたえた後、ウィルヘルム二世はノルウェー沖に休暇旅行に計画どおりでかけた。陸軍参謀総長小モルトケ(普仏戦争に勝利をもたらした大モルトケの甥)もおなじく休暇でボヘミアのカールスバードに温泉旅行に行っていてベルリンには不在だった。二人ともオーストリアの最後通諜をみてベルリンに引き返すことになる。

ウィルヘルム二世は戦後、最後通牒の内容は船上でノルウェーの新聞で知ったと書いているが信じるにたる。7月23日の最後通牒はまともな独立国であれば、今日の目でみても承伏できるものではない。だが、セルビアはオーストリア官憲の司法への関与を除いてすなわち条件付きで受諾するに至る。ウィルヘルム二世はこれで落着だと主張した。この後も独・墺・露ともおなじであるが、全ての政治家・将軍より君主の判断のほうがまともなのである。

ウィルヘルム二世の走り書き

これら三国はいずれも議会のある君主国であった。しかし戦時は統帥権が独立(戦間期の日本における統帥権の独立は平時の軍部による倒閣権を主張しておりやや極端である。)していた。つまり戦争をはじめるのは政治家だがその後はすべて将軍だと。政治家にしても議会より君主に責任を負っていた。すなわち失敗すれば君主により馘首された。

だが君主はめったにクビにしたりしないから政治家・軍人とも終身雇用の官僚なのである。多くは身分と試験と身びいきで選ばれた。そして官僚であるがゆえに自分の責任分野にのみ目がいく。国や国民に対する考慮は二の次になる。もっとも口では愛国心のかたまりで自分の責任を果たす事がまさにそれだ、と言うのである。
これでは自国民の支持がすべてと確信している君主の判断が知的能力を超えてまともなのは首肯できる。

ベルヒトルドはセルビアの回答が条件付きと知るや否や7月25日国交断絶に踏み切った。当然ウィルヘルム二世は落着と思ったところで、この強硬措置であるから驚愕するが、彼には事後報告しかいかないのだった。理由はひどく単純でウィルヘルム二世の住むポツダムとベルリンの間に電話がなかった。皇帝が意見をのべても、前提となる情勢は常に1日先を走っていた。

ベートマン=ホルベーク

また奇妙なことにドイツ首相ベートマンは既にオーストリア・セルビアの局地戦争を指向していた。一方ベルヒトルドは宣戦を布告しても戦争にはならないと考えていた。ベートマンさすがにそこまで甘くはなかった。しかしロシアの介入は最後まで予想しなかったし場合によれば局地戦争へドイツの関与も覚悟していた。

ともあれベートマンはベルヒトルドの暴力外交を支持した。対セルビア国交断絶の日から、イギリスのグレイ外相による5大国による国際会議の開催の提案など仲裁案が独・墺・露をかけめぐったが、ベートマンの拒絶にあった。

オーストリアのコンラート参謀総長も動員には16日はかかるため早期の宣戦布告に反対した。しかしベートマンの支持をえたベルヒトルトは、躊躇するフランツ・ヨゼフ皇帝にすでに両軍は交戦中とうそをつき、動員下令の允裁をとるのに成功する。

7月28日にオーストリアはセルビアに対して宣戦布告した。セルビアは既に首都を南部のニッシュに移動させておりベオグラードはオープンシティとしていたにもかかわらず、オーストリアの河川砲艦はベオグラードへの砲撃を開始した。

これはヨーロッパ内の大国の宣戦布告としては44年ぶりの事であり衝撃を巻き起こすのに十分だった。この段階でウィルヘルム二世はベオグラード担保案をだす。

これはオーストリアが一旦ベオグラードを保障占領し、オーストリア側要求の実行の担保とすると言うものだ。これは当時の外交状況では恐らく最良の案と思われた。既にベオグラードはオープンシティ(無防備都市:戦時国際法で降伏した都市と見なされた。)を宣言されオーストリアは無害で占領できることが保証されていた。ベートマンも賛成にまわった。7月31日までこの案を中軸に検討されたが、突然あらたな要素、小モルトケが登場する。

既にロシアの総動員の噂さが流れ、神経は限界に達していた。小モルトケは1897年に原案が作られていたシュリーフェン・プランを多少手直ししたシュリーフェンプラン(改)を作っていた。

しかも驚くべき怠慢だがどのような外交・内国政治状況でもこれ一本なのである。シュリーフェンプランはベルギーの中立侵犯を予定しているからイギリスの参戦を招くのは必至と予想された。この不利を見てかつ紛争はオーストリアとロシアに限定されていたにもかかわらず小モルトケは作戦の代案も考えなかった。

シュリーフェンプランを前提とする限り動員の一日の遅れは致命的となりえた。7月29日までに参謀本部限りの総動員の予備通知、ベルギーへの無害通行の要求書の作成などを開始した。小モルトケは局地戦争ではなくヨーロッパ戦争を準備し始めた。3大国(露・仏・英)を敵にまわし味方はオーストリアだけの・・・。

そして7月30日午後、ロシアの総動員が伝えられると午前中ベートマンはベオグラード担保案でウィーンと交渉していたが、最早断念し、戦争準備に移ったのだった。7月31日ドイツはロシアに対し12時間の期限付きの最後通牒をおくり翌8月1日ロシアは拒絶し、第1次大戦が開始された。

小モルトケ

しかしこの日、ウィルヘルム二世と小モルトケの間で小さないさかいがあった。駐英大使からの連絡で英外相グレイの見解として、もしドイツがフランスを攻撃せずすなわちロシアのみ攻撃すればイギリスは中立を守り、フランスのドイツへの攻撃も控えさせる、というのである。

ウィルヘルム二世はすぐさま小モルトケをよび、西部での攻撃を中止し東部に軍を集中できないか、と提案した。小モルトケはそんな事をすれば総動員と全作戦は危殆に陥り、案山子の軍隊になると猛然と反対し、回顧録でも最も困難な時期としている。これは君主の独善を、諫言をもって阻止したと自慢しているのだろうが全くナンセンスだ。

ドイツの鉄道軍事総監スターブは15日間ですべて配置変更が可能だと同じく戦後に述懐している。更に大戦中ドイツ軍は最も頻繁に軍隊を東部戦線から西部戦線へまたその逆と移動させかつ成功している唯一の軍隊だ。しかしこれは誤報でグレイはもしドイツがロシアを攻撃せねば、と言ったことが判明し、議論は打ち切りとなった。

小モルトケの信念は、シュリーフェンプラン(改)の実行しか二正面戦争を余儀なくされたドイツに勝利の目はなく、更に露仏同盟は強固で動かし難いが戦勝さえ得られれば、その後の外交関係はドイツの随意になる、というものだった。

しかし第1次大戦の結果は全てこの小モルトケの仮説を否定している。
防御に撤していればドイツ軍はほぼ不敗だった。アルザス・ロレーヌを除けば独仏に対立はなかった。そしてフランスはこの問題を武力で解決するつもりはなかった。また戦争終了後のベルサイユ条約はフランスの意志を徹底的に押し付けたものではなかった。だが小モルトケは最後までこれらの点を理解できなかった。 カイザーの署名のある動員下令

クラウゼビッツの有名なテーゼに、戦争は他の手段をもってする政治(外交)の延長である、というのがある。またこれに対しルーデンドルフの、戦時においては勝利のために政治を含む全てが戦争に奉仕しなければならない、との総力戦論がある。とくに前者についてレーニンが支持し共産主義戦争論の基礎となった。後者については昭和の陸海軍青年将校の主張する所となった。小モルトケの見解もこれに近い。

チャーチルは第2次大戦回想録に、アメリカ人が始めオーバーオール・ストラテジック・オブジェクティブ(全般戦略目的と訳すべきか)と言い出しイギリス人はその大仰な英語にびっくりした。しかしその後アメリカ人に従うようになった、と書いた。

結局外交と戦争作戦を統合して考える部局・能力が必要なだけで、縦割り行政しかできない国の中の論争にすぎないのではなかろうか。この場合作戦至上主義者が排されるのは当然だろう。このようにドイツは戦争目的をもたずにヨーロッパ戦争に突入した。そして大戦期間中を通して戦争目的に関して内部で論争を続けた。

第1次大戦の原因は外交交渉の失敗だが、誰も本気にしなかった戦争を現実にしたのは結局、作戦が外交に優先すると考えたドイツ参謀本部とその温めたシュリーフェンプラン(改)にある。また根底には経験論を受付けないドイツ式演繹主義があるのではないか。
8月2日にドイツ軍はルクセンブルグ国境を越えた。同時にベルギーに無害通行権を要求した。また形だけの口実(ニュルンベルグへの空襲)でフランスに対し宣戦を布告した。

イギリスは8月1日閣議を開催し、対応策を検討したが、ただちに参戦することは否決された。しかし、ドイツ軍のベルギー中立侵犯をみて一変し8月5日イギリスからドイツに宣戦を布告した。

1914年(大正3年)8月3日付け東京日日新聞

イギリスと日本の参戦

外相のグレイはドイツのロシアへの宣戦布告の際すでにイギリスが仏露側にたって参戦せねばならないと考えていた。しかし閣議や下院では客観的な説明に終始した。そしてグレイによればベルギーの中立侵犯は問題を簡単にした、ということになる。 グレイ

グレイ外相の議会演説

 いままで宣戦布告は全て独墺側から発せられていたが、逆となったのはイギリスが始めてである。イギリスは自国に対する脅威がなく戦争を開始した訳で、この点では一番理想に燃えたとも言えなくはなかった。従って戦争が長期化して一番幻滅感を抱いたのもイギリスだった。

哀れにも欧州戦争をする気のなかったオーストリアはドイツに促され、8月6日にロシアに宣戦する。英仏への宣戦はさらに遅れ8月22日だった。

ここで更に戦争が極東に飛び火する。日本が8月15日に青島の武装解除を要求する最後通諜を送ったうえ8月23日ドイツに宣戦を布告した。日本は当時日英同盟下にあり極東では攻守同盟の形となっていた。更に日露協約と日仏協約を結んでおり事実上三国協商の枠のなかにあった。

日本の参戦について特にイギリス人から自国側より強力に依頼しなかったとする論調がある。しかしこれは単純なイギリス的傲慢というべきだろう。大戦争というものは一つの戦線で決定されるものではない。また一つの戦闘ですら全戦線からの影響が免れない。仮に日本が中立を維持したとしたならばロシアは全兵力を欧州に集中できただろうか。仏露はむしろ祈るような気持ちで日本の参戦を願っていた。

当時イギリスの極東艦隊でドイツのシュペー太平洋艦隊に対抗できたのは豪州艦のオーストラリアしかなかった。インド洋・太平洋を水上艦で通商破壊戦に対抗するためには日本の参戦が不可欠だった。更に日本の事情として補助艦艇を除けば海軍力が危険なほど低下していた。

日露戦争の結果ロシアの捕獲艦を手に入れた。この量は当時の稼動艦隊の総量に匹敵した。しかしトン数は増えたがド級戦艦はその中になかった。また誤った建艦思想で建造された摂津・河内・安芸・薩摩の4隻はプリ・ド級艦というべき中間種の戦艦で、当然ド級戦艦に対抗できなかった。要するにドイツが数隻ド級戦艦を極東に回航すれば対抗しうる主力艦は皆無だった。第1次大戦直前イギリスで竣工した金剛が本格的ド級巡洋戦艦で、開戦時はド級と称しうる戦艦は1隻もなかったのである。

日本の海軍戦略上からはイギリスと組む他ない。そして連合国としても日本が直接欧州戦線に参加しなくても自陣営の総戦略予備として脅威をあたえられる。

当時の日本人にとって日清戦争後の三国干渉は遠い話ではなかった。また日本帝国の海外領土は全て剣で入手したもので、ドイツの青島の如きものは許せなかったのかもしれない。ともあれここでもドイツの外交的失敗は否めない。

日本の第1次大戦参加問題

これとは離れて、陸軍がイギリスが日本の参戦に消極的だと後で主張した形跡がある。陸軍の上層部は以前ドイツ陸軍参謀本部と親しい関係にあった。また実権を握る本部付き参謀将校は、ドイツの軽業的作戦に魅力を感じたのだろう。

陸軍は戦後ドイツを中心に欧州戦線の詳細調査を実施した。しかしどの報告も低水準で攻撃精神を強調する程度のものだった。ここにも小モルトケ的作戦美学主義者の活躍の余地がでてくる。劣勢の兵力にもかかわらずおのれの作戦能力で補ったと。初めから劣勢にならぬよう配慮する事は忘れて。

外交官その後



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