高橋直人さんと打越昌弘さんの対談

 昭和60年代の後期から平成の初期にかけて「ナオト時代」を築いた高橋直人(アベ)さんは、ボクシング・ファンの間では今は「伝説のボクサー」に昇華したと言っても過言ではないだろう。高校3年生で全日本バンタム級の新人王を獲得。その翌年、今里光男(トーア・ファイティング)を5回KOに屠り、同級王座を奪取。1階級上のS・バンタム級王者時代は、絶体絶命のピンチからの逆転KOをしばしば演じ、ファンを虜にした「KOアーティスト」だった。
 その高橋さんと同年齢で、彼に激しいライバル意識を抱いていたのが帝拳ジムの打越昌弘さんだった。プロデビューは高橋さんの1年半後だったが、昭和63年2月には園寿和(京拳)を1回TKOに下して全日本S・バンタム級の新人王に。その後も無敗を続けた打越さんが、高橋さんと彼の持つS・バンタム級の王座を賭けて対戦したのが平成元年の10月14日だった。結果は、2回に顎を骨折した打越さんが6回にリングに散った。あれから20年の歳月が経過。その後、二人は曲折を経て無二の親友になるのだが、その二人が今年の11月1日、東京・新宿フェイスで、何と激突することになったのである。無論、ヘッドギアを着けての対戦だが、その試合を前に、二人に多くを語って貰った。
(聞き手・構成 丸山幸一)

――もう、20年も経つのだね。
高橋 そうなんです。あの試合の入場者が3500人。今でも後楽園ホールの記録なんですよ。
――二人の対戦がそれだけ、話題になったわけだ。確かテレビも生中継だったんじゃないかな。ところで、今度の対戦はどういう経緯で決まったの?
打越 実は俺が言い出した話なんです。俺達、40歳を過ぎたばかりですけど、10年前じゃ、早すぎた。50歳では遅すぎる。で、今、この時期がベストじゃないかと・・。
――数年前から元プロや、アマのボクシング経験者で、今も試合をしてみたいという人間同士を戦わせる「おやじファイト」が盛んになっているけど、打越君もその風潮に触発された?
打越 いや、そんなんじゃないんです。俺、ナオトとは今は親しく付き合っているけど、俺のプロ人生って、実質的にあの試合で終わっているんです。で、いつか、再びグローブを交えたい気持ちをずっと引きずっていた。ナオトに相談したら「俺もやりたい」ということになって・・。それでナオトのつてで、ちゃんと した会場で入場料を取ってやれることになったんです。
――ナオト君は打越君とやる前の2試合で日本のボクシング史に残る壮絶な試合を演じています。平成元年1月に世界ランカーでもあった日本S・バンタム級王者のマーク堀越(八戸帝拳)に挑戦。ダウンの応酬の末、9回、KO負けのピンチから一転して大逆転のKOで2冠を達成した試合は、今でも私の記憶に昨日のことのように残っています。その次がタイ王者だったノリ・ジョッキージム戦。これも、最初にダウンを喫しながら、3回、右のカウンターで一気に決着を着けた。その2試合の後が打越君との初防衛戦だった。
高橋 あの二人と戦って感じたのはパンチの質の違い。マークのパンチは重いんです。そういうパンチをもろに食うと記憶が飛んでしまう。だから、覚えているのは10カウントが数えられて俺が勝ったシーンだけ。ノリは1発のパワーはないけど、切れがある。だから、2回にノリの右でダウンしたけど、記憶も鮮明ですぐ起き上がることが出来たんです。
――そういう試合と比べて、打越戦は、結果的にナオト君の一方的な内容に終ったけど、ナオト君自身は彼をどんなボクサーだと思っていたの?
高橋 僕はよく(後に日本S・バンタム級王者になる)横田(広明=大川)さんとスパーをしたんだけど、凄くやり辛い人。その横田さんと2度やって1勝1分。ドローの方は東日本新人王戦の決勝で勝者扱いで、実質勝っている。しかも戦績が12戦して無敗(6KO)。一目も2目も置いて試合に臨みました。
――打越君は当時、一世を風靡していたナオト君のことをどう捕らえていたの?
打越 負けるとは思っていませんでした。俺、ナオトより才能あると自信持っていましたから。ナオトは相手のパンチに合わせるのは巧いけど、合わさせなければいいんですから。ナオトに勝つのは俺しかいない、そう考えていました。とにかく、試合の日が楽しみでした。
――にも拘らず試合の明暗をはっきり分けたのは何が原因だったのだろう。
打越 僕が一番警戒していたのは、多くの選手を倒してきたナオトの右。さっきも言ったようにその右を外す自信があったんです。ところが、試合が始まってナオトが打ってきた左ジャブ。これが速射砲のように速くて、しかも普通のボクサーの右以上に強い。そのジャブを外すことに気がいってしまったとき、あの右を 食った。それが2回でした。その瞬間、顎が折れたのが分かりました。
――それでも、試合を投げなかった。
打越 力が入らないのは分かっているんですが、でも10回終了のゴング聞くまで、やりたい、その気持ちで続けました。
高橋 2ラウンドで顎折った後の打越が凄かった。口を閉じられないから血が噴き出してくる。その血を打越は飲みながら向かってくるんです。おっかなかったですよ。ただ、回を追うごとに目が死んでいきましたね。
打越 僕はその13ヵ月後に再起して、平成6年8月の韓国選手との試合まで7戦やって引退したんですけど、最後の試合は勝っていながら、顔面を骨折してのTKO負け。だから実際にはナオトにしか負けていない。そう考えると燻るものが残ってしまって・・。
――現役当時はナオト君に憎しみを抱いていたそうですね。それがまた何が切っ掛けで親友になったの?
打越 その前に僕の気持ちも色々移り変わりました。まず、平成3年1月12日のナオトのラスト・ファイト。9回にナオトは韓国の朴にKOされるでしょう。あのときほど、悔しい思いしたことなかった。俺は何が何でもナオトともう一度やりたかった。それなのに、ナオトが無名の韓国選手に倒されて起き上がれないでいる。思わず俺、叫びましたよ。「バカ!何やっている」って。周りにいた人は俺のことひどい人間だと思った でしょうね。でも俺は悔しくて仕方なかった。その気持ちが言わせた言葉でした。
――ナオト君がKO負けした後も後楽園ホールを埋め尽くした観客は誰一人、帰ろうとしなかった。そしてナオト君が担架に運ばれていくのを誰も声も発しないで静かに見守った。そうやって、この一時代を築き上げた天才ボクサーの最後を見取ったのでしたね。私も長いことボクシングを見てきたけど、あんな光景は初 めてでした。
高橋 現役時代のことに戻るけど、打越が俺に(憎しみのような)そんな感情抱いているとは思わなかった。だから、俺、打越が入院していたとき、見舞いに行っているんですよ。ボクシングって命賭けて闘うスポーツだしね。その後も友達になりたくて・・。で、後楽園ホールで出会ったとき声掛けようと思ったら全く 拒否されました(笑)。
(引退後、高橋さんはメンテナンス会社の勤務を経て、26歳でボクシング漫画『はじめの一歩』の作者である森川ジョージ氏が経営するJBジム(現在はJB SPORTS)の会長に。昨年春、会長職を辞し、今年の4月から東京・瑞江に本社があるビル等の管理を取り仕切る『株式会社 カイム美装』の社員に。打越さんは幾つかの薬品販売会社を歴任した後、『株式会社 パパス』の店舗運営部のスーパーアドバイザーとして精力的な毎日を送っている)
――話を戻します。そんな二人を結びつけた切っ掛けは?
高橋 いつだったか、後楽園ホールでJBジムの試合があった夜、外に出ると、東京ドームで試合観戦していた打越とばったり会ったんです。
打越 あのときは今、巨人の監督をしている原辰徳が代打でタイムリー打って、浮き浮きした気分だったんです。そんなとき、ナオトと出会ったので「おー!」という感じで、初めてまともに話をしました。
――では原が打たなかったら、今の関係はなかった?
打越 (笑いながら)そんなことはなかったでしょう。やはり、ナオトのラストファイトを見て、自分のことのように悔しい思いを抱いたことが大きかったと思うんです。
高橋 それからしばらくして、打越にJBジムのトレーナーを務めてもらったこともあったんです。彼の仕事が忙しくなるまでですけど。
打越 僕だけでなく、ナオトも打越というボクサーを認めてくれていた。それが根底にあったから今の関係を築けたんじゃないかな。
――そして、今では無二の親友。で、二人の対戦の話ですが?
打越 その興行にはコウジ有澤君とか随分、色んな人も出るようですよ。
高橋 で、僕らがメーンイベントです。
――20年ぶりに対戦することの意義は何?
打越 ヘッドギアつけて大きなグローブつけて闘うといっても、俺なりに「落とし前」をつける試合。
高橋 これ、二人にとって最初で最後のスパー。希少価値はありますよ。今、打越より相当重いので減量してベストコンディションで臨みます。
――最後に今の従事している会社のPRをどうぞ。
高橋 ビルの管理会社で、ビル・トラブルに対処するのが仕事内容。そのために人材を派遣したり・・。人材が足りないときは俺も出向きます。それに以前、メンテナンス会社でビルの窓ガラス磨きをやっていたので、それが今、凄く役に立つ。とにかく『株式会社 カイム美装』を宜しく!
打越 都内にあるドラッグ店の中で280人の社員を統率しています。上司に恵まれています。特に取次店の清末悦次部長、本社の山本賀一部長には本当によくして貰っています。

プロフィール
高橋ナオト 
昭和42年11月17日。東京都・調布市出身。昭和60年2月にプロデビュー。翌年3月、高校在学中に全日本バンタム級新人王を獲得。61年、島袋忠司(石川)を判定に下し、第1回A級トーナメントに優勝。62年2月今里光男を5回KOに屠り日本バンタム級王者に。平成元年1月、マーク堀越を9回KOに下し、日本S・バンタム級王座を獲得。その王座は打越戦後、返上。世界戦に備えたが、ノリとの再戦に破れたことで世界挑戦は日の目を見るはなかった。全戦積は23戦19勝(14KO)4敗。最高位はWBA世界S・バンタム級2位。

打越昌弘
昭和43年1月14日。東京都・大田区池上出身。61年10月デビュー。63年2月、全日本S・バンタム級新人王獲得。平成元年1月、日本同級王者の高橋ナオトに挑戦するも6回KO負け。平成6年8月、李斗烈に8回TKO負けした試合を最後に引退。全戦績は20戦17勝(11KO)2敗1分。



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アリの素顔に接することが出来た11日間

●丸山 幸一 (まるやま こういち)
1947年東京都台東区出身。72年早稲田大学第一文学部を卒業後、今はなき東京タイムズ社に入社。74年から運動部でボクシング、競馬、高校野球、ゴルフ、プロ野球のパ・リーグ等を担当。81年同新聞社を退社。以後フリーランスに。リライター、映画ライター等を経て85年からボクシングを主な分野として、共同通信社、デイリースポーツ社、ボクシング・マガジン等に原稿を掲載。趣味は酒

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