筑紫翁がネットを嘲笑した当時、マスメディアのネット批判には、なんとも言えないイヤな響きがあった。
筑紫さんの口吻のうちには、専門のジャーナリスト教育を受けていない者に対する侮蔑があり、筋目のマスメディアに属していない者が社会に向けて発言することに対する嘲笑があり、なにより「発言者」と「聴衆」が豁然と分かれていた時代に長らくオピニオンリーダーの地位に在った者特有の奢りがあった。
しかも、マスメディアの人間は、批評する側に立っているくせに(あるいはそれゆえに)、他人の評言には無防備で、ひどく傷つきやすかった。
そこが、われわれパンピーからすれば、滑稽に感じられた。
「えっ? もしかして、てっちゃんはスネちゃったのか?」
テレビの有名人も同じだ。
普段、一般人の憧れの視線の中で暮らし、スタジオのお世辞の雨を呼吸している彼らは、ちょっとした非難にたやすく激高する。
ぜひわかってほしいのは、ネットの中には有名人のみなさんに対する特別な悪意があるわけではない、ということだ。
彼らは心の内にあることを、無遠慮に書いているだけなのだ。
ただ、現実社会に生きている人間は、ふつう、他人の率直な評言を聞く機会を持っていない。
陰口は、陰で言って楽しむためのもので、本人の前でそれを明言する日本人はとてもとても限られているからだ。
しかし、ネットにアップされた陰口は、うっかりすると本人の目に入ってしまう。
有名人の場合は特にその危険性が高い。
私のような、プチ半端有名人でさえ、
「オダジマは、なんだかヤバい感じで太って来てるな」
「それにハゲてきてるし」
ぐらいな文字は、時には目にしなければならない。
これは、なかなかキツい体験だ。
おそらく、何十年間もの間「お会いできて光栄です」「うわあ、本物だああ」みたいな、そういうお世辞ばかり聞いてきた村上龍とかみのもんたぐらいな立場の人間が、
「氏ね」
とか書かれているのを見たら、そりゃショックを受けるだろう。その気持ちはわかる。
が、書き込んでいる側は、ぜひ氏んでほしくてそう書いているのではない。
テレビ司会者のような存在に対して、視聴者が辛辣であるのは、なにもネットができて以来の新傾向ではない。
私が高校生だった当時から、放課後の高校生は、既に、どうしようもなく残酷だった。
「Sスケって、足の裏みたいな顔してるよな」
「ははは。きっとそういう匂いもしてると思うぞ。テレビじゃわからんけど」
ただ、われわれのそうした辛辣な会話は、せいぜい教室の裏黒板に書かれるだけで、全世界に発信されなかった。それだけの違いだ。
現在、みの氏に対して殺意に似た暴言を弄している彼らとて、まさか本人が読むとは思っていない。だからこそ、放課後の高校生と同じ気分で、自らの毒舌を楽しんでいる、それだけのことなのだ。
ともあれ、インターネットの誕生以来、ネット言論に対して、マスメディアの側から為されてきた攻撃は、一種の防衛機制であり、過剰反応であり、彼らが世間に対してやってきたことの裏返しに過ぎなかった。だから、ざまあみろ、で片付けて差し支えない。そう私は考えていた。
が、状況は変わりつつある。
ネット言論は、なんだか非常にやっかいな化け物に成長しつつある。
この点は、筑紫翁が言った通りになりつつある。
ただ、ポイントは違う。
ネット言論の危険性は、それが無邪気な便所の落書きであった時代を終えたところから始まっている。
どういうことなのかというと、ネット上の情報がネットワーカー個々人の個人的な悪意や、毒舌や、怨念を反映している分には、それはたいして有害ではなかった(まあ、それでも十分に不愉快ではあるのだが)ということだ。
ネット情報が危険になってきたのは、それが、商業的ないしは政治的な意図を抱いた人々によって、組織的かつ周到に利用されつつあるからだ。
もともとネットは、やっかいなおもちゃだった。
たとえば、日本プロ野球機構が、野球のオールスターのファン投票の手段として、ネット投票を大々的に導入していた時代があった。
これは、大失敗に終わった。