であるから、2ちゃんねるでは、スレッド数が50を超えた頃には、「新聞は事態を黙殺している」「テレビは報道から逃げている」と、2ちゃんねるとマスメディアの温度差について言及する意見が目立つようになっていた。
8月の20日過ぎには、今度は、麻生総理の失言(学生を集めたイベントで、学生の質問に対して「金が無いなら結婚はしない方が良い」と答えた)をとらえたスレッドが、67まで数を伸ばした。
このスレッドでも事情は同じで、麻生非難派と擁護派の書き込みは、途中からほとんど同じセリフのコピペに終始するようになる。この場合も、「スレッド数の増大」が自己目的化し、「祭り」は、もっぱら「祭りの拡大」のために開催されている状態になった。
無論、ずっと昔から、2ちゃんねるは、プロパガンダの舞台だったし、商品宣伝の最前線でもあれば、悪意あるゴシップの温床でもあった。「祭り」にしても、一般人の関心とはまるで別なところで起こっているものが少なくなかった。
たとえば、「左翼対右翼」、「サカ豚(サッカー豚→狂信的サッカーサポ)vs焼き豚(野球豚→カルト的野球ファン)」、「アンチダウンタウン」VS「アンチとんねるず」、「SMAP婆VS嵐婆」、「ジャニオタVSアンチジャニ」といった、不毛な対立を孕んだタイプの論争は、祭りになりやすい。対立する陣営の一方が大量書き込みをしてきた場合、もう一方の陣営が黙っていると、その場で「負け」が決定してしまうからだ。で、いきおい、一般人にはどうでも良いような不毛な論争に、とんでもない数の書き込みが蝟集することになり、そうしたスレッドは、無責任な煽りや野次馬を含めて、さらに繁盛することになる。
公の場所では口に出せない感情や、マスメディアが報じないあれこれが人気を集め、差別、偏見、暴力およびエログロナンセンスないしはロリータ趣味やSMのような変態趣味が注目を引く。でもって、人種や民族への罵倒が同志を糾合し、怒りや嫉妬や恨みみたいな、そうしたネガティブな情報が客を呼ぶ傾向が顕著になってもいた。
とはいえ、どんなに荒れているように見えても、全体から見れば、その種のネガティブな祭りは、やはり圧倒的な少数ではあったのだ。
それが、今回のプロパガンダ合戦を通じて、徐々に占有率を高めてきている。私にはどうしてもそう思える。
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2ちゃんねるの世論は、不思議なことに、総アクセス数が増えるにつれて、一般と遊離してきている。
私が個人的に抱いている感じでは、ずっと昔、2ちゃんねるがまだオタクの巣窟と呼ばれ、引きこもりやニートのメディアと見なされていた時代の方が、むしろプレーンなカタチで世論を反映していた気がするほどだ。
たとえば、私が自分のホームページを始めたころは、2ちゃんねるは、まだ一般人には敷居の高いメディアだった(2ちゃんねる開設は1999年5月)。なにしろ、インターネットに常時接続でぶら下がっている人間の数自体が、圧倒的に少なかったわけだし。
だから、当時の2ちゃんねるは、今と比べてずっとオタク寄りだった。アニメやコンピュータに寄り添った話題の多い場所でもあった。
が、それはそれで世論をビビッドに反映しているところもあって、私自身、芸能ニュースやタレントの話題性を判断する際には、2ちゃんねるのスレッド消費スピードを参考にしていた。いまにして思えば、不見識だったかもしれないが。
が、ここ数年、2ちゃんねるはおかしい。
出入りする人間の数が増えて、客層もずっと幅広くなったはずなのに、話題は、むしろ偏ってきている。
簡単に言えば、2ちゃんねるは、ある時期から、プロパガンダの場所になったということだ。
今回、選挙をめぐる騒動を通じて、2ちゃんねるが進んでいる方向は、ある程度はっきりした、と私は考えている。
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故筑紫哲也氏が、ネット言論を評して「便所の落書き」と言った時、ネットワーカーを自認していた私は、大いに反発したものだった。
「オレらの言論が便所の落書きだというのなら、あんたは便所そのものじゃないか」
と。
「オレたちは、確かに便所の壁に言葉を書き連ねている通りすがりの素人かもしれない。でも、あなたたちが自分たち専用の器を通じて専用の管の中に流し込んでいるアレは、いったいどういう素性の言論なんだ?」
もちろん、当時と現在では、事情が違う。
ネット言論に対するマスメディアの側からの攻撃の質も変わってきている。