加藤秀俊 著作データベース

引越しの文化

発行年月: 19700810
掲載  : ガーデンライフ別冊これからの住宅と庭
発行元 : 誠文堂新光社




 社会学者の調査によると、アメリカの平均的中産階級は三年ないし五年おきにその住居を変える勘定になるそうだ。要するに、引越しの頻度がきわめて高いのである。なぜこんなにしばしばアメリカ人は引越しするのか。理由はいろいろある。まず第一に、現代のサラリーマン生活には転勤や転職がつきものだ。職場が変わり、あるいは任地が変わるということは同時に、住居もそれにともなって変わるということを意味する。もしも新しい仕事がまえの仕事よりも給料がよくて魅力のあるものであるならば、アメリカ人はためらいなく動くことを決心する。だから引越する。
 だがそれだけではない。たとえ職場がおなじであっても、経済的条件が変化すればアメリカ人は引越しする。ある郊外の住宅地で行なわれた実体調査の結果をみると、月給が二割ぐらい上昇するとアメリカ人はそれまで住んでいた家を引越し、上等な家に移住する。前の家の月賦の支払いなどはもちろん終わってはいない。支払いの終わらないうちにその家を人手に売りわたして、また新たに頭金を払ってより上等な家に引越ししてしまうのだ。日本でいえば、さしずめおなじ町内ですこしずつ大きな家に移っていくのだ。ちょうど自動車の売買とそれは似ている。数年間使った自動車を下取りにだして、人間は新車に買い変える。それとおなじように、アメリカ人は使いかけの家を下取りにして、新しく家を買うのだ、と考えたらよい。ということは、とりもなおさず、アメリカ人にとって住宅というものは耐久消費財の一つである、ということを意味する。電気洗濯機や掃除機を買い変えるにあたって、われわれはそれほどためらいを感じない。それとおなじようにアメリカ人にとっては住宅も気軽に取り変え可能な性質の商品なのだ。
 事実、そんなふうに考えることはきわめて納得がゆく。なぜならば、経験的にだれでもが知っているように、住宅も決して永遠のものではないからだ。新築のときは、たしかにすみずみまで美しく磨きあげられ、建具もぴっしりとはまっているのだが、五年たち十年たつと建築物はどこかにぐあいの悪いところがでてくる。排水の溝がつまったり、壁に割れ目ができたり、そして建具のたてつけがガタピシになったりする。そして木造家屋の場合だったら、およそ三十年ほどで構造全体がなんとなく不安定になってくる。税法上も、木造家屋の耐用年限は三十年とされているらしい。
 だから明らかに、家屋は耐久消費財なのである。この世界のすべてのものがそうであるように、家屋は永遠の存在ではない。時間がたてば、すこしずついたんでくる。そして何十年かの後には朽ち果てる運命にある。だとすればアメリカ人の住居にたいする考えかたというのは、きわめて合理的でさばさばしている。少なくとも私にとって、そのような住居観はすっきりしていて気持ちがよい。
 そればかりではない。経済的に私は切実に感じるのだが、家庭というものはつねに動きつづけている。家族構成が変わり生活規模が変化する。その変化をよく考えてみると、住居が一生のあいだ一定しているということは、かえって不便なことなのだ。
 たとえば結婚したばかりの若い夫婦にとっては、二DKのアパートはこじんまりしていて快適な空間であろう。とりわけ、夫婦共稼ぎであるような場合だったら、便利なところに小さなアパートを持っているのが、もっとも合理的な住みかただ。しかし、やがて子どもが生まれると、事情はだいぶ変わってくる。二DKでは空間的に狭すぎるし、またアパート生活というのも子どもを育てるためには、かならずしも適切とはいえない。そんなときには、部屋数にゆとりのある小住宅に移り住むことのほうが賢明であろう。
 さらに子どもがふえ、そしてその子どもたちが成長すると、家族はその生活規模において、ピークに達する。家財道具もふえてくるし、また、子どもたちにも独立の部屋をあたえることが望ましい。大邸宅とはいわないまでも、かなり大きな空間が人生のその時期には必要になる。しかし、そのピークを過ぎると、また住居の大きさを縮小してゆくのがどうぜんだ。子どもたちがそれぞれに独立の世帯をもち、残るものは老夫婦だけ、ということになれば、もはや大きな住宅は必要ではない。ふたたび二DKの平穏な生活に戻ることが、よくよく考えてみれば適切かつ合理的なのである。
 人間のライフサイクルの立場から私はこのように考え、かつて、人間は五年に一度住居を変えるのがよいのではないか、という仮説を提出したことがある。じっさい、私のまわりの友人たちを見ていても、およそ五年で人生にはくぎりというものがある。五年ぐらいたってみると、生活規模の変化というものがだれでもわかるものだ。
 この私の仮説、あるいは提案にたいしては多くの人たちが賛成してくれた。賛成してくれたけれども、じっさいには五年おきの引越しをすることは日本ではたいへんにむずかしい。日本人は一般的にいって、アメリカ人とは対照的に、どこかに住みついたらいっこうにそこを離れようとしないのである。
 なぜ日本人は引越しをしないか。まず第一にはいうまでもないことだが、住宅難という一般的理由がある。なにしろ日本の住宅事情、とりわけ都市の住宅事情というのは、幼稚園のいす取りゲームのようなものであって、うかうかしていると自分の住む場所が無くなってしまう。どんな住宅であれ、とにかく住むための空間が手にはいれば、大げさにいえば、そこを死守しなければならないのだ。移動する余裕なんか、すこしもありはしないのである。
 そのうえ、住宅という耐久消費財は、日本人の家計支出からみて想像を絶する高額な商品である。アメリカの場合だと、設備の整った、かなり高級な郊外の独立家屋が、およそ年収の四年ないし五年分で入手できるが、日本で一応快適な独立住宅を手に入れようとすれば、サラリーマンはその一生に稼ぐことのできる給料の半分、ないしは三分の二を、住宅のために投入しなければならない。そんなに高額の投資をすることは常識的に考えてできた相談ではないから、われわれの多くは快適な住居を手に入れることをすでに諦めてしまっている。諦めた人間に引越しをする意志などが生まれるはずがない。だから引越しはしない。
 しかし、そうした経済的事情だけが日本人に引越しをさせない原因である、と考えるのも早計だ。というのは、日本文化のなかでは、人間は住居に関してはたいへん保守的であるように思われるからである。
 すでに他のところで書いたことがあるが、そもそも日本語で「住む」ということばは、「澄む」ということばと、語源的におなじだという。どんな濁った水でもそれを静かにビンだの水盤だののような入れものに入れて放置しておけば、やがて水のなかに含まれている雑物は沈殿し、上のほうに、透きとおったうわずみの水が見えてくる。それが「澄む」ということだ。水がかきまわされて動きまわっていたのでは、いっこうに水は澄まないのである。
 これとおなじように、人間が「住む」ということは、やたらに動きまわることをやめて静かに腰を落ち着ける、ということを意味する。時間が長ければ長いほど「住む」ことは本格化する。本格的に人間が「住む」ためには、長いあいだおなじところに落ちついていなければならないのだ。
 そんなわけで、われわれ日本人は引越しということをしない。われわれの文化のなかには、引越しという観念があまり日常的ではないのである。学生時代には下宿や寮を転々とする若ものたちも、一家を構えると、おおむね保守的になって、てこでも動かなくなってしまう。
 そのことは、ことによるとわれわれがいまだに農業社会の伝統を背負っているということを意味するのかもしれない。農民はいうまでもないことだが土地と運命をともにする人間である。そして多くの場合、農業というのは祖先伝来の田畑と家屋敷によって成り立っている。農業社会では、人間は特定の土地に死ぬまで住みつづけることを宿命づけられているのだ。事実上われわれの日本社会はすでに都市時代に突入している。農業人口はすでに日本の就業人口の二〇パーセント以下になった。日本はすでに農業国家ではないのである。だがそれにもかかわらず、われわれの多くは農業社会的な土地についての観念をひきずっている。そのことがわれわれの土地だの屋敷だのについての保守的な態度を作りあげているとはいえないか。
 じっさい、まえにものべたように、日本における住宅の値段は法外に高い。他の工業製品に関しては世界水準からみてむしろ安いくらいなのだが、土地に関しては外国ではとうてい考えられないほどのばかばかしい値段が通用している。しかし、この土地の値段の高さというのもわれわれが農業社会的な土地にたいする執念深さをもちつづけているからであろう。もともと原価というもののない土地に値段がつくということじたいが、考えてみればおかしなことなのだ。われわれのなかにある農民的な伝統がその土地にたいする欲求を力づけ、その欲求があまりに大きいものだから、土地の値段は天文学的な数字になってしまった。いわば農民的精神によって、われわれ自らの首を締めているのだ。
 私個人の意見では、どちらかといえば住宅に関するかぎり、アメリカ的な考えかたのほうが好きだし納得がゆく。なんの根拠もなしにわずかな面積の土地にしがみついて、そこに一生しばられているという日本的住居観に、わたしは不合理を感じる。工業製品、とりわけ耐久消費財に関して、われわれは必要に応じて古いものを捨て新しいものを使うという習慣を身につけはじめてきた。だが住宅に関しては、われわれの思考は村落共同体の時代で停止してしまっている。その状態から、われわれはいつぬけだすことができるのであろうか。


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