卒業式まで死にません
─女子高生南条あやの日記─


出会い

 私が初めてリストカットと出会ったのは、中学一年生の頃。
 小学校六年生の時に同級生(クラスメイト全員)からイジメを受けて登校拒否になり――あえていじめ「られた」とは言わない。私も悪いところあった。存在自体がむかつくヤツだったのかも知れないから――区立の中学にはいるのがイヤでイヤで塾で猛勉強して私立の中学に合格したあとのことです。塾の月謝、父の苦労を思って「中学では絶対にいじめられる立場にまわってはダメ。失敗することは許されない」と決心して、友達を作って頑張ろうとしていた矢先に、友達と喧嘩してしまってオドオドしてしまっていたら、あっという間にクラス中に悪い噂を流されて孤立していました。
 私にも多分に悪いところがありました。見栄っ張りで、目立ちたがりやで、自慢することが好きだったという点です。家で、悩んで悩んで、明日からどうやって学校で生活しようと窮していたときに「私が自殺したいほど悩んでいるって分かれば、みんなも少しは同情してくれるんじゃないか」という汚い考えのもとに、最初のリストカットが始まりました。最初は本当に浅く、浅く、剃刀をあててゆっくりと横に引いて血がぷくっと出ればそれで終了。バンドエイドに血の染みをつけてわざとらしく学校でクラスメイトに見せつけて、どうにか立場の回復を図ろうとしていたのです。中学一年生にしてこの狡さ、現在の私が思いだしても吐き気を催します。
 クラスメイトの反応は、うっすらと感じていました。「見た? 南条さんの手首!」「見た! アレ、血? 切ったのかな?」というような声を耳にしました。見せつけるという点では成功したのです。でも、大きく同情を引くという点では失敗していました。私が考えていたより遥かに私はクラスの中で嫌われていたのです。
 クラスで委員を決めるときに、誰も立候補者がおらず、紙にクラス委員になってもらいたい人間の名前を書いて上位二名がクラス委員になるという行事がありました。こういう場合、大抵クラスの嫌われ者か、本当にクラス委員に適している人間が上位をとるものです。私は勉強もスポーツもできるクラスの優秀な子の名前を書いて投票しました。開票された結果を見て私は愕然としました。一位は私でした。それだけなら良かったのです。クラス委員をつとめれば文句を言われないのですから。でも私をもっと愕然とさせたのは、二位に選ばれた、私も推薦した優秀な子が、私とセットで当選して、私と一緒にクラス委員をやるのがイヤで、泣かれたのです。私のことを、ソコまで嫌っている人がいるという事実を突きつけられて、目の前が真っ暗になりました。
 更に「○○ちゃんはアンタと一緒にクラス委員になったのがイヤで泣いちゃったんだからね!」と元友達に言われて、もっと落ち込みました。それからリストカットは、私にとって「自分の立場を回復する手段」ではなく、何かの儀式になってしまったのです。

自殺未遂1

 初めて自殺未遂をしたのはこの頃。何もかもに希望が持てなくなって、どん底をさまよっていました。学校に行くのも辛い。何より自分があんなにまで嫌われるのは、すごく苦しい。このまま嫌われ続けるなら、私はいなくなってしまった方が良い。常にこんな風に考えていました。『完全自殺マニュアル』を本屋で購入したのもこの時期です。飛び降りたり、首を吊ったりするのは確実そうだけど、痛そうでイヤだ。とんだ甘えん坊です。
 そこで私は、眠るように死ねるのではないかと思って服薬自殺を企てました。トラベルミンシニアとボブスールという薬局で売っている精神安定剤をそれぞれ20錠と30錠。朝日が射し込む明け方にがたがたと震えながら飲み干しました。そして、眠りにつきました。
 起きたのはそれから一時間後。ものすごい吐き気で眠っていられませんでした。トイレで吐いて吐いて、何もかも吐き尽くしました。それでもやや成分が残っていたようで、幻覚などを見たりしました。飼い猫が、押し入れの中でリスを丸飲みしている、カレンダーが一月から十二月、どれをめくっても同じイラストになっている。その時は薬による幻覚だと気付いていなかったのでただただ、驚くばかりでした。
 服薬自殺は失敗すると大変気持ち悪いです。父は私が気持ち悪そうにしているのを見て、「食べ過ぎたんじゃないのか?」と言いました。……それから大分長い間胃の不快感に苦しみました。よくもまぁ救急車を呼ばないですんだものでした。

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