下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説

下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説 変更前



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2004/11/14

  半月城です。
  下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざ
ん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文
献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。
  その史書に引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島と
される松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」
と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。

  ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史
書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほ
とんど影響しません。
  というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松
島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認
識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。
 <下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>
  しかし『隠州視聴合記』(1667)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料
と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存
在したとなると、どうやら都合が悪いようです。

  現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残され
ました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬
が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にこと
なっています。
 (1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
 「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島
なり(注1)」

 (2)『疆界考』(1756)
 「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに
二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」

  引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節の
みを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されまし
た。また、原文には句読点などは一切ありません。
  つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地
志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとして『疆界考』や『東国
文献備考』を記述しました。

  ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。同氏は『疆界考』に
おける『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く
「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』を
こう読みくだしました。

 <按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二
島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>

  同氏はこのように申景濬が按じた内容は、単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本
一島」の部分として、そこでピリオドを入れました。しかし、原文には句読点などはない
ので、そこの部分にピリオドを入れる必然性は何もありません。これは検討を要します。
  こうして、同氏は『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であ
り、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたので
あり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。

  はたしてこの説は成立するでしょうか? そもそもある事柄を同じ著者がある本では
他書からの引用とし、別の本では自説として書くなんてちぐはぐなことをするでしょう
か?

  申景濬に引用された『輿地志』は、当時はもちろん実在し、知られていたことでしょ
う。そうした中で下條氏のいうような、容易に指弾されるような「改ざん」を学者がはた
しておこなうでしょうか?
  改ざんなどという発想は、下條氏ならではことではないでしょうか? 同氏は、下記
のように自説をしばしば変えような「学者」なので、そんな着想がうまれるのかもしれま
せん。
 <下條正男氏への批判、勅令41号>

  素朴な疑問はともかくとして、つぎに『疆界考』の内容を検討してみることにします。
「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地
志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
  ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著
者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成
立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。
 「蔚珍縣 于山島、鬱陵島
 一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
 一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」
 <『東国輿地勝覧』と于山島>

  この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だ
けを切りとれば、『東国文献備考』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、
『東国文献備考』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、
一島説は参考程度にとどめました。

  これと同様に『輿地志』で「一説に于山 鬱陵 本一島」と書いたのなら、その著者の
本説は別にあるはずです。それが「しかるに諸図志を考えるに二島なり」であり、かつ
「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」であると思われます。この解釈は『東国文
献備考』にももちろん符合します。
  申景濬は、そうした記述全体を『輿地志』が云っていることを按じた、すなわち考察
したのであると思われます。これは『疆界考』における申景濬の他の「按」文をみるとさ
らにはっきりします。引用文につづく「按」文ではかならず改行および字下げ(インデン
ト)がなされました(注4)。


  こうした検証からすると、下條氏の下記「改ざん説」は成り立たないと思われます。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  柳馨遠の『輿地志』の「一説に于山鬱陵 本一島」という文章は、まず申景濬の『疆
界考』の按記で、于山島と鬱陵島が別々の島であることを主張するための材料として引用
され、さらに「輿地考」の文中で洪啓禧の手が加わって、「輿地志に云う、鬱陵、于山、
皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂 松島なり」という形に改竄されていたのである(注3,
P102)。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  結局、この文章もまさに同氏のいう「我田引水的 文献解釈」のひとつではないで
しょうか。以上の考察から、于山島と鬱陵島は別々の島で、于山島は日本でいう松島(竹
島=独島)であるという認識は『輿地志』が書かれた1656年にはすでに成立していたと見
るべきではないでしょうか。
  この認識は、1432年の『世宗実録』地理志における下記の記述を継承、具体化したも
のといえます。

 「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が
清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。
その地の大きさは百里(40km)である」
 <『世宗実録』と于山島>

  前回書いた安龍福は、于山島は松島(竹島=独島)であるという認識をどの時点で
もったのかは不明ですが、かれは 1696年に日本へ乗り込んだとき、こう語りました。
 「松島はすなわち于山島、これまた我国の地」
  かれの渡日やその後の活動により、朝鮮で于山島=松島という認識はその後も一層強
まり
、『東国文献備考』や『萬機要覧』『増補文献備考』などの官撰史料で于山島は着実
に朝鮮領と認識されました。また、日本でも朝鮮と同じ認識が確実になったのですが、こ
れはすでに下記に書いたとおりです。

 <江戸時代の「竹島一件」>

(注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条
 「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
 「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是
 于山國也」
 (原文には句読点やスペースなどは一切ありません)
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文藝新書,2004
(注4)「輿地志」に申景濬が「按」すなわち解釈を加えたときのスタイルは、下記のように「按」文で改行がなされ、しかも一字の字下げがなされました。
  (例)柔遠堡
 輿地志 恵荘王六年 廃古基在胡地
  按 右三堡 皆在豆満江以北者也國初定界築堡 蓋遠矣


(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/












下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説  現在


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2004/11/14

  半月城です。
  下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざ
ん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文
献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。
  その史書に引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島と
される松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」
と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。

  ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史
書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほ
とんど影響しません。
  というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松
島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認
識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。
 <下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>
  しかし『隠州視聴合記』(1667)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料
と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存
在したとなると、どうやら都合が悪いようです。

  現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残され
ました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬
が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にこと
なっています。
 (1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
 「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島
なり(注1)」

 (2)『疆界考』(1756)
 「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに
二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」

  引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節の
みを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されまし
た。また、原文には句読点などは一切ありません。
  つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地
志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとして『疆界考』や『東国
文献備考』を記述しました。

  ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。同氏は『疆界考』に
おける『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く
「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』を
こう読みくだしました。

 <按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二
島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>

  同氏はこのように申景濬が按じた内容は、単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本
一島」の部分として、そこでピリオドを入れました。しかし、原文には句読点などはない
ので、そこの部分にピリオドを入れる必然性は何もありません。これは検討を要します。
  こうして、同氏は『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であ
り、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたので
あり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。

  はたしてこの説は成立するでしょうか? 


申景濬に引用された『輿地志』は、当時は
もちろん実在し、知られていたことでしょう。そうした中で下條氏のいうような、容易に
指弾されるような「改ざん」を学者がはたしておこなうでしょうか?
  改ざんなどという発想は、下條氏ならではことではないでしょうか? 同氏は、下記
のように自説をしばしば変えような「学者」なので、そんな着想がうまれるのかもしれま
せん。
 <下條正男氏への批判、勅令41号>

  素朴な疑問はともかくとして、つぎに『疆界考』の内容を検討してみることにします。
「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地
志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
  ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著
者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成
立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。
 「蔚珍縣 于山島、鬱陵島
 一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
 一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」
 <『東国輿地勝覧』と于山島>

  この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だ
けを切りとれば、『東国輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、
『東国輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、
一島説は参考程度にとどめました。

  これと同様に『輿地志』で「一説に于山 鬱陵 本一島」と書いたのなら、その著者の
本説は別にあるはずです。





こうした検証からすると、下條氏の下記「改ざん説」は成り立
たないと思われます。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  柳馨遠の『輿地志』の「一説に于山鬱陵 本一島」という文章は、まず申景濬の『疆
界考』の按記で、于山島と鬱陵島が別々の島であることを主張するための材料として引用
され、さらに「輿地考」の文中で洪啓禧の手が加わって、「輿地志に云う、鬱陵、于山、
皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂 松島なり」という形に改竄されていたのである(注3,
P102)。
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  結局、この文章もまさに同氏のいう「我田引水的 文献解釈」のひとつではないでしょ
うか。
  なお、于山島と鬱陵島は別々の島でであるという認識は『輿地志』が書かれた1656年に
はすでに成立していたと見るべきではないでしょうか。この認識は、1432年の『世宗実録』
地理志ですでに示されていました。

 「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が
清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。
その地の大きさは百里(40km)である」
 <『世宗実録』と于山島>

  前回書いた安龍福は、于山島は松島(竹島=独島)であるという認識をどの時点で
もったのかは不明ですが、かれは 1696年に日本へ乗り込んだとき、こう語りました。
 「松島はすなわち于山島、これまた我国の地」
  かれの渡日やその後の活動により、朝鮮で于山島=松島という認識が強まり、『東
国文献備考』や『萬機要覧』『増補文献備考』などの官撰史料で于山島は着実に朝鮮領
と認識されました。また、日本でも朝鮮と同じ認識が確実になったのですが、これはす
でに下記に書いたとおりです。

 <江戸時代の「竹島一件」>

(注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条
 「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
 「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是
 于山國也」
 (原文には句読点やスペースなどは一切ありません)
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文藝新書,2004
 

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/