核を積んだアメリカ軍の艦船が、事前の協議なしに日本の港に寄港することを日本政府が容認していたとされる、いわゆる「核持ち込み密約」について、アメリカのライシャワー元駐日大使の特別秘書官がインタビューに応じ、「合意はあった」とした上で、「日本政府は早くこの問題をクリアにしたほうがいい」と語りました。
60年代、駐日大使として日米外交の最前線にいエドウィン・ライシャワー氏、その元側近が核持ち込み密約について語りました。
1963年から65年にかけて、ライシャワー氏の特別秘書官を務めたパッカード氏は、核を積んだ米軍の艦船が、日米安保条約に定められた事前協議なしに、日本の領海を通過したり、港に寄港したりすることを日本政府も容認していたとされる、いわゆる「核持ち込み密約」について、次のように述べました。
「1960年にはそのような(日米間の)取り決めがあったのは、極めて明白でしょう。ライシャワー元大使も本に書いてますし、元大使は取り決めが『口頭』だったか『文書』だったかは少々あいまいでしたが」(ライシャワー元大使の特別秘書官だったジョージ・パッカード氏)
ライシャワー元大使は、80年代になってから、一時寄港や通過は核の持ち込みには当たらないので事前協議はしなくてもよいと理解しているし、日本政府も了解していたと明らかにしています。
「我々の艦船が核を積んだまま日本の領海を通過したら、それは“取り決めに違反している”と日本の人々は言う。まるで我々が約束を破っているかのように言われ悲しかった」(エドウィン・ライシャワー元駐日大使)
ただ、山口県の岩国基地沖に、核兵器を積んだアメリカ海軍の揚陸艦が長期にわたって停泊していたことを66年に知ったライシャワー氏は激怒したといいます。
「彼は即座にラスク国務長官に電報を送り、90日以内に核兵器を撤去しないと、この事実を公表して辞任すると迫ったのです」(ライシャワー元大使の特別秘書官だったジョージ・パッカード氏)
軍の関係者からこの情報を入手した若手の国務省職員が知らせるまで、大使であるライシャワー氏は“蚊帳の外”に置かれていたのです。
「90日以内に、核兵器は沖縄に戻された。何か月間も沖に核を配備するのは日米安保に明確に違反すると考えたのです」(ライシャワー元大使の特別秘書官だったジョージ・パッカード氏)
こうした密約については他にも、アメリカ側の文書や元国防長官補佐官の証言、日本の外務省の元幹部らの証言で、その存在が裏付けられていますが、日本政府は一貫して否定しています。
27日も核の持ち込みについて政府の立場を問われた河村官房長官は・・・。
「日本の非核三原則は守られている。そのことをアメリカも十分承知している。同盟関係の上で、お互い信頼の上で、やってきてると」(河村建夫 官房長官)
パッカード元秘書官は、日本政府は過去の経緯にとらわれたまま、年を追うごとに、取決めの存在を認めづらくなってしまっている、と指摘しました。
「選挙後の新しい政府にとって、最優先の仕事の1つは、この問題をクリアにすることですね」(ライシャワー元大使の特別秘書官だったジョージ・パッカード氏)
(27日16:48)