このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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オールタイム・ベストワン
すべてのオタクは作家になれるだとか、ベストセラーの書き方とか、糞のようなハウツー本数多あるなか、これを超えるものはまだ出ない、というか未来永劫出ないだろうな。
著者は百々由紀男(どどゆきお):1929生れ。地上文学賞(家の光)、小説クラブ新人賞入賞(受賞ではないようだ)。経済ビジネス評論分野で大活躍の方であるらしい。
その著作がコレだ。
自分でとれ!
そういう突込みが一斉に入ったと思う。
『芥川直木賞のとり方』 百々由紀男 ブック・クラブ 1993
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唐沢ネタは“パクリ”に絞ると宣言したが、あんまり面白いので。
唐沢は16日のコミケを途中で抜け出して、大阪トリイホールで開催された、快楽亭ブラックが主催する「カルト寄席2」に出演した。その模様は16日の裏モノ日記で自画自賛されているのだが。
その後が私で、トンデモ本大賞でもやったネタの拡大バージョン。 いやあ、心配していたが受けた受けた。お客さん、いちいち解説のたびに大爆笑。マイミクえべーさん、ブルちゃんさん。えふてぃーえるさん、ピカード艦長さんなどがいたが、この濃いメンツの出演者のトリに出るという大役にちょっとドキドキしていたのだが、無事、務められてホッとする。~中略~ブルちゃんさんら、お客さんたちもみな“いや、凄いネタだった”と言ってくれ、嬉しかった。もっとも、他の会じゃ出来ない。
「受けた受けた」お客さん、いちいち解説のたびに「大爆笑」だったそうだ。さて、この日の状況を、当事者である快楽亭ブラックは、快楽亭ブラックの出直しブログでこう描写している。
トリは唐沢俊一先生のオナニーの噺。前回のカルト寄席に比べるとまるで盛り上がらず、おまけに赤字で持ち出しなのが腹立たしい。お客さんが満足してくれれば赤字でも良いのだが…
まるで盛り上がらず、おまけに赤字で持ち出しなのが腹立たしい。
ははははははは、唐沢先生、大嘘を書いているわけですね。どうせばれやしないだろうと、びくびくしながらの自画自賛、微笑ましいですなあ。ブラック師匠は、ギャラを払うのも忌々しいって感じですねえ。
裏モノ日記にはこんな記述も。
Kさんから思いもよらぬプレゼントいただく。ギャラいただいたよりも、いや、ギャラをいただくのは嬉しいがそれとはまた別の(笑)大喜び。
ギャラ払うのやめたら?
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知りもしない人のことを語る
「現代生活のバイブル」季節風書房1958年8月号『薫風に誘われたグラマーガール』という記事の中の22ページに書かれている文章を全文引用してみる。
実は筆者(唐沢)の知人の父親が、やはりヘリコプター事故で亡くなっている。彼は取材カメラマンだったが、ヘリコプターで取材に行き、もちろん機内にいはしたのだが、地上の撮影にあまりに熱中して身を乗り出しすぎて、そのまま地上へと落下した。このときのヘリコプターは4人乗りで、もう一人乗っていたカメラマンがあわててシャッターを切ったため、彼の人生最後の写真(頭を下にして落下していく写真)が棺の上に飾られたという。いや、笑いごとではない、このモデルもそうなっておかしくない状況だったのだ。
ところで、撮影した山田照夫氏は本職はヌードではなく、まっとうな航空写真家としてその後、日本有数の人となる。昭和54年には中公新書から『空飛ぶカメラマン/わたしの仕事史』という本を出している。あるとき古書市で見つけてさっそく購入、期待して読んでみたが、氏にとってこの撮影はキャリアから消したい仕事だったらしく
「私はかつて空中ヌード撮影だって決行した男だ」
という一文だけで、そのときの状況は何も記してくれていなかった、残念。
やはりヘリコプター事故で亡くなっていると書かれているが、この文章の前には事故で亡くなった人のことは全く書かれていない。いや、説明不足でちょっと分りにくいかも知れないな。唐沢が指摘しているのは、カメラマンの山田氏は、機が二人乗りの小型だったため、ヘリの外に掴って撮影を挙行し、モデルの神代マリは命綱もつけずに機外に身を乗り出すという、危険な撮影だったということなのだ。二人とも着陸後はついにご両人病臥、という涙ぐましきエピローグとはあいなったのですと書かれている。
唐沢は多分、『空飛ぶカメラマン/わたしの仕事史』を読んで、山田氏を航空写真の第一人者と書いたのだろう。しかし、それ以上のことはご存じないようだ。
1981年、山田照夫氏はヘリコプターでの撮影中、墜死している。享年73.
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著作権はクリアしていますか?
給料日前だというのに、大枚1,000円もはたいて購入しちまった。購入時に著作権はクリアしているのかと唐沢に訊いたら、間違いなく全部話がついているということだったが、果たして本当なのだろうか。わが国の著作権法では、著作財産権は著者の死後50年存在する。
唐沢は「出版社が許可取りをした」と言った。自費出版なんだから、自分でやったのかとも思ったのだが、「まえがき」のページにこんなことが書かれていた。
※本書は2008年、(株)MCプレスから発行されていた雑誌『DVD DELUX』誌に連載されていたコラム『昭和エロ道入門』を元に、大幅書き足しをしたものである。
初出とどのくらい内容が変わっているのかは、元の雑誌が手元にないので分からないが、大幅に変更があるなら、再許諾を得る必要がある(初出のときに本当に許諾を得ていたとして)。しかし、この許諾も実に面倒なものなのだ。記事の内容は、小説、マンガ等丸々掲載して、それにコメントをつけているだけなので、当然、引用の要件は満たしていない。従って著者の許諾は○必で、著者が故人でも、50年を経ていないもの総て著作権者(もしくはその相続者)の許可を得なければならない。さらに、この本には、初出の雑誌のページがそのまま掲載されているので、当然ながら編集権が存在する。これはその雑誌の編集管理者にあるのだが、こんなものもクリアしたのだろうか。
出版社のスケールとこれまでの唐沢の執筆態度から推して、限りなく黒に近い灰色だと思うのだが、どうだろう。いや、推測だけではない、こんな記事が載っているからだ。
「現代生活のバイブル」季節風書房1958年8月号『薫風に誘われたグラマーガール』という特集が丸々掲載されているのだが、この写真を撮影した山田照夫に関して、唐沢はこんなことを書いているのだ。
ところで、撮影した山田照夫氏は本職はヌードではなく、まっとうな航空写真家としてその後、日本有数の人となる。昭和54年には中公新書から『空飛ぶカメラマン/わたしの仕事史』という本を出している。あるとき古書市で見つけてさっそく購入、期待して読んでみたが、氏にとってこの撮影はキャリアから消したい仕事だったらしく
「私はかつて空中ヌード撮影だって決行した男だ」
という一文だけで、そのときの状況は何も記してくれていなかった、残念。(P.22)
ヌードではなく、まっとうな航空写真家というのも凄い文章だね。しかも、キャリアから消したい仕事だったら、一言たりとて触れもしないだろう。唐沢が「私はかつて盗作だって連発した男だ」という一文だけで、そのときの状況は何も記してくれていなかったなんてことをすると思いますか。
いや、本題はそのことではない。山田照夫氏の著作権は未だ存在しているということだ。氏の許諾は得たのだろうか。キャリアから消したい仕事の再掲、再々掲に応じてくれたとは到底思えないのだが。
『B級雑誌が行く!!』 唐沢俊一 東文研 2009
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冤罪か否か
ネット環境が未だなかった頃、こんなに役立った本はない。いや、ミステリ執筆の資料としてね。法医学の専門書はいづれも高価だし、資料に使うには煩雑な部分も多すぎる。なにより、死体写真満載なので、そこらに放置しておくわけにもいかないから、手軽で役立つということではこれに勝る類書はない。
ところで、この本、今は絶版になっている。といっても希覯本というわけでもなく、amazonで1円で入手出来る。
いや、なんで突然、こんな昔の本の話になったかと言いますと、今話題の「裁判員」制度に関連して思うことがあるからなんです。
「足利事件」で注目を浴びたDNA鑑定(「飯塚事件」でも同様な再鑑定が行われると思いきや、就任1か月の森英介法務大臣はさっさと死刑執行命令を出してしまい、久間三千年は処刑されてしまった)ではあるが、有罪判決が出た当時のDNA鑑定では、
一般的な型で16人に一人、特殊な型で3万5000人に一人しか判別できず、平均すると、およそ1000人に1.2人の確率しかなかった(Wikipediaより)ようだ。
本書のⅥ章「証拠としての血液型の価値」で取り上げられているのは、昭和二十四年に発生した弘前大学教授夫人殺人事件(本文中では大学名は「知名の大学」とだけされている)なのだが、この事件に対して鑑定人だった、著者古畑種基は、当時の詳細な鑑定記録を公表し、現場及び被疑者の衣類に残された血痕から、犯人を特定できる確率を98.5%とした。事件当時、弘前市の人口は6万人。ならば、容疑者は9百人ということになるが、それだけの出血をする怪我を負った人物ということで特定すれば、
怪我をしておらぬB・M・Q・E型(引用者註;4種類の血液分類法から特定した犯人の血液型)の人が、何十万人いようとも、それは問題にならぬのである
と断言し、被告は懲役十五年の刑に処せられた。
ところが、この事件には続きがあって(だから本書は絶版にされたのだが)、実は十五年後に真犯人が名乗り出てきたのだ(時効になるのを待っていた)。冤罪を受けた男性が、国家賠償を求めて訴訟を起こしたため、真犯人と名乗り出た男と結託したのではと、一部では邪推されたが、再審が開始された(鑑定人古畑は1975年に死去)裁判では、なんと衣類の血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造であると裁判所は判断したのだ。
いやはや。
こんな事件を受け持たされた裁判員。法医学の第一人者で東大教授の鑑定に疑義を挟めるだろうか。いわんや、警察の捏造なんてことに。
『法医学の話』 古畑種基 岩波新書 1958
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恐ろしいネタばらし
最初にお断りしておく。今回のエントリは凄まじいネタばらしである。だから本書を未読の方は絶対に読まないで下さい。
なんで、そんな酷いことをするのだ、とお怒りの方もいるだろう。以下、その説明をする。
本書は、わたしのような人間にとってはベスト10クラスの傑作である。初読のとき、思わず「そうか! やられた!」と叫んでしまった。心憎いアイデアであるし、逆に一発芸だから、その部分をネタばらししちまったら、この驚きが全減してしまうのだ(“半減”ではない)。
だったら、なんで?
本当にあなたは未読ではありませんね。
だったら本書の表紙をよおっく見ていただきたいのだ。気付きました?
驚いたよね。カーはなにを考えていたんやろ。
なんのことやら分からんという人は、こちらを。読んで後悔しても知らないよ。
なんと原題は“NINE WRONG ANSWERS”なのだ。今の今まで気がつかなかった。よろしいか“WRONG”なんだよ。本書の根源となるミスディレクションは、前後9回にわたって提示される作者の答えにあるのだ(だから「九つの答」)。例えば登場人物の一人が毒薬の入った飲み物を飲んで死にかけたとき、「疑り深い読者は、毒を飲んだふりをしただけだと思うかも知れない。しかし、狂言ではなく、○○は本当に毒を飲んでしまったのだ」みたいに。ところが、この答がことごとくダブルミーニングを持っていて、読者はまんまとカーの罠にはまってしまうという仕掛けなのだ。まさかそんなところで嘘を書くわけないだろうと思っていると(実際、「嘘」は書いてないのだが)、まんまと騙されてしまう。しかし、タイトルは「九つの間違った答」なのだ。つまり本当のことは答えていないって、最初から宣言しているのだ。だったら、仕掛けにもなんにもなってないと思うんだよなあ。不思議だよなあ。今日まで気付かなかったけどさ。
Googleで検索しても、二十数件しかヒットしない。忘れられた傑作なのかも知れない。しかし、この事実が分かってしまったら、支持者が少ないのも分かるような気がする。
『九つの答』J・ディクスン・カー 青木雄造 訳 ハヤカワポケットミステリ 1958
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酷い! 酷い! 酷い! (笑
モザイク処理はわたしが行いました。
さてAVであります。タイトルは、『6本番・竹内あい』という、身も蓋もないものなんでありますが。
これが、稀に見る傑作なんであります。
(以下、露骨な言葉遣いに為ります故、お嫌いな方はスルーしてね)
AVというものも、数多く見てくると飽きてしまう。ま、これは仕方ないでしょう。昔だと、本当にSEXしているとか、無修正だとか、いろいろ煽りの情報もあったのですが、いまやサイト上で、アメリカから配信される無修正AV(モロ動画)って奴が、毎日何十件もあるわけで、余程新しい刺激がないと、もはや退屈だけな代物とあい成るわけなんですね。
で、この作品。これが非常に面白い。これは竹内あいという主演女優の個性のなせる業なんざんしょうが。
後背位でやっております。男は竹内さんの両手を、後ろから引っ張って、まるで「背筋の鍛錬」みたいにして必死でピストン運動に励んでいる。竹内さん、思い切り上体を反らして、「イクイクイクイク!」と叫ぶのは、まあマンネリな演技にすぎません。
問題は、その直後です。竹内さんが「アーッ!」と絶叫して、逝った(もしくはそうした演技をした直後)、男優は引っ張っていた両手を離します。反動で竹内さん、べしゃっと顔面からベッドに倒れこみ、すっぽんと陰茎も抜けてしまいます。
この後の、竹内さんの反応が素晴らしい。ヒステリックに怒るのでもなければ、悲惨に泣き叫ぶのでもない。酷い! 酷い! 酷い! と相手の男に、怒るでなく甘えるでなく言葉を投げて、やり返すもんねと宣言する。このやりとりが、非常に微笑ましい。丸出しの男女が、本音で言葉を交わしながらキスするところなんて、グッときますね。
結局、この後、3Pという設定だったらしいのだが、あいちゃんが許さず、もう一人の男に後ろからハメられながら、先ほどの男優を四つんばいにさせて、後ろから陰茎をしごいたり悪戯する。
台本の段取りは目茶目茶になってしまったようだけど、生生しくて楽しいAVになりました。
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ゴミ屋敷のボランティア
8月3日の裏モノ日記になにか怪しいことが書かれている。先日急逝した志水一夫の家を訪ねて、遺された膨大な蔵書の今後を検討したということなのだが。
入院などで見舞にも葬儀にも出られなかったが、その埋め合わせと、故人の遺した蔵書の始末を、お母さまから皆神さん、私、ひえださんが託されため。
皆神さんと、
「いよいよあの伝説の志水宅をのぞけると思うとワクワクするね!」
と話し合う。
ラジオライフの記事に関して書いたときにも触れたが、唐沢は友人の死を悲しむより、その蔵書の管理を委ねられたのが嬉しくてしかたないようだ。まあ、鬼畜のどうのに関してはもう語らないことにしたわけだが。
玄関をあけたとたん、段ボール箱がうずたかく積まれている。これ、全部本だそうである。家の中へ通されてちょっと度肝を抜かれる。階段、廊下、リビング、とにかく広いお宅の、台所など水回りのところをのぞいてほぼ全て、本で文字通り埋まっている。階段は三重になった本で一杯になり、体を横にしないと上れない。いや、家のほとんどに、真っすぐにして歩けるスペースがない。ことごとく本、本、本……である。
もう十数年前になるか、『カルトな本棚』という本を出したとき志水さんにも取材を申込んだが、かたくなに拒否された。たぶん、このような状態の家を他人に見せるのを嫌がったのだろうが、その時はまだ、仕事場で志水さんは仕事をされていたはず。晩年は仕事場までが本に埋もれて入れなくなり、台所で原稿を書いていたとか。つまりその時に比べても数倍の数になっていることである。
わたしはこの文章に、非常に作為的なものを感じる。志水さんが見られることを嫌がった(と唐沢は思っている)室内の写真が、三葉この日記の冒頭に貼られているのだ。故人が曝されたくないと思っていたと判断するなら、なんでそんなことをするのだろうか。作為的とはつまりこのことで、崩れかけた本の山や、階段を埋め尽くす本の山の写真は、怨念さえ感じられる。加えて唐沢の描写も、蔵書のせいで、この家が家として機能していないことを強調しているのだ。さらに、
本当に大きなお宅(造りも凝っており、ご両親のご自慢らしいが、今ではお客すら呼べない)であるが、二階の部屋と踊り場に続く部屋全部は本で埋まって、そもそも内部に入れなくなっている。何度か試みたが、積んである本が崩れそうで断念した。この廊下の先にもう一部屋、“ありそうだ”と予測はついたが確かめられない部屋すらあった。
部屋に入れず、本を取りだせないのだから、書庫としての機能はもはや喪失している。増殖する本に乗っ取られた家という感じである。いかにも志水さんらしい無計画さ、と微笑ましくもなるが、しかし彼は自分の買った本に追い出されて仕事場にも自分の寝室にもいられなくなり、最後はリビングのソファで寝起きしていた。ガンで腰にかなりの痛みがあったのだが、病院にかかるのが遅れたのは、ソファで無理な格好で寝ているから痛むのだろうと思っていたからだという。
本に殺された、と言っていいと思う。
この文章から頭に浮かぶ志水像は、取り憑かれたかのように本を買い漁り、その山に埋もれて死んでいった狂人のようだ。唐沢はさらに死者を貶める。
自分を蔵書家、などと自称していたのが恥ずかしくなるような、恐ろしくなるほどの本の量である。
とはいえ、うらやましいとかさすがである、とかはここまで来るとほとんど思わない。自分が先日、書庫の大整理を行ったのは本当に正解だった、と胸をなで下ろした。そもそも、ここまで蔵書数を誇っても、個人蔵の限界は、ある冊数を超えると整理がつかなくなるということである。国会図書館が職員とバイトを合わせて1000人近くの人間を雇い、常時、整理と分類、本の修復などを行っているのは、それだけの人数が本の管理には必要だということだ。それが出来ないと、本は勝手に増殖していくかのように持ち主の住居空間を侵し、かくのごときいいお宅をかくのごとき魔境に変えてしまう。
“魔境”か。しかし、唐沢の暴言は未だ続くのだ。
お母さま、80代とは思えぬお元気で、ニコニコと迎えてくださる。本当に息子と仲がよかったのだと思い微笑ましいが、この本の増殖を何とか意見できなかったものか。
息子を甘やかした親が悪いのだというのか。もの凄いブーメランだが(笑)。
皆神さんと話す。いま、某組織が引き取りを考えてくれているが、果たして全てを向うの予算で引き取ってくれるのか。古書店に売るにしても、梱包と発送は誰がやるのか。労力は誰が出すか。何にしても、一朝一夕に片づく問題でなし。バスで東浦和まで戻り、駅前のつけ麺屋で今後のことを話す。私は、あれだけの冊数だと、ひと部屋の本をざっと分類して段ボール箱につめるだけで一ヶ月以上かかると思う。志水さんの研究対象には、新書や文庫などの雑書でしか出てないものも多く、売れる本とそうでない本をより分けないとまとめて売ることも出来ないのである。故人は散逸させないことをのぞんでいたというが、さて、それが可能か。
長々と引用してきたが、唐沢の作為はお分かりだろうか。志水一夫は蔵書を散逸させないことを望んでいた。なのに、唐沢は分別して売ることを早くも考えている。そして、志水をあたかもゴミ屋敷に住まう狂人であったかの如く貶めて、自分は老母に成り代わってボランティアでその管理を引き受けた善意の人を演じているのだ。
多分、値打ちのある本は皆神と山分けにし、残った雑本は廃品回収業者に引き取らせ(その代金は総て母親にわたす)、終に志水の蔵書は四散、廃棄されるわけだ。
唐沢などを家に上げたら、なにを持っていかれるか分からない。しかし、こうした言葉を聞く耳を今の母親は持っていないのだろうなあ。
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不正摘発にシフトします
一昨年の盗作事件以来、ずっとを唐沢俊一のP&Gを摘発、検証してきましたが、ここでちょっと方向転換、今後は不正行為(盗作、知的財産権侵害)のみを指摘していきたいと思います。
はっきり言って、疲れました。だって、唐沢が書く文章って、一行たりとてまとものものがないんですもん。キリがないし、冷静に考えたら、馬鹿が書いている文章の、ここがおかしい、そこの意味が分からん、なんて指摘するのって意味がないと思えてきたのでね。
盗作、他人の著作を自分のものにしてしまう、他者の著作物を無断で上演する。こうした犯罪行為をこれからは、ばんばん取り上げていく所存です。
よろしく。
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髭のある男たち
原作は、言うまでもなく、ヴァン・ダインの6作目の長編。「面白い長編小説を書くのは一作家6作が限度」という彼の言葉通り、この後に書かれた6作のミステリーは、はっきり言って総て駄作だった。
当初ヴァン・ダインも、この作品を最後の作にしようと思ったのだろう、「犬」と「中国骨董」の薀蓄が錯綜したぺダンチックの権化のようなストーリーの上に、怪しい人物が何人も登場し、さらに、犯行そのものも複雑な時系列をすり抜けて行われるという思い切り濃いミステリーに仕上がっている。最初に読んだとき(中学生のとき)は、なんだかよく分らなかったという記憶がある。
さて、映画は、あまりにも有名な、ウイリアム・パウエル主演、1933年の作品である。映画の冒頭で主なる出演者が紹介されるのだが、どれも怪しげな容疑者の中国人コックを除いた残りの面々、探偵、そして、被害者も皆口ひげを生やしているのである。あまりなじみのない役者、ヘアスタイルも雰囲気も似通っている上、モノクロ画面なんで、こりゃあ人物の識別が大変だなあと恐る恐る見ていたのだが。
いや、なんといいますか、ファイロ・バンス物からぺダントリーを差っ引くとこうなるのだよなあ。確かに人間関係は複雑だけど、余計な薀蓄披露(ごめん)がなくなってみると、意外にすっきりしていることが分る。加えて、マイケル・カーチス(後に『カサブランカ』でアカデミー監督賞を受賞)のテンポのいい演出も大変分りやすく、密室トリック、犯行の経緯がよおっく分りました。
しかし、ウイリアム・パウエルのキャラのせいなのか、ぺダントリーのなくなったファイロ・バンスって、なんか吉本新喜劇みたいな雰囲気ですね。
『ケンネル殺人事件』 PSG 2007(1933)