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南京大虐殺は本当にあったのか |
akaさん UID:9a60e387e5c71cad121c4c24da6a62ff 2009/03/03 17:47:11 | スレッドの最後へ | |
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804 hir*****さん UID:23e27e52012a65b9ef8e07556705c873 2009/05/27 22:34:08 | |
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『敗走千里』陳登元著 別院一郎譚
後序 陳登元君を識ってからいつか十年近い月日が経っている。彼の父親というのは、日本へも幾度か来た事のある実業家で、ぱりぱりの親日家である。その親日家の彼が、息子の登元君を日本へ留学せしめたということは、至極自然で、当たり前で、少しも異とするに足りないことだ。それにも拘らず、私が敢てそのことを揚げつらうのは、「よくも思い切って・・・」という少なからざる驚嘆の心が潜んでいたからである。 管々しい経緯は省く。兎に角彼が東京の土を踏んだのは、彼が十四五歳の時分だったと記憶している。十四五歳と云えばやっと、日本なぞでも小学校を卒業する時の年配である。その西も東も知らない少年の陳登元君は、海山千重、遥々と支那奥地の重慶からこの日本へと一人旅を続けてきたのである。全く、よくも思い切って、両親も手離すし、自分も出て来たものである。 ある機会から、私は彼に日語の個人教授をする事になった。つまり、それが彼を識った初めだった。彼は一年ばかりで私の日本語を卒業して了った。彼は全く語学の天才だった。彼は中学から大学へといとも順調に進んで行った。昭和十三年の春にはその大学も終える予定だった。 ところが、とこへ突発したのが支那事変である。八月二十日、彼は忽然として超共益からその郷国へと立った。卒業まであと半年というところへ来ていた彼は、折柄の暑中休暇をも東京で過すべく頑張っていたのだった。 が、事変が上海へ飛火し、更に益々拡大する傾向が見えた時、彼はある日消然と私のところへやって来て「先生、僕、兎も角一度郷国へ様子を見に行って来ます。学校の方が大事ですから直ぐ帰って来るつもりです」そう言って別れたのだが、彼はそれきり帰って来なかった。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月・・・・・・私は色々想像した。おとなしい彼のことだから大抵家の中にすっ込んで、世間の様子をみているのだろうが、殊に依ると、抗日救国会の仲間入りして、口を尖らかして民衆の間に演説でもして廻っているんではいかしら――と。 が、私の想像は裏切られた。彼のところから、この一月、どさりと、大部の原稿が届けられて来たのだ。一通の手紙と一緒に。それに依ると、彼はいま上海に居るらしい。上海にいてこの原稿を書いたのだ。手紙は簡単だった。僕、日本を立って家の閾を跨ぐと間もなく兵隊に強制徴収されました。そして江南の戦線に送られました。砲煙弾雨の中の生活を送ること二ヶ月、私は相当の重傷を負いました。そして病院に収容されました。生命にも及ぶ程の重傷だったのですが、幸運にも私の傷は日増しに快癒し赴き、早晩退院出来るところまで漕ぎつけました。ある日私は病院を脱出しました。間誤間誤していると、また十二縛りつけられ、戦線に送還されるからです。 僕は書きました。僕の経験し、見聞せる範囲内に於いての殆ど残らずを書きました。別送の原稿、お忙しくはありましょうが一つ読んで下さいませんか。戦争とはこんなものです。僕は神の如き冷静さを以って、純然たる第三者の立場から、凡てを客観し、描為しました。・・・・・・手紙はまだ続いている。が、後の部分は自序ということにして、別に掲げることにして、兎に角彼はこの原稿を見て貰って、出版の価値があるならば出版して貰い度いというのである。文章その他内容に亘っても充分の添削をお願いするというのである。私は早速読んでみた。無論出版の価値はある。あるどころか大ありだ。が、問題は彼の書いた原稿が、彼の心配している通り、そのままでは少々困る點のあることだ。私は彼の希望通り容赦なく訂正した。文章そのもの就ても、骨子を損せざる程度に斧鉞を加えた。それから、文中至るところに出て来る軍隊に就ての固有名詞である。連隊長とか、分隊長とか・・・それらは何れも、本書が日本の読者を対象とするが故に、日本尾読者に理解され易いよう、日本陸軍の職制に翻訳して掲出したことである。例えば、中隊長は、原名では連長(リェンチャン)であり、小隊長は排長(パイチャン)、分隊長は棚長(ポンチャン)である。また軍曹は中士(チュンシ)、伍長は下士(シャアシ)であるが、排長や中士ではどうも読んでいて実感が来ない。それで、それらは気のついた限り何れも日本陸軍の職制名に翻訳した。以上の他、言葉にも、文章にも、充分日本人に成り切っている彼ではあるが、まだどこか、外国人らしい舌足らずの點が目触りになったからである。それから「戦争とはこんなものです」と云って「戦争」そのものを一掴みで掴んで投げ出してくれた「敗走千里」に就て、私は支那軍の立場から忌憚なくし殴んの内情を暴露してくれたこころに得難い文献的価値を見出すものであるが、それと同時にやや不満を感ずるところのものは、この作者が少年時代からずっと日本にいて、その生活感情から、思想傾向から、半日本人化していることである。チャキチャキの抗日救国思想でかたまった純粋支那人でないことである。そこにどうしても、彼の戦争感が偏屈なまでに純粋な支那人臭のない、余りに客観的公平過ぎることである。吾々の本当に知り度いのは、頑固なまでに支那人の体臭を失わない、ニンニクとアヘンと、抗日救国思想の横溢した人間の書いた戦争である。 が、そういう吾々の本当に求めているところの戦争小説はまだ一つも見当たらない。その内には出るだろうが、今のところ何んと云っても陳君の「敗走千里」に止めを刺すようである。 最後に、本書の出版に当って多大の御厚意を賜った教材社主高山菊次氏に厚くお礼を申し上げて擱筆する。 昭和十三年三月一日 別 院 一 郎
hir*****より 先に自序を転記しました。ここに本文をすっ飛ばして後序を転記しました。 本文を長々と転記する自信が無いので、大体どんな本かと云うことを 大掴みで掴んで貰えればと思い、先に 後序を持ってきました。
追々、時間が出来たら第一章から転記します。スレッドがいっぱいになったら 何処かの南京関連スレッドに続きを転記します。根気が無くなったら途中で 挫折しますwその時はごめんなさいw |
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