『敗走千里』陳登元著 別院一郎譚 自序 僕は決して戦争が好きで、戦争に参加する為めに学業を絶ち、帰国したわけではなかったが、結果に於いては、参戦する為めに帰国した形になって了ひました。それも僅か二か月の短時日ではありましたが、實に色々のことをその戦争から学びました。そのことは、或は僕が一生かかっても学び得られないことだったかも知れません。 兎に角、僕の頭の中は今でも、砲弾の音と、機関銃の音と、手榴弾の音と、それからもう一つ、飛行機からの投下爆弾の音とでぐわんぐわん破裂しそうです。それから更に、醒い血の匂いと、汗の匂いと、火薬の匂いと、それらの匂いで今でも胸の中がむかついています。そうした感覚の紛糾混交したものが戦争です。僕はこの二度と得難い戦争を記録して置く決心をしました。併かもこの戦争というものは今も申し上げたように、非常に揮発性を持った感覚の集合体です。これが揮発して了ってはもう戦争は書けません。よく書いたとしても、それは戦争の抜け殻です。そんなものは書き度くありません。幸い、僕の耳にはまだ、砲弾にやられた断末魔の人間の叫喚が残っています。醒い血の匂いが鼻に残っています。ばらばらになった人間の腕や脚や胴や、そんなものが眼に残っています。 僕は書きました。徹夜のしつづけで書きました。「敗走千里」の第一部「慰労隊の巻」がそれです。この中に、僕の云う戦争の匂いが出て居れば、それを感覚して頂ければ、幸甚に存じます。(手紙の一節より) 陳登元 |