中国語が分かれば、中国旅行はもっと楽しくなる
中国語学習ノート

中国語の落とし穴ー026
【 出梅 】


ー 入梅 ー

  ほそいほそい
  やさしい雨には
  かあさんのまつ毛がある

         (サトウ・ハチロー 「雨とおかあさん」)

 中国語でしとしと降る雨を「毛毛雨」( マオマオユゥ mao2 mao0 yu3 ) あるいは「毛毛細雨」という。また、単に「細雨」 ( シーユゥ xi4 yu3 ) ともいい、よく「細雨如絲」( シーユゥルゥスー xi4 yu3 ru2 si1 ) と表現する。

 昨日も雨、今日も雨、いまや梅雨まっさかりである。中国にも「梅雨」( メイユー mei2 yu3 ) がある。 いや、梅雨という言葉は、中国から来たといったほうがよいだろう。

 2005年、気象庁は関東甲信越地方が6月10日に、梅雨入りしたと発表した。沖縄は5月2日にすでに梅雨入りしている。南九州の梅雨入りは、例年だと5月29日であるが、この年は珍しく、41年ぶりということで、関東地方より遅れて6月11日に梅雨入りとなった。

 中国でも南嶺以南の華南地方の5月に始まり、江淮地区(長江中下流域)の6月、華北地方の7月と梅雨は北上する。

  2005年、紹興市気象台と寧波市気象台は、東京と同じく両市も6月10日に梅雨入りしたと発表している。中国でも「入梅」( ルゥメイ ru4 mei2 梅雨入り) 、「出梅 」( チュゥメイ chu1 mei2 梅雨明け) の時期は、年により大幅に変化するが、安徽省气象台の専門家の論文では、1971〜2000年の30年間の平均をとると、淮河流域の入梅は6月18日、出梅は7月11日、長江下流域ではそれぞれ6月14日、7月10日と述べている。

 2005年5月の中国気象局の予想によれば、6月から8月にかけて、中国では広範囲にわたって、大雨が降り、その被害は例年よりも深刻化するとしている。とくに、新疆北部ならびに内モンゴル西部に関しては、雨量が例年の2倍以上になると見込んでいる。また、例年雨が多い長江中下流地域に関しては、今年も洪水が発生する可能性が十分にあるとして、注意をうながしている。

 その一方で、雨量が少ない四川省東北部やチベット西部に関しては、いつもの8割ほどしか雨量がなく、さらに甚だしくなると旱ばつの可能性もあるという。添足1

 台湾の高等学校の教師用の「地理」のハンドブックにはこうあった。漢字はすべた繁体字であった。

 「梅雨」中國東部地區鋒面雨帶的移動和雨季起迄的關係:

 中國東部地區雨季的起迄和季風鋒面的移動有密切關係。夏季季風由南向北推動,其前縁鋒面亦由低緯移向高緯。在向北移動過程中,有三個停滯階段和兩次躍進階段。

 在5月中旬開始,鋒面雨帶在華南出現,一直到6月中旬左右雨帶一直擺動在南嶺以南附近,這就是第一次的停滯,即華南雨季;第二次停滯發生在江淮地區,造成當地的梅雨季;第三次停滯造成華北、東北的雨季,並於8月中旬到達最北位置。

 以後,雨帶重又向南移動,8月下旬左右雨帶經過黄河流域,華北雨季結束,9月初雨帶很快移到華南沿海,在半個月内移出大陸,整個大陸雨季結束。
 (引自施添福主編(1999),高級中學地理教師手冊,第一冊,臺北:龍騰文化出版社,第70頁)
 起迄=始めと終わり、季風=モンスーン、季節風、鋒面=前線、階段=段階、左右=前後、南嶺=嶺南、江淮=長江・淮河、重=再び、結束=終了する

  要約すると、

 「梅雨」中国東部地域におけるモンスーン前線の移動と雨季の始終の関係:

 中国東部地域における雨季の始めと終わりおよびモンスーンの前線の移動とは密接な関係がある。夏季モンスーンは南から北上し、その前線もまた低緯度から高緯度に移動する。この北方向の移動の過程の中で、三つの停滞と二回の躍進がある。

 5月中旬に始まって、前線雨域は華南に出現し、ほぼ六月中旬までずっと南嶺以南付近まで北上する。これが第一次停滞、すなわち華南の雨季である。第二次停滞は江淮地域に発生し、当地域に雨季をもたらす。第三次停滞は華北および東北部の雨季で、八月中旬には最北地域に至る。

 以後、雨帯は再び南に移動し、八月下旬には黄河流域を通過、華北の雨季は終わる。九月初め雨帯は急速に華南沿海地域にいたり、半月以内に大陸から離れ、大陸の雨季は終わる。

 自分で自由に中国旅行の時期を設定できるなら、この時期を避けたほうがよい。この点からだけいえば、中国旅行の最適期は4月、5月、10月、11月となる。

 中国大陸および台湾各都市の月別降雨量と平均気温は、つぎのURL で見ることができる。添足2
 http://www.cwb.gov.tw/V4/index.htm    気候→月平均→大陸地区(または台湾地区)


ー 小満芒種 ー

 中国の天文学の歴書では、「芒種」( マンチョン mang2 zhong4 二十四節気のひとつで、麦を刈り、稲を植えるとき ) 後のはじめの丙(ひのえ)の日を入梅、「小暑 」( シャオシュゥ xiao3 shu3 ) 後のはじめの未(ひつじ)の日を出梅と称した。これによれば入梅は6月6〜15日のあいだ、出梅は7月7〜18日のあいだとされる。芒種、小暑はいずれも二十四節気のひとつである。 これは梅雨が中国でもっとも顕著に現れる江淮地区では、ほぼ現実と一致する。

  ( 種の簡体字 ) 

 しかし、例年梅雨入りが早い沖縄では、梅雨のことを「小満芒種」(スーマンボースー)という。暦では「小満 」( シャオマン xiao3 man3 ) は5月21日、芒種は6月6日になる(小暑は7月7日)。したがって、沖縄の梅雨は中国華南地方とほぼ同じで、長江中下流地域の梅雨より1ヶ月ほど早いことになる。実際の沖縄の梅雨入り、梅雨明けの平均日は5月8日と6月23日である。

 江戸時代宝暦年間における暦学の第一人者であった西村遠里(1726?〜1787)著「天文俗談」は、次のように述べている。

 小満は四月の中、此ころ万物咸(みな)秀(ひいで)生ず。小しく盈満(えいまん)の心にて小満といふ。此日「蚕起食桑」(蚕起こって桑をくらう)の候なり。「紅花栄」(こうか栄う)も此ころ紅花のさかふるをいふなり。「麦秋至」もその頃麦秋になるなり。 かぎカッコ内はそれぞれ七十二候のひとつである。

 芒種は五月の節気、此月芒(のぎ)あるの穀を種(うゆ)べし。・・・・・・「梅始黄」(うめ始めて黄なり)は梅の実色づくなり。添足3

 なお、現在わが国の気象庁の予報用語では「入梅」「出梅」は用いず「梅雨入り」「梅雨明け」を用いることとしている。また「梅雨」は「ばいう」ではなく「つゆ」と読む。「梅雨前線」は例外的に「ばいうぜんせん」と読む。

 先に述べたとおり、中国ではつゆは「梅雨」(メイユー mei2 yu3 ) というが、古くはすべて「霉雨」と書いていた。発音は「梅雨」とまったく同じである。また、からつゆのことを文字通りに「干梅」( ガンメイ gan1 mei2 ) というほか、「空梅」( コーンメイ gong1 mei2 ) といい、逆に雨量が多い梅雨は、「湿梅」( シーメイ shi1 mei2 ) あるいは「豊梅」( フォンメイ feng1 mei2 ) という。 降雨が十分である、にあたる中国語は「豊沛 」( フォンペイ feng1 pei4 ) である。
 文字化けがあるといけないので、念のため「霉雨」は「[雨/毎]雨」である。

 2000年、蘇州は6月20日入梅、同24日出梅,梅雨期間はわずか4日、その間の雨量はわずか23毫米(mm) という歴史的な空梅の記録がある。

 一方、1999年における蘇州は、6月7日入梅、7月19日出梅、梅雨期間は43日、その間の梅雨量746毫米という豊梅であった。その上、6月24-7月1日は暴雨で、6月の降雨量は675毫米に達した。この年の6-8月の雨天数は、56日で、総雨量は1206毫米であった。これは水浸しの蘇州の歴史的記録である。


ー 出梅 ー

 1997年の4月から7月初めまでの約3ヶ月、上海大学に語学留学をした。世紀的な行事の香港回帰の祝賀があったのは、その年の7月1日で、その前夜の花火や式典をいまでもよく思い出す。

 この留学期間中、大いに悩まされたのは蚊の攻撃であった。5月に入ってから、長雨が続いて、高めの気温と相まって、きわめて「悶熱」( メンルー men1 re4 蒸し暑い)で、蚊が大発生した。そして、雨が降ると、窓の下では蛙がしきりに鳴いた。

 老師によると、上海の長雨は6月が中心で、その年はやや早めであったという。となれば、上海の梅雨は日本の本州とほぼ同じではないか。そのとき、老師から日本にも「黄梅雨」( フアンメイユー huang2 mei2 yu3 ) があるか、と聞かれて、ちょっととまどった。発音だけでは分からないときには、黒板に漢字を書いてくれたが、そうすれば大抵のことは、なあ〜んだ、そんなことかとすぐ分かるのだが、このときは、分かるまでちょっと微妙な時間差があった。中国では梅が熟して黄色くなる時期の長雨を「黄梅雨」と呼ぶ。

 日本でも明治時代の手紙には、時節の挨拶に「連日の霖雨(りんう)」とか「黄梅の時節」とかが、よく用いられていた。そして、梅雨明けは「出梅」といった。添足4 が、いまはもうこんな挨拶は書かなくなった。いま、ワープロで「りんう」と打っても、こんな漢字は出てこない。漢語表現が盛んに使用された明治時代までは、中国語が日常生活の中に溶け込んでいたのである。

 いま、中国で梅雨といえば、ふつう「黄梅雨」というが、「梅雨」「霖雨」もまだ生きている。「出梅」も現用語である。中国ではまだ明治が生きているというより、日本では明治は死んだというべきであろう。

  梅雨の句で一番有名なのは、なんといっても芭蕉のこの句だろう。

   五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川

 枕草子では「さつきながあめ」といっているが、江戸時代の名古屋藩士で国学者である天野信景が編んだ随筆「塩尻」(17-18世紀)に「五月雨をさみだれと読み、もろこしにいう梅雨なり」とあるから、この頃から梅雨と呼んだのであろう。添足5

 「和漢三才図会」(1712年)には、「本朝の毎五月、梅まさに黄ばんで落ち石榴の華ひらき栗の花落ち蟇(ひき)の児街を跳ぶころ霪雨(いんう)あり、これを梅雨という」ともある。添足6

 もろこしにいうとか、梅まさに黄ばんで落ち、などまさに梅雨なる言葉が中国伝来であることを如実に表している。 日本の一部の限られた地域に「栗花落」という姓がある。つゆり、と読む。つゆいり、から来たといわれている。和漢三才図会にいうように、栗の花が落ちるころが、つゆいりの地域が多い。しかし、この姓は、古くからある姓だが、全国区にはなっていない。添足7

   山雲の野に下りしより栗の花   秋桜子

 梅雨のことを「黴雨」ともいうが、日本語ではいずれもバイウ(バイは漢音)、中国語でも発音はいずれもメイユゥ mei2 yu3 である。さきに中国語では古くは「霉雨」と書いたと述べたが、現在ではふつう「黴」を「霉」と書く。たとえば黴菌バイキンは「霉菌」( メイチュェン mei2 jun1 ) である。 梅雨はまたカビの生えるいやな季節でもある。 霉雨を梅雨と書くようになったのは、カビのイメージを避け、雅趣のある梅を用いたのであろう。さらに、梅雨ではまだ霉雨のイメージが抜けないので、黄梅雨を用いるようになったのではないだろうか。

 ひとつすかっと「五月晴れ」といきたいものである。最近では、五月の晴天をいうことが多くなったが、本来は陰暦の五月、つまり、梅雨の合間の晴れをいう。近頃では、教育を受けたアナウンサーでも、間違った使い方、でも、最近ではどうやら社会に受け入れられかけている「五月のスカッとした晴天」にこの言葉を使うこともある。添足8  いまでは 「五月雨」は五月に降る雨と思っている人も少なくない。

 中国語には「五月雨」はないが、「六月雨」( リョウユエユゥ liu4 yue4 yu3 ) という表現がある。夕立、雷雨を中国語で一般に「陣雨」「雷陣雨」( レイチェンユゥ lei2 zhen4 yu3 ) というが、「六月雨」ともいう。1999年7月、雲南省昆明市に1ヶ月ほど滞在したが、毎日激しい雨があった。朝方、夜半に降ることもあったが、多くは午後遅くであった。スコールである。そしてよく雷を伴った。7月はほぼ陰暦6月にあたる。

     青空のように
    五月のように
    みんなが
    みんなで
    愉快に生きよう

 これはさきの大戦において二十三歳で戦死した竹内浩三が、二十歳の誕生日に詠んだ「五月のように」という詩の一節でである。この詩は字面だけ読んではならない。どんなに明るい言葉でつづられていようと、これから悲惨な戦場にかり出されて征く彼の心情は、まったくこの言葉たちの反対の極にあったと察せられる。これに先立つ言葉は、「なんのために、ともかく生きている、ともかく」とある。添足9

ご叱正、ご感想などはどうぞ こちらへ  (2005.06.25)(2006.11.26改)(2007.08.15改)


(1) http://www.nicchu.com/news/article.php3?n= 758

(2) そのほか、インターネットで中国の天候を調べるのは、次のサイトがいい。

 中国主要345都市の天気予報
http://weather.news.sina.com.cn/index.html

 国家気象中心
 http://www.nmc.gov.cn/warning/short_weather.php?prod_no=305020001

 eー竜 旅行網
 http://weather.elong.com/index.html

(3) 内田正男著「暦のはなし 十二ヵ月」より。なお、二十四節気については、次に詳述されている。福島中央テレビ「ちょっと便利帳」を参照されたい。
http://www.fct.co.jp/benri/koyomi/24sekki.html

(4) まことに未練がましいが、この稿を起こすにあたって、わたしにはひとつの思惑があった。ひとつは「出梅」を「でんめ」と読ませないかということであった。

 競馬の出馬表の出馬というのは、「しゅつば」ではなく、「でんま」と読む。「馬」は、むま、とも読む。おなじく「梅」は、むめ、または、うめ、と読む。梅の学名は、Prunus Mume Siebet Zucc である。わたしの叔母の名は、むめ、であった。
「梅一輪一りんほどのあたゝかさ」(嵐雪)は、むめと読ませる。蕪村は、「梅咲きぬどれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢゃやら」と詠んだ。

 そこで辞典類にあたってみた。大辞林は出梅を「しゅつばい」と読ませる。しかし、他の辞典類には「しゅつばい」はない。梅雨明けの項を見ると、出梅がある。出梅と書いて、つゆあけと読ませるのが、通説になっているらしい。ワープロソフトもほぼこれに従って漢字変換をしているようだ。わたしの思惑は、見事に外れた。

(5) 天野信景(あまのさだかげ)1661(寛文元年)ー1733(享保十八年) 愛知県名古屋生まれ。尾張藩士・国学者 享保十五年退隠、剃髪して信阿弥陀仏と号した。
 元禄十一年、藩が『尾張風土記』の撰述事業を起こすと、信景は藩命によって吉見幸和、真野時綱らとともにその任に当たり、宝暦二年に『張州府志』として完成した。朱子学を基本にして歴史・文学・神道・有職故実など国学全般を修め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、閑職を利して著述に専念した。とくに『塩尻』は坐右消閑の随筆として、もっとも広く知られている。現存するのは170卷程度であるが、もとは1000卷の大作であったともいわれる。享保十八年没。享年七十三歳。 (三省堂大辞林第二版では生年を1663としている)

(6) 明の時代の中国に、14部構成・全106巻に及ぶ『三才図会(さんさいずえ)』という図入りの百科事典があった。1607年に完成、二年後に刊行された。日本ではこれに倣い、江戸時代の1712年、寺島良安によって図解書『和漢三才図会』がまとめられた。天部、人倫類、地部など105巻からなる。解説は漢文で書かれた。
 寺島良安は、江戸中期の古医方家で、大坂の人。字(あざな)は尚順。杏林堂と号した。和漢の学問に通じ、「和漢三才図会」を編纂したほかに「三才諸神本記」「済宝記」などの著作がある。生没年は未詳である。

(7) 森岡浩「名字の謎」 2002 新潮社 p138

(8) <改訂版>NHK気象ハンドブック(1996)によれば、「5月のすがすがしい晴れのこと。もともとは、旧暦5月が梅雨のころにあたるところから、梅雨の晴れ間をさしていた。ところが昭和になってから、誤って新暦の5月の晴れを指すようになり、現在はこれが定着している。俳句の季語としては、もとの意味で使われることが多い。」 とある。( p84 )

(9)竹内浩三 1921年(大正十年)5月12日、三重県宇治山田で生まれる。1940年 日本大学専門部(現・芸術学部)映画科へ入学。1942年9月、半年繰上げで同大学を卒業、臨時徴兵検査を受けて入隊。1945年4月9日、比島バギオ北方1052高地にて戦死。

 彼の詩に「骨のうたう」という胸を打つ詩がある。その一節だけを挙げておこう。(詩の全文は、http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/T/takeuchikozo.html にある。)

  ああ 戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ
  こらえきれないさびしさや
  国のため/大君のため
  死んでしまうや/その心や

 わたしの兄も先の大戦で中国で戦死した。戻ってきた骨箱には、骨はなく紙切れ一枚だけだった。


  中国旅行が初めてのあなたにも、きっと役立つ情報満載
Since July, 2004
(a)中国を楽しく旅行する(術)
Copyright (C) 2004-2007 K.Iwata, All rights reserved.

(a)中国を楽しく旅行する(術)主頁 中国旅游記目次
中国語学習ノート目次 中国旅游ノート目次