1949年7月15日夜8時過ぎ、当時の国鉄三鷹電車区の引き込み線から7両編成の無人電車が暴走し、道路を越え民家へ突っ込み、6名が死亡、20名近くが重軽傷を負った。「三鷹事件」である。
事件発生から60年目に当たる今年、7月14日まで東京の武蔵野芸能劇場で展示会が開かれた。7月15日には『三鷹事件から60年、あらゆるえん罪を許さない集い』(武蔵野公会堂)もある。
武蔵野芸能劇場の展示会場
三鷹事件の直前の6日未明には常磐線の北千住−綾瀬間で下山国鉄総裁が謎の轢死体で発見され(下山事件)、更に8月17日には福島県松川町で常磐線の列車が線路の犬釘を抜かれて脱線転覆し、機関士と助士が死亡(松川事件)する謎の重大事件が3件続いた。
その背景には、当時の日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)と政府の方針で大量の首切りがあり、国鉄にも9万人余りの首切り通告があって労組と対立していたため、当初、「共産党の組織的犯行」とされた。
民家に突っ込んだ「暴走車両」
この事件で10名が起訴されたが、一審では非共産党員の竹内景助被告の単独犯行とされて無期懲役、他9名を無罪となった。
控訴審で竹内被告に死刑判決が下り、更に上告審で最高裁は8対7の1票差で死刑を確定させた。事件報道の中で「読売新聞」が運転台の主幹制御器を紙紐で縛った写真を掲載した。この写真が事故車両の物ではないことが確認され、更に、事故当時、竹内被告が職場の風呂に入り同僚と言葉を交わした「アリバイ証言」(その時、事故で停電)などは無視された。
当時の最高裁大法廷
再審のための予審が始まり再審開始まであと1ヶ月程の67年1月18日、竹内被告は46歳で獄死した。獄死の理由は「脳腫瘍」で、頭痛や記憶障害などを訴え明らかな病状があったにも関わらず、独房に入れたまま放置された結果であった。その事実は後に賠償請求で裁判所が認定し、慰謝料の支払いを命じている。しかし、再審請求は叶わず竹内被告は有罪のまま天国に逝った。
冤罪は昔の事ではなく、志布志事件、富山氷見事件、足利事件……などと今も続いており他人事ではない。三鷹事件も法的に元に戻すことは困難だが、「この事実を忘れまい」として、この各種資料の保存と展示などの努力を高く評価したい。
・「三鷹事件から60年 展示会」(7月11日〜14日、武蔵野芸能劇場)
・「三鷹事件から60年〜あらゆる冤罪を許さない集い」(7月15日午後1時半、武蔵野公会堂) 講演:高見澤治弁護士(『無実の死刑囚 三鷹事件竹内景助』著者)
(下の写真はクリックで拡大します)
事故運転台の「主幹制御器(マスコン)」
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事故車両の「検査記録簿」
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