ソ連崩壊後、初めてロシアが他国に軍事介入したグルジア紛争発生から8日で1年。ロシアが独立承認した南オセチアや、ロシア軍に侵攻されたグルジアはその後どうなったのか。紛争の舞台となった現場から報告する。
道路わきに突然、盛り土で囲まれた直径100メートルほどの陣地が出現した。向こう側に軍用車両とロシア兵が潜んでいるのに気づいた時は、記者が乗った車は猛スピードで駆け抜けていた。
南オセチアの中心都市ツヒンバリから山道を車で3時間。グルジアとの「国境」にあるアハルゴリ村を見下ろす高台にロシア軍が新しい基地を建設している。首都トビリシまで約50キロ。近くに欧米がロシア迂回(うかい)ルートとして建設したバクー~トルコ・ジェイハン間の石油パイプラインが通る。グルジアや欧米に“にらみ”を利かせる絶好の位置だ。
グルジア人、オセット人が混住するアハルゴリと周辺地区は、91年のグルジア独立とその後の内戦を経て当時の南オセチア自治州からグルジア政権の支配下に入った。だが、昨年の紛争で南オセチア独立派政権が「奪還」し、地名をロシア革命の指導者レーニンにちなんだソ連時代の「レニンゴリ」に戻した。戦闘はなかったが、ロシア軍を恐れた約5000人のグルジア人住民が避難した。
グルジア政権支配時代にロシアに脱出し、昨年8月15日に帰還したオセット人のガラバエフ副村長(62)は「(グルジアの)旧行政機構幹部は住民を見捨て、役所のコンピューターを奪って逃げた。その後グルジア警察が村を管理していたが、我々との交渉で立ち去った」と語る。
小中学校で教えていたグルジア史はカリキュラムから外され、グルジア政権が民営化したビール工場は「再国営化」された。だが今も住民の半数はグルジア人。年配者らが故郷を離れるのを拒んだためだ。娘2人がトビリシで大学に通う雑貨店経営のグルジア人、マクバラさん(50)は「紛争前と変わらない。グルジア人もオセット人も仲良くやっている」と語るが、周囲を気にするようにおびえた表情だった。
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「国境」のグルジア側にあるツェロバニ村。同じ規格の住宅が碁盤の目状に並ぶ。グルジア政府が建設した避難民向けの居住区で、住民約6500人の8割はアハルゴリから逃れてきた。娘夫婦と孫の4人で暮らす女性のナタレさん(63)は「早く村に帰りたいが、今戻るのは不安なので避難を続けている」と話す。
政府は避難民に月100ラリ(約6000円)を支給し、住居費や電気、ガス、水道代は無料だ。居住区では学校や保育園などの建設も進む。避難民組織のコチシュビリ理事長(41)は「アハルゴリの行政機構もここに移り、通常通りの業務を続けている。グルジア政府がアハルゴリを見捨てたわけではない」と強調する。
南オセチア当局は紛争後、「人道的な特別措置」として避難民がアハルゴリの自宅に一時的に戻ったり、親類や知人を訪ねるため「国境」の自由通過を認めてきた。しかし、4日に「新型インフルエンザ流入の恐れ」を理由にすべての「国境」を閉鎖すると発表。開戦1年で再び緊張が高まっていることが背景にあるとみられ、グルジア人避難民は不安を募らせる。
一方、アハルゴリのオセット人住民は「グルジア政府は避難民を生活保障でつなぎ留め、我々が帰還を拒んでいるかのように吹聴している」とグルジア側を非難する。
かつてともに暮らしていた住民の心にも、分断による溝が生じつつある。【アハルゴリで大木俊治、ツェロバニで大前仁】
毎日新聞 2009年8月7日 東京朝刊