昔カフェだった自宅の玄関にはショーウインドーが突き出ていた。ガラスは吹っ飛び、板とゴザをひくとちょうど縁側のようになった。畳が懐かしいのか、溶岩が流れたような顔の人が「休ませてください」「水をください」と寄ってくる。焼けただれた唇が合わず、茶わんから飲むことができない人には、土瓶で口に水を注いであげた。
「怖いというより気の毒でした。いまでも思い出します。いい年した大人が10歳の私を拝むんですよ、こうやって……」。美輪さんが胸の前で手を合わせた。「ずいぶん多くの人に末期の水を飲ませました」。そんな状態が終戦後も2カ月近く続いた。
美輪さんは浦上天主堂の近くにあった母方の祖母の家に向かったが、がれきの山があるだけだった。後に原爆で伯母が亡くなったと知る。
「とにかく臭い。死体のような塊がいたる所に転がっている。親子の遺体は必ず子供がおなかの下に。抱きかかえるように覆いかぶさって、自分は焼け焦げても子供は助けたいと思ったのでしょう」
毎日新聞 2009年8月7日 東京夕刊